海外一人旅(恩師への手紙)

門脇 賴

第1話 カナダ一人旅

floccinaucinihilipilification.

 気持ちの良い季節があっと言う間に寒い季節に変わりました。空手、拳法で鍛えている先生ですから風邪引きの心配はないですね。小島先生、私のイメージはそんなに異なっていますか? 中学時代は数学、英語、音楽、理科ができ、社会、体育、美術、工作が苦手でした。自分の半生をまとめたものはありませんが、海外の記録(日記)は残していますので、来年にはパソコンに入力しようと思っています。作業が終わりましたら、先生にはお見せします。少し恥ずかしいですけど。

 

 昭和46年に東京理科大数学科を卒業した後、アメリカのコンピューターメーカー・バロース社の日本総代理店だった高千穂交易㈱から傘下のソフト会社に出向になり、翌昭和47年に北海道支店開設の準備委員として札幌に転勤になりました。ここでの4年間の生活が自分の人生を大きく変えたように思います。

 それまでスポーツと言えば小中学時代に近所の子供たちや学友たちと相撲をとったぐらいでしたが、せっかく北海道に来たんだからスキーと旅をしてみよう。そんなわけで冬はスキー、夏はユースを利用しての一人旅を存分に楽しみました。

 オイルショック以後の不景気で会社がおかしなことになり、札幌で世話になった上司が不本意に辞めていったりして、上役に対する不信感から退職を決意してから真っ先に考えたのはカナダ一人旅でした。


 この旅で先生と一番違うところは、先生が英会話をマスターしてるのに対して私はまったく話せないこと。カナダ・バンクーバーに発ったのは、昭和52年2月17日、29歳の誕生日の4日前でした。20代最後の誕生時を自ら海外で祝いたかったのです。

 予定はカナダに3ヶ月、アメリカ1ヵ月でしたが最初の滞在地バンフで到着早々に現地在住の日本人と知り合い、彼のマンションに居候させてもらうことになり、8月になるまでバンフに滞在しました。

 このころのバンフは総人口4000人、日本人は40人でした。7年後に再訪したときにはそれぞれ7800人、150人になってました。

 スキー場がオープンしている間はほとんどスキーに明け暮れてましたが雪が消えたあと自転車で、300キロ離れたジャスパーまで一人でサイクリングしたこと、最後にカナダのマッターホルンといわれるアシナボイン山にやはり一人でハイキングし、キャンプしたことが最大のビッグイベントでした。

 サイクリングでは、ブラックベア(黒熊)に4度お目にかかりました。最初は怖かったあ。すぐに友達になりましたが。一番の感動はムースに会ったこと。バンフの森でも一度会ってましたがそちらは角が生えかけの珍しい姿。サイクリング中に会ったのは完全な姿でした。

 一番驚いたのは六月中旬にも拘わらず吹雪にあったことで、10分前に出発したホテルに舞い戻ったのはかっこ悪かったなあ。

 先生が訪れたコロンビアアイスフィールド(アサバスカ氷河)でも二拍して雪上車に乗りましたよ。ジャスパーには二泊して郊外にある有名なマリンレイクにも行ってみました。ここで撮った写真は引き伸ばして大阪の親戚の喫茶店に飾っています。

 ジャスパーからの帰路は、一部ロッキー山脈の裏側を走ってみました。車は少なく道路はフラットでひたすらペダルを漕ぎました。一日で160キロ走りました。 その日のホテルで面白いことがありました。適当に見つけた小さなホテルで、 Can I stay here tonight ? とまずワンパターンで質問しました。今なら、Do you have an available single room ? と言いますが。 

 How much a night? に対して20ダラーと言ってたのに、40ドル請求されました。何故か? 先生ならすぐ分かりますよね。そうなんですよ、tonightがtwo nightととられました。

 発音の精でヨーロッパでもそうですが、コーヒーを注文したのにコーラが出されることも何度かありましたね。

 アシナボイン山でのキャンプでは友達に道具一式借りて一人旅。グリズリーが出ると脅されながら。途中殆ど人に遭わずちょっぴり寂しいハイキング。到着後、真下から見上げたアシナボイン山は迫力十分。

 ここでも帰りに危険な大失敗をやらかしました。インスタントラーメンを作るのに、ガス交換をするとき、風があったのでテントの中で行いましたが少しガスが漏れました。もうお分かりですよね。

 そうなんですよ、ガス漏れのまま火を点けたんです。あとは推して知るべし。指が一本増えたように水ぶくれになり、テントを張るのが大変だった。海外で医者にかかったのはこのとき一回きりです。

 バンフから120キロの場所にカルガリーという冬季オリンピックが開催されたこともあるカウボーイの町があります。毎年7月にスタンピード祭というカウボーイのフェスティバルがあり、4度足を運びました。西部劇で観たことのあるロデオが観られて楽しかったあ。


 8月にバンフを去るときは少し寂しい気持ちになりました。部屋を提供してくれた友人が呆然と見送ってくれたのが今でも脳裏にはっきりと焼きついています。

 グレイハウンドバスや列車利用で少しずつ南下していきました。最初に訪れたのはエドモントンで、ちょうどその年Common Wealth Gameと言う陸上競技大会が開催されており数日間足を運びました。この頃はまだマラソンは苦手中の苦手で陸上競技にも今ほどの興味はなかったんですけどね。

 ウィニペグ、レジャイナ経由でトロントへ。大都会にはそれほどの興味はなく、すぐにナイアガラに行ってみました。以前には樽の中に入って滝に飛び込んだ命知らずが大勢いたようです。大変な度胸ですよね。とても自分にはできません。

 夜になり、ライトアップされたナイアガラは迫力に幻想が加わって見ごたえ十分でした。

 モントリオールで一人旅の日本女性に声をかけられました。私が日本のガイドブックを見てたので日本人と確信したそうです。その女性とはその日半日の付合いでしたが、帰国後、一度東京で再会しました。その後彼女は二年間アメリカに留学したようですが、今はどうしているのやら。


 当初は訪れる予定ではなかったのですが、バンフ滞在中に読んだ“赤毛のアン”に心魅かれまして憧れのプリンスエドワード島へ。バンフを出発してから一ヶ月が経過していました。

 アンによると、プリンスエドワード島は10月が最高だそうで私は一ヶ月早すぎたようです。州都のシャーロットタウンに一週間滞在しましたが、この間ゲストハウスではずっと、トロントから毎年訪れている牧師さん、やはりトロントからの20代の独身女性2人組みと一緒でした。

 2日間はレンタカーで4人で島内を巡り楽しかったのですが一度だけ不愉快なことがありました。最後にショットバーに行ったのですが若い酔っ払いが女性の1人に話しかけてきて顔に触りはじめたので、その娘に少し好意を感じていた精か思わず相手にパンチをみまってしまいました。

 すぐに謝罪はしたんですが、今度は倍ぐらい強烈なお返しが返ってきましたね。喧嘩は小学時代以来ですが、ダウンは生涯この一度きりです。それにしても筋肉質の白人のパンチは強烈だった。一ヶ月ほど前歯が痛くてまいりましたね。

 彼ら3人と別れたあと一人で“赤毛のアン”の舞台であるキャベンディッシュ(“赤毛のアン”ではアヴォンリー)を訪れ、じっくりと物語の世界に身をおきました。

 自分が十代に戻ったようで楽しかった。“恋人の小道”で採取したカエデの葉っぱは30年を経た今でもガイドブックに挿んでいます。


 カナダの後、アメリカに国境を越えるとき、グレイハウンドバスの車内で1人の日本女性と一緒になり意気投合したので一週間ほど行動を共にしました。部屋代をセーブしようと彼女からの持ちかけでツィンベッドで同室を利用しましたが残念ながら(?)清らかなまま、ニューヨーク、ワシントンの旅は終わりました。

 彼女は結婚しており別居中で訳ありの旅でしたが、一年後に帰国後離婚し、その後日本で知り合ったイギリス人と再婚してブラジルで2年ほど過ごした後、イギリスに永住するとのことでした。

 彼女にも帰国後東京で再会しましたが、この時は甲浦の同級生の上松和人も、本人の希望により同席しました。彼は理屈っぽいので彼女には嫌われてましたね。


 ワシントンで彼女と別れた後、飛行機でサンフランシスコ、ホノルルにストップオーバーしましたが、ハワイではさらにマウイ島、ハワイ島にも小型飛行機で訪れました。

 そのどちらかの島の浜で一度野宿をしてみました。ホテルがあまりにも高かったので。ワイキキビーチでは泳いでる人は少なく殆どが日光浴で、あまり海水もきれいとはいえずさほど感動はしませんでしたが、夕陽だけはすばらしくきれいだった。

 最後の日の朝、10代の少女たちのフラダンスを観て飛行場に向かいました。こうして初めての海外一人旅は終わりました。10月31日、日本を発ってから実に8ヵ月半が経っていました。


 初めての海外にカナダを選んだのは、青春時代後期を過ごした北海道の自然が素晴らしく、カナダ=ラージ北海道のイメージがあったので。

 そしてこれは当たってました。帰国後、必ずしも私のカナダ一人旅の評判はいいものばかりでなく、親戚の一部からは少々のパッシングもありましたが。適齢期の男が仕事もしないで海外をほっつき歩いている場合ではないということでしょうね。

 また、ショッキングなこともありました。甲浦の祖母、大阪の父の実父、大阪の母方の叔母が亡くなっていたのです。このことを言われると返す言葉がありませんでした。

 そんな中、1つだけ明るいニュースがありました。母方の従弟が東京の日本武道館での世界歌謡際に出場が決まってました。親戚でマイクロバスを借り切って応援に行き、彼は日本人の部でグランプリを獲得し、その年の12月にプロ歌手としてデビューしました。シンガーソングライターの円広志です。

 この後、一度帰省し再就職のため再び上京し、新しい職場でテニス、マラソンと出会いますが、今回はここまで。 来年早々、第2章を書かしていただきますね。


to be continued.

小島 見明先生

平成20年12月7日 


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