第3話 藍島大活躍

 俺は地獄での修業に疲れ果てていた。

 閻魔様は「藍島あいじまよ、地獄から出たくはないか?」と尋ねてきた。

「出たいです」

「それなら今川義元を助けよ」

 俺は戦国時代に旅立った。

 

 正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利に気を良くした。

 義元は「フォッフォッフォーッ」と紀美野輪類雄叫びを上げた。

 13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。

 織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。

 今川軍の総勢は2万人であったとされるが、当地は今川方からすれば支配地ではないためその中に兵站維持のための荷駄兵などが多分に含まれ、加えて今川方は兵を分散させていたこともあり義元を守る実兵力は5,000人から6,000人に過ぎず、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍を振るう乱戦となった。

「絶対に勝てるぅ!」

 義元は自信満々だ。

 毛利良勝、服部一忠を俺は上空からライフルで撃ち殺した。

「ダメだよワッハッハー!!」と、俺は大笑いした。

 

 💀今川 👹織田

 💀庵原元政いはらもとまさは駿河国庵原城主・庵原忠胤の子とされるが、庵原氏には多数の系図が現存し、忠胤と元政の関係には異説も多くその実態は未解明な部分が大きい。


 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで織田信長軍の急襲に遭い主君・今川義元共々討死したとも、生き残り永禄11年(1568年)の武田信玄による駿河侵攻に父・忠胤を大将に先陣の旗頭として出陣しているともされる。


 元政は槍で本隊の森可成や柴田勝家を刺し殺した。

「後歯尾打野武奈蛾打毛打奈」

 元政は笑った。


 信長は佐々成政や池田恒興に護られながら退却した。

「東急リバブル」といきなり成政が言ったので、信長はハッとしてキュッとした。

 元政は「後は織田信長だけだな」と言ったのだと成政はスグに分かった。

 成政は武勇の士を好み召し抱えに熱心であった。召し抱えの際に5000石の知行を約束しては6000石や7000石の知行を与えることもあった。そのため、成政のもとに武勇の士が馳せ参じた。

「おとら狐ってのがこの辺に棲んでるって話じゃ」

 恒興が言った。

 おとら狐は人間に取り憑き、様々な悪戯する妖怪で、取り憑かれた人間は常時では考えられない言動を行う。「おとら狐」の語源はおとらという娘に狐が取り憑いたことから。

 取り憑かれた者は左眼から眼脂を流し、左足が病むという。これは、かつて長篠の戦いにおいて鉄砲の流れ弾を受けた為と言い伝えられている。憑かれる者の多くは病人であり、憑かれると長篠の合戦のことや身の上話をよく語るようになるともいう。


 おとら狐が人に憑くのは、本来長篠城の稲荷社の使いであったおとら狐が、長篠の合戦後に社を放置されたことを恨んでいるためといい、後にそれを鎮めるために長篠城の城藪稲荷におとら狐が祀られたと伝えられる。後に社は、愛知県新城市の大通寺に移されている。


 成政はお虎狐に取り憑かれた。

「信長の奴、死ねばいいのじゃ」

 恒興は不審に思った。

 信長たちは清洲城に戻った。

 🏯応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。または永和元年(1375年)とも。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清洲城に移転することで尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」の当主織田信秀が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能した。


 織田信秀が古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)織田信長と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城とした。1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。


 天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。


 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。


 慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転された(清洲越し)。清須城も名古屋城築城の際の資材として利用され、特に、名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる。慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となった。

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胃魔我和夜市模戸 鷹山トシキ @1982

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