杉ちゃん乱を弾く
増田朋美
杉ちゃん乱を弾く
今日は何でも、中秋の名月だそうである。暑いなあと思われるけど、もう暦のうえでは、中秋と言われる、秋真っ盛りの季節なのだ。そんな中、今日は、観音講の特別イベントとして、花村さんが、お琴を尼寺の本堂で演奏することになっていた。もちろん、観音講の受講生たちは、みんな演奏を聞くために残ってくれるのかと思いきや、みんな演奏なんか興味を持たず、さっさと帰ってしまうのである。
「あーあ、なんかみんな帰ってしまうのかぁ。なんかお琴なんて聞きたがるやつはいないのかぁ。」
結局、お琴演奏を聞くために残ってくれたのは、杉ちゃんと、一緒に観音講を聞きにやってきた、製鉄所の利用者である、安室さんという女性だけであった。
「二人だけでも、かまいません。聞いてくれる人がいてくれれば、喜んで演奏いたします。」
花村さんはそう言って琴の前にすわった。
「じゃあ、予定通り、乱という曲を演奏いたしますから、あまり難しくかんがえず、穏やかな気持ちで聞いてください。」
何故か、杉ちゃんが連れてきた、フェレットの正輔も輝彦も、花村さんのお琴を、しげしげと眺めていた。
「じゃあ、いきますよ。」
花村さんは、乱を、弾き始めた。正確には乱輪舌というこの曲。お琴を、やる人であれば、必ず一度は経験すると言われる、お琴の名曲である、のだが、いまはつまらない音楽と言われてしまっても、仕方ないかもしれないほど、演奏する機会はへってしまっている。
「すごい、気持ちが引き締まるような曲ですね。」
思わず安室さんが言った。演奏が終わったあと、杉ちゃんと彼女は、花村さんに向かって拍手をした。
「ありがとうございます。よく、春の海を弾いてくれと頼まれるのですが、私は、山田流なので、それは、お断りしているんです。皆さん驚かれるんですが、琴には、生田流と山田流とありましてね。圧倒的に生田流が多いものですから、皆さん山田流の事は何もご存知ありません。逆に、山田流の有名な曲と言うのは、言ってみれば何もないんですけど。」
花村さんは、そういう事を言った。
「はあ、その乱という曲は、山田流の代名詞ではないの?」
と、杉ちゃんが言うと、
「いえ、違います。この曲は生田でも、山田でも弾かれますよ。今回は、正派と呼ばれる派閥の楽譜を使わせてもらいました。山田流の出版社である博信堂は、」
と花村さんが言いかけると、
「ああ、当の昔に潰れたんだったよな。そうだろう?それでみんなは、生田流の曲を弾いている。そうだろう?」
と、杉ちゃんが言った。
「ええ。そういう事になっております。まあいくらバカにされたり、笑われたりしても、事実なので、仕方ありませんね。それは、しっかりいわなきゃいけないと思うんですよ。山田流というのは、消えかけた流派であることは間違いありません。生田流の助けを借りないと、演奏ができないということです。」
と、花村さんは、杉ちゃんの言葉に、直ぐに言った。
「そうかあ、僕も、ちょっと前に宮城道雄の手事を習ったことがあるけど、あれは生田流の曲だったからな。確かに、かっこいい感じの曲だったが、なんとなくだけど、変な気がしないわけでもなかった。それよりも、こっちはなんか、威厳があって、すごい感じがする。」
杉ちゃんは、そういった。花村さんは、その言い回しにもにこやかに笑っただけだった。
「そうですね。確かに衰退の一途を辿っていますからね。私達も、楽譜が入手できない曲をやるよりも、ほかの流派の曲でもいいから、楽譜が手に入るものをやるしかないのです。」
と、花村さんは、急いで言った。
「じゃあ、花村さんは、正当な山田流の楽譜を持ってるの?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「ええ、正当というか、手書きの楽譜なら持っています。私が、お琴を習いだしたときに、私の家族にもらったものです。」
と、花村さんは答えた。
「それでは、その正当な乱を教えてもらえないだろうかな。前に、生田流の手事を習ったから、今回は、山田流の、乱を教えてもらおうかな。」
杉ちゃんがいうと、
「ええ、大丈夫ですよ。じゃあ、杉ちゃんはすでに琴の扱いには慣れているでしょうから、とりあえず、琴の前に座ってみてください。」
と、花村さんが言ったので、安室さんが、杉ちゃんを琴の前まで動かしてあげた。花村さんに差し出された爪を、杉ちゃんは、親指、人差し指、中指にはめた。生田流の爪の形は、四角い形だが、山田流の場合、古筝の爪とよく似た尖った爪を使う。杉ちゃんは、爪の形まで違うのか、と驚いていた。
「いいですか、生田流の座り方は、琴に対し斜めに座りますが、山田流は、正面に座ります。ちょっと車椅子の方にはむずかしいかもしれませんが、座り直してみてくれますか。」
と、花村さんが言うと、安室さんが、杉ちゃんの車椅子を、正面に座るように動かしてくれた。
「はい。正面に座って、弦を掴むように手を乗せてくれますか?」
と、花村さんは、杉ちゃんにいった。杉ちゃんがそのとおりにすると、
「はい。それでは、お琴の弦番号に従って弾いてみましょうか。はい、一、五、一、五、一、一、、、。」
花村さんの指示通りに、杉ちゃんは番号の弦に爪を当てた。杉ちゃんは、読み書きはできないのに、そういうときは覚えが速い。すぐに花村さんの指示に従って、乱を弾いてしまった。
「はい、いいですね。すぐに覚えられるところがすごいですね。なかなか、そういう覚えの良い方は、いませんよ。」
と、花村さんが言った。杉ちゃんという人は、一度覚えると忘れないという特性も持っていて、すぐに乱れのフレーズを、きれいに弾いてしまうようになるのだ。
「全く、生田流の曲と、山田流の曲を同時に習うなんて、そんな人どこに居るんでしょうか。大体の人は、山田流と、生田流の人で喧嘩して、同時に習うなんてことは絶対にしませんよ。ましてや、山田流と交流を持ったりして、破門される例もあるそうですから。」
「そうなんだねえ。同じ楽器なのに、そうやって、喧嘩するんだなあ。なんで、そうなっちまうんかな。生田山田で合奏ということは、どうしても、できないのかな?」
杉ちゃんは、冗談めかしてそう言うと、
「そうかも知れませんね。まあ、山田流と生田流が仲良くする例は、絶対にないでしょう。」
と、花村さんもそういう事を言った。
「そうなんですか。なんだか、寂しいですね。同じお琴なのに、違う流派が、喧嘩しあっているなんて。」
不意に安室さんがそういう事を言う。
「寂しいですか?でも仕方ないんですけどね。」
と、花村さんがそう言うと、
「せめて生田山田と同時に学べるといいがなあ。生田の人が山田を学ぶのに破門なんて、ちょっとひどいよ。」
杉ちゃんも言った。
「じゃあ、もう一回やらせてくれ。なんか新しく獲得した、山田流を、もう一度やってみたい。」
花村さんは、いいですよと言うと、杉ちゃんは、また乱を弾き始めた。お上手ですねと花村さんが言うと、いやあそれほどでもないよと、杉ちゃんは、にこやかに笑った。
「なんか、私も、琴、習ってみたくなった。そういう打ち込んでやれることがあったら、覚醒剤もやめられるかな?」
と、安室さんはいう。実は彼女、覚醒剤で捕まったことがあった。受験勉強がはかどるからと言う理由で覚醒剤をインターネットで買って、未成年だったから、鑑別所に入っていた事もある。刑務所に行くことはなかったが、2年ほど、少年院で生活した事もあった。
「ほう、いいことじゃないか。そういう生きるきっかけと言うのかな、そういうことが掴めたら、また何かできるかもしれないぜ。」
と、杉ちゃんは言っているが、そういう犯罪者がお琴教室にはいるということは、お教室の名前に傷が着く事もある。
「ええ、構いません。お教室は、空きがありますし、どうぞ、お入りくださって、大丈夫ですから。」
と、花村さんが言った。
「良かったな、良かったじゃないか。これでやっと、お前さんも覚醒剤を辞めるというきっかけができるかもしれないぜ。まあ、覚醒剤を辞めるというのは、すごい苦労が居ると思うけど。それは、まあ、やっちゃったことがやったことだから、しょうがないよ。まあ、気長に付き合っていくつもりで、ゆっくりやれや。」
杉ちゃんがにこやかに笑った。
「口で言うのは、簡単ですけど、覚醒剤は、大変でしょうからね。今でも、幻聴とか、そういう症状があるんでしょう?」
と、花村さんが彼女に聞く。
「ええ、そうなんです。時々ヤクザが襲ってくるとか、そういう夢を見ることがあります。」
安室さんは、すぐに答えた。
「なんでまた、覚醒剤なんてものに手を出したの?」
杉ちゃんが聞くと、
「ええ、どうしても寂しかったの。みんなは、受験勉強がこんなに辛いってこと、いくら訴えても、何もわかってくれなくて。家族は、それで当たり前のことで、みんな誰でもやっていることだからで片付けるんだけど、私は、苦しくてしょうがなかった。それで、これを使ったら、楽になれるとインターネットで知り合った人にいわれて。それが覚醒剤だったことも知らなくて、結局一度使ったら、やめれなくなってしまって。それで、私の人生は終わりになっちゃった。親が、鑑別所に送って、私は、もういらない存在になっちゃったわ。もう私は、いてもいなくてもいい存在ね。早く消えればいいのかな。何かもう、人生はいらないかな。」
と、安室さんは答えた。
「そうですか。私達も、似たようなところがあるかもしれません。いらない存在というところでは、似たところがあります。お琴という楽器だって、生田流の人がいればいいのではないかと思うことさえあります。山田流なんて、いなくてもいいんじゃないかと思ってしまうことだっていくらでもありますよ。」
安室さんの話に、花村さんはにこやかにいうのである。ちょっと内容は違うのかもしれないけど、似たような寂しさを抱えているのかもしれない。
「でも、みんな、そういう事は、多かれ少なかれあるんじゃないでしょうか。どこか、社会から、外れてしまっているような、そういう気持ちになることは、一度や二度は、あるのではないかと思います。」
「そうなんだね。まあ、そういう事言えるのは、偉い人だからだろ。普通の人は、まずはじめにそういうセリフはいえないわな。」
と、杉ちゃんが言った。
「でも、あたし、本当にお琴を習えば、覚醒剤辞めることができるかもしれない。だって、あたし、どこにも居場所がなかったけど、先生のところに行くっていうことができるだけでも、私には大きな一歩でもあるから。」
そういう安室さんに、花村さんは、いつでも習いに来てくれていいですよ、と、言って、にこやかに笑っていた。
「じゃあ、これから、お琴教室へよろしくおねがいします。」
「わかりました。一応月に三回から、四回の稽古に来てもらうひつようがありますが、病状の事もあるでしょうから、その都度その都度の予約制でも結構ですよ。稽古に来てくれたときに、次回の稽古の希望日を教えていただくような感じでどうでしょうか?」
花村さんが、そう言うと、
「わかりました。私、必ず参ります。頑張って、杉ちゃんみたいに、乱が弾けるようになります。」
と、安室さんは、まるで選手宣誓するように言った。
その日は、お琴にまつわる世間話を交わしただけで、杉ちゃんたちは、お寺から製鉄所に帰った。もう帰る場所のない、安室さんは、とりあえず今は製鉄所に泊まり込みということになっているが、いずれはどこかに住むところを見つけなければならない。それは、製鉄所を利用するための大事なルールになっている。ここを終の棲家にしないこと。これを破ってはいけない。利用者は、いずれは出ていくことになるのだ。
一週間ほど経って、杉ちゃんが製鉄所を手伝いにやってきた。製鉄所の雑用係をしていた水穂さんが、床に伏してしまってからは、彼の世話をすることも兼ねて、杉ちゃんが頻繁に製鉄所に来訪している。製鉄所という名であるけれど、鉄を作る施設ではなく、勉強をしたり、デスクワークをするための場所を貸している施設である。利用するひとは、家や学校などに居場所がない人が多いが、安室さんの様に、少年院や刑務所に入ったことがある人もたまに見かける。
「杉ちゃん、安室さんが起きてこないんですよ。何があったんですかね。」
と、一人の男性利用者が、そういう事を言った。杉ちゃんは、はあという顔をして、
「あれれ、今日は火曜日で、彼女は、お稽古に行かねばならないのだが?」
といった。杉ちゃんの腕に抱かれたフェレット二匹も、なんだか心配そうな顔をしている。
「そうなんですけど、彼女、いくら起きてくださいと言っても、布団をかぶって、起きてこないんです。」
と、利用者は言った。杉ちゃんは、わかった、ほんなら、僕が行くと言って、製鉄所の建物内に入って彼女の居室に言ってみる。
「おい、お前さん、今日は、お琴教室の日だろ。早く起きないと、お教室が逃げちまうぞ。」
と、杉ちゃんが彼女の部屋へ行ってドアを叩くと、
「嫌!怖い!やめて!」
と、安室さんの叫び声が聞こえてくる。杉ちゃんはなんにも悪びれずにドアを開けて、
「はあ、また覚醒剤の後遺症が出たのか。まあ、困っちまうな。だけど誰も、お前さんのこと怖がらせるようなやつは誰もいないから、安心して。」
と、杉ちゃんはでかい声で言った。
「それより、お琴教室行くんだろ。早く支度をしろ。お琴習うって言ったら、覚醒剤をやめられるって、言ってたじゃないかよ。」
「そんな事はどうでもいい!怖い、やめて!」
と、布団をかぶったまま、そう言っている安室さんに、杉ちゃんは、布団を彼女のからだから剥ぎ取った。
「ほら、僕も居るし、正輔も、輝彦も居るよ!怖がらせるようなやつはどこにもいないさ!よくみな!」
確かにそこに居るのは、車椅子に乗っている杉ちゃんと、正輔くんと輝彦くんという二匹の小さなフェレットたちだった。
「お前さんも、過去にあった妄想に囚われるな!僕達がちゃんと居ることに、意識を持ってくれ!」
と、杉ちゃんは言うのだが、杉ちゃんの言い方はかなり乱暴なため、そういう言葉を言ってくれても、叱られている様に見えてしまうのだった。そういう事は、繊細な人だったら、怖がってしまうに違いない。
「きゃあ怖い!ヤクザのおじさんみたい!」
と、杉ちゃんを見て、彼女、安室さんは言った。
「ヤクザのおじさんじゃないよ!」
と杉ちゃんもいうのだが、たしかに着物を着ていて、おっかない人に見えてしまう感じがしないわけでもない。
「お前さんは、お教室へ行くんだよ。ほら早く、こっちへ戻ってきてさ、それでお教室行く支度をしてくれや。一度発言したことは、忘れちゃいけないぜ!」
杉ちゃんが言うと、安室さんは布団から起きて布団の上に座った。なにか周りを確認しているようだ。
「ほらあ、お前さんの周りに怖い人は誰もいないだろう。よく見ろよ!」
杉ちゃんにそういわれて、安室さんは周りを見渡すが、
「きゃあ怖い!」
とまだいうのだった。それと同時に、フェレットの輝彦くんが、
「ガブーッ!」
と彼女の指に噛み付いた。正輔くんも一本だけの前足で、彼女の腕をガリッと引っ掻いた。
「痛い、何するのよ!」
彼女は言うけれどこれが良かった。彼女はこれでやっと、覚醒剤の症状から開放されたらしい。ハッとしたような顔をして、周りを見渡し、
「あたし、どうしたのかしら。」
と小さい声でいった。
「ああ、お前さんは、覚醒剤の後遺症で僕のことをヤクザだと勘違いして、泣いていた。それだけのことだ。」
と、杉ちゃんがすぐに即答した。
「まあ、今回は、誰かを傷つけたりしなかったから良かったけど、誰かに怪我をさせるとか、そういう事をしないでよかったねえ。それがあったら最悪だ。」
「本当に、私おかしかったのね。ごめんなさい。変な事してしまって。」
という彼女だが、
「まあ、それはしょうがないよ。悪いのは覚醒剤というもんが悪いんだろうが。どうせお前さんは、それと付き合っていかなければならないし、僕達もそうしなければならないことは知っているから、まあ、しょうがない気持ちで生きていくしかないだろうね。それより、きょうしなければならないことを考えるんだな。自分の持っているもののせいで、自分のやることがぶっ壊れるほど、辛いことはないからな。じゃあ、直ぐに着替えをして、お琴教室行くんだよ。ほら、早く、そうしろ!」
こういうときに、お前はだめだとか、そういうジャッジをしてはいけない。ただ、こうしろと指示を出すのが一番の得策なのを、杉ちゃんたちは知っている。ここでやっと輝彦くんが、安室さんの指から離れてくれた。安室さんは、わかりましたと言って、直ぐに今日来ていく予定だった、洋服を探し始めた。
「じゃあできたらタクシーを呼んで、花村さんのところに行ってこいよな。花村さん、首を長くして待っていると思うぜ。」
とだけ言って、部屋をあとにした。ほんとは、最後まで見届けておきたいが、男性が女性の着替えを覗くのは、失礼というものになってしまうような気がしないわけでもない。
数分後。
「タクシーの番号は、何番でしたっけ。」
と言いながら、彼女が部屋から出てきた。杉ちゃんは、良かったと言おうと思ったが、それはやめて置いて、電話台の上に置いてある、電話番号の一覧を顎で示した。
「わかりました。ありがとうございます。」
と、安室さんは、急いで自分のスマートフォンでタクシー会社に電話をかけ始めた。杉ちゃんは、ああ良かったと大きなため息を付きながら、お前さんたちもよくやってくれたなと、二匹のかわいい英雄たちの背中を撫でてやったのであった。正輔君も輝彦くんも、ちょっと疲れた顔をして、杉ちゃんの方を見たのであった。
杉ちゃん乱を弾く 増田朋美 @masubuchi4996
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