第2話 ヨーロッパ一人旅(冬編)
ヨーロッパ一人旅(冬編)
floccinaucinihilipilification
こんにちは。年があらたまりました。今月、還暦を迎えます。今年度は野根小学校、甲浦中学校、海南高校の三度の同窓会に出席しました。甲浦の仲間が一番若々しく、夏の全体同窓会でも大晦日のミニ同窓会でも中学時代の話になるとすぐ中学生に戻ってしまいますね。
”黒帯先生どこへ行く”に続いて“私の武道人生”拝読させていただきました。先生、私のほうこそ“それからの小島見明”に驚いています。海外の旅に於いても、仕事に於いても、生き方に於いても私の比ではありません。かなり先生のことがわかってきました。
甲浦の同窓生で親不孝者が4人います。上松和人、山本成夫、増田均、それに私ですが3人はそれぞれ固くきっちりと生きておりまして勝手気ままに生きてきたのは私だけです。その勝手な人生の第2弾にはいります。
昭和53年10月31日にカナダ、アメリカから帰国したあとすぐ、円広志のグランプリ獲得を確認して帰郷しました。8ヵ月半で180万ほど使いましたがまだ220万ほど残っていたのと在職中に5社ほどからハンティングされたこともあり再就職には余裕を持っており、この機会にと自転車で四国一周にチャレンジすることにしました。
自分の小、中学時代に大学生らしき若者が自転車での日本一周にチャレンジしているのを自宅の前で何度か見かけたことがあり機会があれば四国だけなら自分もいつか・・・の思いはその時から持ってはいました。特に信仰心はなく、当時は四国八十八ヶ所には興味はなかったので実家から時計回りに海岸沿いに回ってきました。12月20日から30日までの11日間の旅でした。
この旅で思い出に残っているのは甲浦で姉のように慕っていた人(貴子姉さん)の結婚式で顔見知りになっていた女性に高知で再会したこと(貴子姉さんの紹介で)、佐田岬からの戻りで行きと反対側の海岸線に出ようとして方向音痴になり再度岬に向かっているのに気づいたときの情けなかったこと、新居浜に戻る前にチェーンが壊れ一時間以上ついて歩いたこと、ジーパンが破れて買い換えたこと・・・といったぐあいにアクシデントばかりが記憶に残っておりロケーションは殆ど記憶に残っておりません。道草や遠回りこそわが道かもしれませんね。
年明け後、上京して高校卒業後も交流のあった甲浦(河内)の同級生の西内昭博と連絡をとったところ彼は離婚をしており1人住まいで、一宿一飯の予定が半月ほど世話になってしまいました。
彼はこの時10数年間勤めた印刷会社から独立し、やる気に満ち溢れていました。この時もいれて何度か仕事に誘われましたが、誘いを受けていたら彼は今どうしているだろうかと考えることがあります。3度の結婚と離婚を繰り返し、事業も一時は順調だったのですが、最後は資産が尽きて失意の果てに自らその命を絶ちました。太く短く生きた50年の人生でした。
前職では上司の人間性に大いに疑問を感じていたので、家族的な小さな会社を選びました。派遣中心のシステムハウス(入社後、システム部門が独立した為、派遣中心になってしまいました)で横浜に勤務中、憧れの海外勤務の話がありその気になっていたのですが、残念ながらタイミングが合わず、ロサンゼルス勤務は夢に終わりました。
でもこの後友達みたいな社長に数ヶ月の無給休暇をいただくことになりました。こうして昭和55年10月25日から翌年2月末まで、ヨーロッパを旅することになりました。
格安のパキスタン航空のティケットの精でもないでしょうが、途中何度も給油のためのストップオーバーがあり助かったのですが、機内で頭痛と眼の周囲が引きつるような感じの不快な痛みに襲われ参りましたね。ストップオーバーのたびに回復するのですが、離陸するとまた痛み始めお陰で退屈する暇さえなかったなあ。先生は機上でのこんな経験はありませんか?
北欧から入りアルプスのほうにまわるルートをとりました。北欧はデンマーク、スウェーデン、フィンランドの3カ国。印象的だったのは車窓から見たフィンランドの森と湖の美しさ。湖畔に小さな家が建っていて老人と幼子が遊んでいました 北海道の阿寒に似たような、小さなカナダのような・・・。
スウェーデンで驚いたのは列車が波止場に着くとそのまま船に乗り入れたこと。船の中に線路があるとは、当時は知りませんでした。
デンマークでは何と言ってもフュン島にあるオデンセで、アンデルセンの故郷に相応しく醜いあひるの子の世界が広がっていました。街もまるで子供のころに見た絵本の世界のよう・・・。小さく美しい童話の世界そのものでした。
オランダではアムステルダムでアンネ・フランクの隠れ家だった博物館で英和辞典を片手に2時間じっくりと滞在しました。その間に何組かの日本人がやってきましたが20分ぐらいでみんな出て行きますね。
ロッテルダム近郊のキンデルダイクの水車は見ごたえ十分で、1人の老人が木靴で歩いているのが印象的だった。先生ならこの老人に声をかけたのではないかと思いますね。
ロンドン駅ではどうもつり銭ごまかしにあったようです。日本円と違ってすぐに確認ができないのですぐに窓口から離れるのですが、一度目は自分の勘違いかと思っていましたが、同じ窓口で二度続いたのでたぶん間違いないでしょう。
フランスでは、パリの凱旋門、エッフェル塔、ノートルダム寺院よりも郊外のベルサイユ宮殿の鏡の間の煌びやかさが印象的でした。意外に感じたのはルーブル美術館やロダン美術館で、世界的に有名な“モナリザの微笑み”や“考える人”に思ったほどは人だかりがなかったこと。美的センスの有無に拘らず、小学校の教科書で馴染みの有名な作品には、我々日本人は心奪われるものですが、白人の多くは自分の感性で判断しているようです。
12月になり、いよいよ憧れのアルプスでスキーにチャレンジすることになり心が躍ります。先ずはオーストリアから。年末年始は混雑を避けて田舎の小さなスキー場・チロルのオーバーグルグルでノンビリ楽しむことにして、その前に世界的に有名なサン・アントンで腕試しをすることにしました。
カナダではまだ初級者でしたがこの時は中級になっていたので、軟らかい雪面を気持ちよく滑ることができ楽しかったなあ。頂上の展望台からは一面銀世界のアルプスの山々が見渡せ感動しました。
ここではあの有名な、かっての名スキーヤー、トニー・ザイラーが校長を務めるスキー学校があります。日本のスキー学校では技術を丁寧に教えるのですが、ここでは細かい技術指導はせず、スキーガイドをしているように見えました。
チロルの前か後か忘れましたが、カンダハーというアルペンレースを観戦する機会に恵まれました。男子スラロームで一本目出遅れたスイスのシュテンマルクが二本目でごぼう抜きした圧巻の滑りが見ごたえ十分でした。
翌日、滑降コースに私もチャレンジしてみました。一番遅かった選手が2分7秒でゴールしたコースを9分30秒かかってしまいました。でも楽しかった。
ヨーロッパの中でもアルプス地方は特に美しい教会が多いように思いますが、私には雪の中の教会が一番美しく見えます。この近くにレッヒという絵葉書のように美しい町があります。一度だけ日帰りで訪れましたがスキーよりも町と教会の美しさに感動しました。すぐ横を流れる川とのバランスが絶妙で、周囲も含めての外観では今までに観たどの教会よりも美しいと思います。
クリスマス前にオーバーグルグルに移動しました。とりあえずB&Bのペンションに宿を確保しましたがクリスマスからは満室と言うので翌日、案内所で紹介された別のペンションを訪ねたらその日からならOKとの返事。前の宿で訳を話し本日分からキャンセルを申し出たらその日はダメということで結局その日は二重払いになったのが不愉快な思い出の1つになっています。
この2つめのペンションはかなり高かったので少し強い口調でクレームをつけたら、おかみは他のペンションと比べて決して高くはないとこれまた必死で応戦してきました。他に空室のある宿はなく妥協しましたが落ち着いてみると妥当な料金設定だったように思います。高いと感じたのはB&Bと勘違いしてたのか(実際はハーフペンション即ち2食付)、今までのペンションが良心的だったのか28年経った今、思い出せません。
年末年始は馴染み客が多いようで、オランダから毎年来ている人が数名おり、ある紳士は年間3週間の長期休暇があり、自分は冬季に2週間、夏季に1週間利用しているとのことでした。当時の日本の民間企業では考えられず羨ましいお話でした。
寒さのため、一度だけスキーを止めたことがありました。外に出ると強烈な寒さで寒暖計はマイナス19度を指していました。凍死することはないだろうと5mほど進んだところへスキーインストラクターでもあるペンションのおかみの息子さんが戻ってきて開口一番、“Too cold today!”。それで引き返しました。
ヨーロッパでは正月よりもクリスマスのほうが重視されているようです。イブに宿泊客みんなで教会にミサに行きました。戻ってからは真夜中まで社交ダンスやジェンカを踊っていました。私は踊れませんでしたが。
大晦日も社交場には宿泊客は多く年明けと同時に、みんな口々に、“Gutes Neues Yahr.”。だ~れも“Happy New Year.”とは言いませんね。英語しか話さないのは私ぐらいでみんなドイツ語ですね。 翌朝(1月1日)は普通に、“Gute Morgen.”でした。
自室のラジオで一度だけ、円広志のデビュー曲“夢想花”をドイツ語で聴いたことがあります。 “とんで、とんで・・・”のフレーズは、“Tonde Tonde・・・”と聴こえました。
偶然かもしれませんが私の体験では北米より欧州のほうが盗難にあう危険性が高いように思いますね。ディナーのテーブルメイトのオランダ人が帰る前夜に一緒にダンスホールに出かけたんですが、そこでジャケットと財布を盗まれました。部屋のキーも一緒だったんでその夜は廊下のソファーで寝ました。
翌朝テーブルメイトが警察に連絡してくれましたが、結局見つからず。ただ、ダンスホールに戻ってみるとジャケットだけは見つかりましたが。
数日後の出発の朝、警官がやってきて私の行く先を訊いてきましたが宿泊先は決まってなかったし損失額も一万円少々程度だったのでそのままになりました。
この警官が私に声をかけたとき発音が“マウジン”のように聞こえました。英語だとMyojinがmyo jinでなくmy ojinになるようです。このマイオウジンが縮まって“マウジン”と聞こえたのであろうと考えています。実はこの説は4~5年前にスポーツクラブで知り合ったアメリカ女性の説です。
オーストリアの次はスイスで最後のスキー。憧れのマッターホルン目指してツェルマットへ入りました。雪質はオーストリアよりは落ちますが景観はカナダ、オーストリアの比ではありません。滑っているときよりもレストランのベランダでマッターホルンを眺めていたときの方が幸せを感じていたように思います。
マッターホルンはスイスとイタリアに跨っており、イタリアではツェルビンと言い、麓の町がツェリビニアです。一度スキーを履いたままパスポート持参で山越えでツェルビニアに降りてみました。イタリア・リラに両替して食事をして戻ってきました。
旅の最後はスキーを置いてローマへ。スイスで知り合った日本人男子に薦められたゲストハウスを訪ねてみました。その旨話しますと18歳の宿の娘は心当たりがあるようでした。なかなか活発で生意気な美人で、“Your English is difficult.”と言ったところ、”You don’t know English. You have to study Word.”と見事に言い返され参りましたね。
オーストリアでの盗難経験が生かされず、ここでも再び盗難に遭いました。5~6人の相部屋だったにも拘らず油断して、航空券とお金を少々部屋に残したまま外出してしまいやられました。
警察は役に立たないので真っ先にパキスタン航空に向かいましたが、すぐ近くに日本航空があったのでまずそちらの日本人社員に尋ねてみました。再発行できると聞いて一安心、改めてパキスタン航空で再発行の手続きをしてもらいました。
映画“ローマの休日”はかって観たどの映画よりも爽やかですぐさま、オードリー・ヘプバーン演じるアン王女の歩いた場所に行ってみました。スペイン広場でアイスクリームを食べたかったのですが、恥ずかしかったので止めときました。
ローマ空港からの帰国便がギリシアの地震の影響で大幅に遅延し、パキスタンのカラチで一泊することになりました。5人ほどの日本人ばかりパキスタン航空のホテルで三食付無料でストップオーバーすることになりました。この時路上で飲んだ絞りたての不衛生な砂糖きびジュースの美味しかったこと。
2度めの海外一人旅はこうして無事終わりました。不愉快なこともありましたが大変楽しい4ヵ月の旅でした。
帰国後、私自身の希望もあり関西に移動します。職場の同僚の影響もあり、スポーツはスキー、登山、旅にテニス、ランニングが加わり公私ともに多忙となります。
上松和人はこの3月で定年退職し甲浦にUターンの予定です。私は既に第二の人生に入っていますが、もう少しノンビリした後3月からアルバイトをしながら西宮に残ります。
2月7日から27日まで奄美群島を旅してきます。
来月、第3弾を書かしていただきます。
to be continued.
小島 見明先生
平成21年2月4日
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます