第5話
実況中継
仏教をかじっている人間として画期的な考えだと思ったことに、スマナサーラ長老の「考えるのをやめなさい」という説法がある。
人間というものは「考える葦」だと言った哲学者がいた。現代人はまさに、この考え方の延長にあるのである。
仏教は「我思う。ゆえに我あり」という立場に立たない。生まれ持った我というシステムを、もっと見つめなさい、そしてそのシステムが本当に正しいのかどうか、実際にあるのかどうかを見極めなさい、と言う。
ただしそれは哲学的な思索によって見極められるものではなく、自分の行為を常に「実況中継」することにより、我と思っていたシステムが、煩悩に基づくものだとわかるという。
かくいう自分は昔から哲学が好きだった。
なんか偉くなったような気がした。
考え、考え、考え抜く…。
しかし一歩引くと、それは「妄想が回転」しているだけのことに過ぎなかった。
水の波紋を考えればわかるが、一旦水が波立つと止まることなく、次から次へと波を起こすのだ。それと同じようなことが心でも起きているだけに過ぎなかった。
また別の例で言うと、ある被害を誰かから受けたとする。自分は一生、そのことを一生覚えていて、その加害者に対して恨みを募らせる。
その考えが、水の波紋のようにいつか消えるのならいいが、妄想を呼び寄せ、肥大化し、引いては自己を苦しめる毒になる。
我というシステムから脱却しない限りは、その生き方からの脱却は難しい。
極端に苦しんだり、極端に喜んだりして振り子のような生き方を、自分は自然と選んでいたのだ。
自分の理解は浅いと思うが、だいたいそのような理解に至った。
何より、10代の頃からあった自分の苦しみの元を知りたかった。仏教だけが答えを持っていた。
過去の自分がそうであったように、誰からも教わることなく、煩悩のままで生きるのが普通だと思う。煩悩を抱えているから苦しくなり、その反動で享楽主義にも陥ってしまう。
哲学を勉強しても、文学作品を読んでも、よりよく生きることにつながらなかった。少なくとも自分の場合は…。
(※仏教は、現世利益的な我というよりも、遠い昔から転生を重ねてきた「業のシステム」で生きていること自覚するようにと説いている気がします。
その上で苦しみしかない、と悟った人からその輪廻から脱出できるようにと手助けしているのが仏教です。)
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