第5話 東アフリカ一人旅 前編

floccinaucinihilipilification.

 GWも終わりました。5月16~17日に奈良大峯山(奥駆)に修験者に負けじと修行に行く予定でしたが、先日の愛知県新城市のトレールの失敗で自分の体力、気構えを省み、準備不足と判断しました。準備に一年かけようと思っています。

 アメリカから帰国後の36歳では少々再就職に手間取りましたが、アルバイトなどを経て数年後、航空写真をベースにした測量会社に就職し、技術計算言語(フォートラン)を使用して地図情報システムを構築するという一見やりがいのありそうな仕事に就きましたが、実のところ顧客が自治体であることが多く、税金の無駄使いを強く感じました。

 国の指導で各市町村に道路台帳を作らせるのに一役かっても、納品した道路台帳はほとんど埃をかぶって、倉庫に眠っているそうです。他にも、中身が利用されることもないラベルのみの磁気テープを納品したり、17時からは仕事よりもマージャンが大事であったり、国に提出するレポートを彼らの名前でこちらが執筆・発送したり・・・。

 本作業に入る前に調査書を作成するのですが、良いものを作っても労組を説得させられなければ先に進めず、毎年のように似たような調査書の作成の繰り返し。それでも自社には作成費が入り社員には給料は入りますが、これらはすべて市民の血税によるもの。たまりかねて平成2年8月退職しました。

 その後、退職日が決まってから受験していた会社から一次試験パスの通知が届き、二次面接で合意に達した後遠慮がちに、入社日を2ヵ月遅らせてもらえないかと話したところ即座に承諾が得られ大満足。

 先の会社ではハイキング同好会に属しており、メンバーの女性(Mさん)が、退職したらマッキンレーに登りたいと言ってたので、じゃあ自分はチャンスあればキリマンジャロだなとそのとき思っていました。

 新職場の仕事は自分の専門職であり、準備は入社してからで十分なので二次面接からの帰路には既に頭の中はキリマンジャロで溢れていました。こうして東アフリカの旅が決定しました。


 平成2年9月5日、Mさんが伊丹空港まで見送りに来てくれたんですが、出発便の到着が大幅に遅れ、翌日の出発になってしまいました。その夜、Mさんから婚約したとの突然の連絡があり、ハイキングで意気投合してから憎からず思っていたので少々ショックでした。

 翌朝少し心の動揺を引きずりながら、一人でナイロビに旅立ちました。夜中到着でやむを得ず初日は高級ホテルに宿泊しましたが、翌日からは慣れてる安宿に代わりました。宿代は、当時のレート(ドル対シリング)で、前泊のホテルの10分の1ぐらいになりました。それにしても航空券を購入した日本の旅行代理店のデータベースリストには16ドルと登録されていたとのことですが80ドルとは! どちらかが通貨単位を間違えたものと思われます。恐らく、16000シリングの間違いでしょう。

 夜中の2時なので喧嘩別れで野宿するわけにもいかず、わずか6時間の滞在で1万5千円ほども浪費してしまいました。帰国後、航空会社にはソフトクレームをつけておきました。

 今回の旅の目的は、1にキリマンジャロ登山、2に野生動物サファリであとはノンビリ。ナイロビはアフリカの暗黒のイメージとは違って、大都会である旨ガイドブックで知っていましたので、ビルの高さには驚きませんでしたが車の多さ、人の多さには驚きでした。小さな古い日本車がとくに多いですね。信号はあったと思うのですがメインストリートは車と人がごちゃ混ぜになっていました。

 早速、サファリツァー会社を探して街を歩いていたら、声を掛けてきた黒人が真面目そうだったので事務所で説明を受けてみると、事務員の女性も感じ良かったし、料金もガイドブックの相場と同じぐらいだったのでそこに決めました。

 3泊4日のツァーで8人のメンバーの中に20代の日本人男子がいて、キャンプでは彼と同じテントに宿泊しました。日本の野生動物番組でもお馴染みのマサイ・マラ国立保護区とナクル湖を巡るもので、過去3度の海外の旅とは全然タイプが違っていて大変新鮮に感じました。

 屋根のないサファリカーでは、立ったまま首だけ上に出して外を見ます。午前が2時間、夕方は1~2時間ぐらいであとはキャンプ場でノンビリ。倍ぐらいの料金でロッジを利用したツァーもあり、ドリフターズの長さんたちがよく利用していたようですが、私には安い野性的なキャンプツァーがピッタリですね。ライオンが一番人気でしたが私はキリンが1番。2番がチータですね。

 キャンプで不便なのはトイレで、ドアーはなくただワラの塀で囲っているだけなので、早朝みんなが寝てる時間を利用しました。

 トイレと言えば一度面白いことがありました。夕方小用に行ったら隣のトイレから“Hello”と声がかかりました。思わずそちらに眼をやるとワラの隙間から若い白人の美人が座ったまま、にこにこ微笑んでいました。気配を感じてなかったので驚きました。“Sorry”と言って外で待機しましたが、トイレから出てきたときも、翌朝顔をあわせたときも笑顔で声を掛けてくれました。日本人だとこうはいかないでしょうね。彼女は別のツァーなので、ここでお別れです。

 夕食後、火を囲んでみんなでわいわいのキャンプファイアも楽しかったですね。前回のアメリカの旅でのグランドキャニオンの時は、一方的に話を聞くだけでしたがここではフリートーキングなので、遠く異国の地でのたわいない会話でも爽やかな良い思い出になっています。ただ一つ、インドからの10代のすごく可愛い姉妹の1人が、もう1人の27歳の日本人に私のことを“Your Father?”と訊いたときはショックでした。私はまだ41歳だったのに・・・。

 ツァーの最後はナクル湖でしたが注目のフラミンゴの数は思ったほどではありませんでした。そこではむしろペリカンのほうに興味がありました。

 マサイ・マラのツァーの後、アンボセリ国立保護区に行くことにしました。その後ナイロビに戻らずにタンザニアに行くので、ビザの申請に行きそこで日本人の若いカップルに会いました。彼らとはその後キリマンジャロ登山で再会することになりますが、ここではすぐ別れました。

 アンボセリはキリマンジャロをその登山口であるモシの街とは逆方向から見られます。ここでは象の家族がずいぶん見られました。バッファローは一頭だけ。それから小さな竜巻が何度か。乾燥がひどく、サファリカーの窓ガラスは埃が流れてました。

 サファリ2日目にサファリカーを降りて小高い丘に登りましたが、帰りに数名のメンバーが私を呼びにきたので何だと思ってついていくと小さな墓標がありました。“故香川美民 ここに眠る.昭和62年1月”とありました。3年前に亡くなった日本人のようです。彼らのために英語に通訳しておきました。

 キャンプ地で賄いを担当している黒人の兄ちゃんの話では、今は乾季だが、雨季は大変なようなので、訊ねてみると、“Very Bad.”と思い切り顔をしかめてました。 サファリが終わり、メンバーのほとんどはナイロビに戻って行きましたが、私の他に“フィリップ”と言う中国人がナマンガと言う国境の街で降りました。国境越えのバスに2人で乗り込みましたが、中国人はしっかりしていますね。私が乗車しようとするのをとめて料金を確認し、安いバスに換え、すぐにはバス賃は払わず出発が遅いとみるや別のバスに乗り換えたり、実にてきぱきと行動します。英語も流暢で感心しました。見習わなければ。

 私は中国に関しては、国家や政治家や資本家は好きにはなれませんが庶民とは合いそうです。彼は終点のアリューシャまでですが、私は乗り換えて憧れのキリマンジャロ登山の拠点の街モシへ向いました。

 相変わらずキリマンジャロは裾野しか見せてはくれません。YMCAに落ち着き、翌朝初めて全景を見せてくれたキリマンジャロの美しいこと! しばし息をするのも忘れそうなぐらい・・・。

 YMCAでは、キリマンジャロ登山ツァーの申し込みができます。早速、翌日出発のツァーを申し込みました。チップは別で$360なり。その後、同じYMCAで、ナイロビで会った日本人カップルに再会しました。彼らも翌日出発ですが、YMCAを通さず、別の個人のツァーを申し込んだとのことでした。

 この時はまだ富士山すら登頂したことはなく、日本第二の北岳(海抜3200mぐらい)が最高点でした。呑気な性格なので高山病などは他人事でやる気満々、ルンルン気分でした。その後高山病でボロボロになるとも知らないでいい気なものです。

 翌朝になりました。さあいよいよ、憧れのキリマンジャロ登山に出発です。

 看護婦さんをしている日本人女性、ドイツ人男性と中国人女性の夫婦の4人のグループになりました。

 アフリカにはスワヒリ語で“Pole Pole=ポレポレ”と言う言葉があります。“ゆっくり”と言う意味ですが、ポレポレがゆっくりなのかポレがゆっくりなのか?・・・未だにつまらない疑問を持っています。

 我々4人に対して、老ガイド1人と4人の中学生ぐらいのポーターが付きました。登りに“Hut=ハット”と呼ばれる二段ベッドの小さな山小屋に3泊し,下りは2泊目と同じハットに1泊します。

 初日、2日目はルンルン気分。調子に乗ってペースが上がるとガイドが、ニコニコしながら“ポレポレ”と言ってきます。途中で再会した日本人カップルと少し長く話し込むと、歩くように言ってきます。

 初日の海抜2700mまでは小さな高山の花やら、沖縄で見られるような小さな根が枝からいっぱい垂れ下がった樹などが多く見られ、2日目の海抜3800mまでは1か所に白い羽を着けたカラスのような鳥や、枯葉を太い幹にいっぱいまとった樹が多く見られました。

 早朝は2日間とも雲海が素晴らしく、空気は澄んで爽やかこの上なく、ああ、よく来たもんだとここまでは大満足、ところが・・・。人間うまくできてるのでしょうか。一度も登ったことがなくても日本最高峰の高さまでは日本人は誰でも行けるのかも。

 海抜3900mぐらいから少しガスが漂い始め、寒くなるとともに歩みがだんだん鈍くなってきました。周りの人たちも砂漠化した山道をゾンビーのようにのろのろと歩いています。先日の愛知県新城市のトレールでの脱水症状のように少し頭がぼんやりして足が思うように運べなくなりました。脱水、高山の違いこそあれ、脳に酸素が十分に供給されなくなった独特の症状ですね。

 それでも無事海抜4500mのキボ・ハットに到着し、一足早く到着していた見知らぬ白人男性に笑顔で飲みかけの熱い紅茶を一口いただいた時は、ほっとするとともに小さな達成感を感じました。でも頑張れたのはここまで。

 さていよいよ、クライマックスの登頂に備え、夜中の0時起床のため、夕方6時半にはベッドに入りました。興奮と言うより体調異変で寝付かれず、20時にトイレに立った時、わずか5~6m登るのに強い動悸に襲われました。“これはやばい!”。

 0時に同グループのドイツ人が呼びにきてくれましたが、その時は更に症状は悪化、吐き気も加わり登山どころか起き上がることもできませんでした。残念無念、不肖我41歳、キリマンジャロ初挑戦は高山病に完敗、失意の下山となりました。 その日は天候も良くなく、100人以上の挑戦者の大半が断念しており我がグループは全滅でした。看護婦の日本人女性は“自分は足が遅いだけで疲れてはいないのに、無理やり突き飛ばされ押し戻された”と言って大層憤慨していましたが、私はそれどころではありませんでした。

 ガイドブックによると、高山病にかかっても高度を下げれば、すぐに回復するとありましたがとんでもない。3800mに下りても吐き気は治らず、食事は一切受け付けません。最終日、海抜2700mを切ってから徐々に回復してきました。

 日本の若いカップルも早めに断念したとのことでした。彼らは私と違って頂上には拘ってはいなかったそうです。拘りの私は吐き気が治まったとき、既にリベンジを誓っていました。予定通りザンジバル島を訪ねたあと、再挑戦しようと。

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