4日目 今夜は離れない

4日目 Ⅰ

 どこか遠くで音がする。



 クソ上司の声がする。



 お姉さんの声がする。



 川のせせらぎの音がする。



 二人目の男の人の声がする。



 アイスを食べる音がする。



 三人目の女の人の声がする。



 誰かの声がする。




 一人目の少年の最期の声がした。




 ※




 スマホが鳴っている。




 暗闇の中、寝ぼけ眼を擦りながら、画面を見た。画面には『クソ上司』という文字が浮かんでいる。まあ、このスマホにかけてこれるのこの人しかいないんだけど。


 私はいまいち回らない頭で足を動かしながら、お姉さんを起こさないよう、そっとベランダに出て、通話ボタンを押した。


 「もしもし」


 『ゆなだな』


 響いたのは低く、どことなく疲れた様子の声。私の上司たる死神の声。


 「ですよ。ていうか、いま何時かわかってます?」


 『午前4時21分……だろ』


 「ご丁寧にどうも。お姉さんが起きたらどうすんっすか。睡眠不足は幸福感のなによりの邪魔なんっすよ」


 『悪いな、色々手続きしてたんだ。最近は自殺の数が多くて立て込んでるからな』


 そう言いながら、上司は軽く欠伸をしながらカタカタと音を鳴らしている。多分、携帯の向こうではパソコンを操作して何かしているのだろう。死神業務のどこら辺にパソコンがいるのかは、私にはさっぱりわからないけど。


 「たーいへんっすね。で、そんなお忙しい上司様がなんの用っすか」


 『進捗確認だ』


 平坦な感情のない声が、無機質にそう告げた。思わず、ため息をつきながら適当に声を軽くして返事をする。


 「たのしくやってまーす。じゅんぷーまんぱんですわ」


 『知ってる、見てるからな』


 折角、人が報告してるのに、あまり興味なさそうに返答を飛ばしてくる。聞いてきたのお前やろがい。


 「千里眼かなんかっすか。それで人の着替えとかも平気で覗けるのはどーかと想うんですけど」


 『そんなことするか。その気になればできるが、こっちも忙しいんだ。で、クライアントの状態は?』


 その気になればできるのかよ、と若干嫌悪感を抱きながら、私は軽くため息をついた。


 「さあ……少なくとも幸せそうっすよ。社畜としてこき使われてる時よりは」


 『なによりだ。そのまま、終わりの時まで安らかでいてもらえ』


 ……私は正直、死神って仕事がよくわかっていない。ただ、上司の口癖はいつもこうだった。決まってそう、『終わりの時まで安らかにいてもらえ』って。


 「…………言われなくても、そうしますよ」


 思わずスマホを握る手に力がこもる。私は別に死神の責務で、お姉さんの終わりの時を幸せにしようとしてるわけじゃないから。


 『……ゆな』


 「なんすか」


 『ルール1、復唱してみろ』


 上司はそうゆっくりと、特に感情をこめず事務的に告げた。


 「……『死神は憑いた相手の命を救ってはいけない』」


 ……言われなくても解ってる。結局、どこまでいっても私は死神だ。


 『よし。じゃあ、あとは好きにやれ』


 「………………」


 事務的で、どこか投げやりな応対に怒りが滲むのを感じながら、私はぐっと歯噛みした。


 『それとな』


 「なに」


 ああ、早く、切りたい。



 『今日、お前の一人目のクライアントが



 「………………」


 一瞬、言葉が止まった。


 『祈るくらいしとけよ』


 そう言って、通話は切れた。


 じっとスマホを見つめて、窓の外から放り出してしまいたくなったけど、拾いに行くのがめんどくさかったからやめた。


 ただ胸の奥のどこかむかむかとした感覚だけはどうしようもなくて、あてもなく歩き回りたくなった。


 でも、部屋でばたばたしてたら、お姉さんが起きてしまう。


 しばらくの逡巡の末に、結局、私はホテルの部屋を飛び出した。


 まだ陽も昇っていない明け方だし、危ないことはないし、大丈夫。すぐ戻ってくればいい。


 ドアをそっと開けて廊下に出て、なんだかやるせない気持ちを抱えたままエレベーターまで行って一階に降りた。


 エレベーターを降りて無人のエントランスを抜けて、自動ドアの向こう側へと歩いていく。


 そうやってホテルを出ると、まだ暗い空の中、風がごうっと吹いていた。


 頬を撫でる。冷たい感覚がある。だってもう、そろそろ10月だもんね。


 誰もいない町だけど、車は時折通り過ぎてどこかへ向かってる。


 そういえば死神になってからは結構、怖いんだよね、車。


 私を見えていない彼らは、横断歩道にいても決して止まってはくれないから。クソ上司にも『道の真ん中や人通りの多いところには気をつけろ』とは散々言われているし。


 ある時、なんとなく気になって、『死神が死んだらどうなるの』って、上司に聞いたら、『普通に死ぬ』って言われたっけ。なんだそりゃって感じだった。


 いや死ぬんかい、死神のくせに。


 なんて、軽く笑ってから、私は思いっきり息を吸った。




 それから。


 

 叫んだ。



 あらん限りの声を。



 いいんだ、どうせ、どこの誰にも聞こえない。


 早朝に叫ぼうが、私の声ではどこの誰だって起きやしない、気付きもしない。


 喉が破れて、引き千切れてしまいそうなほど、声を張り上げた。自分の鼓膜が破れてしまいそうなほど、狂ったみたいに泣き叫んだ。


 どうせ、どうせ、誰も知りはしないのだから。


 限界まで震えて叫んだ。


 身体が、もう泣き叫ぶなんて懲り懲りだって嫌がるくらいに泣き叫んだ。


 痛みは要らない。


 苦しさも要らない。


 辛さも要らない。


 お姉さんの残りの人生の想い出にそんなものは微塵も必要ない。


 もっと、楽しい思い出を、きらきらした時間を、笑顔に満ち溢れた記憶が必要なんだ。


 だから、今のうちにここで見えないように、余分なものは濾しとっていく。


 そうしたら、あなたはきっと幸せなまま終われるからさ。


 うずくまったら、顔からぼたぼたと醜く何かが零れ落ちていく。


 落ちろ、堕ちろ、こそげ落ちろ、見せるわけには、悟られるわけにはいかないのだから。


 電車に飛び込む少年が瞼の裏に滲んだ。


 ドアノブで首を吊った男が頭の裏にへばりついた。


 カフェイン剤を何錠も飲んで吐き散らして震えた女が眼球の奥にこびりついた。


 引き剥がせ、削り落とせ、忘れろ忘れろ。



 今日、この空の下のどこかで彼は死ぬ。



 止めろ。忘れろ。


 忘れろ。


 忘れろ。忘れろ。


 お願いだから、忘れて。




 お願いだから。




 忘れてと、そう祈った。





 ごめんね、とも加えて祈った。





 朝日も昇らない、街の中で独り、今日死ぬどこかの少年に祈った。




 祈ったんだ。








 ※

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