(4)
『――よくも、まあ、飽きずに来るよな』
いつも通りにやって来た俺を見て、副島が言った。
まるで、ゴミでも見るような目つきだ。
『俺を見張るの、そんなに楽しいか?内心では嘲笑ってんだろ。
それとも、同情なんかしてくれてんのか?ああ、ありがとうよ、学級長』
――ずっと指導室にいて、気がおかしくなったんだろうか?
独りで勝手に喋る副島を、俺はスルーしていた。
『先公の言うことに何でも従いやがって、この雑魚が。
何言われても、歯向かえねーんだろ?情けねぇな、学級長。
お前みてぇな奴、今すぐにでも殴り殺してやるよ』
それでもスルーしていると、案の定、副島は本当に殴りかかってきた。
『テメー!無視してんじゃねーぞ!!ぶっ殺されてぇのか、あぁ!?』
大きな罵声と共に、振りかざされた拳。
その瞬間、俺は必死に口を動かした。
『確かに俺は、誰にも歯向かえない。でも、全部に従ってるわけじゃないんだ』
振りかざされた拳が、俺の目の前で止まった。
『あ?何言ってんだ、テメー』
スーッと息を吸い込み、吐き出す。
そして、俺は言った。
『なるべく早く…、クラスに戻ってきてほしいと思ってるんだ。
こうなったのは、俺が偉そうに口出ししたせいでもあるんだし……
ずっとこんなところにいたくないだろ?』
俺たちの間に、しばらくの沈黙が流れた。
副島は、口元に薄ら笑いを浮かべて、俺の目をじっと見ていた。
俺は、続けた。
『先生から言われたことがきっかけで、ここに来るようになった。
でも、今は違うんだ。
副島に早く戻ってきてもらいたいと思って、自分なりに声を掛けたりしてる。
けど、伝わってないみたいだな』
『…あぁ?』
副島は、意味が分からない、というように首を傾げた。
俺は、そんな副島を避けて、ドアへと向かった。
『偽善者とでも、何とでも言ったらいい。じゃあ、また』
そうして、生徒指導室を後にした。
結局、副島には殴られずに済んだのだけど、俺は内心、冴えない気持ちだった。
副島陸斗は、なぜ、ああなんだろう……
そう考えずにはいられなかったのだ。
俺は、なぜか、副島を信じているようなところがあった。
あんな暴力的なヤツだけど、きっと根は悪人じゃないはずだ…とか。
相方の松木は、そんな俺をよく注意してきた。
『あんな奴のことなんか信じちゃダメだって、原口くん。
ていうか、殴られたのに、なんでキレないの?
あたしだったら、首を絞め上げてやるけどね!』
松木は、そもそも、田代先生が俺に見張りを頼んだこと自体が不満らしかった。
『あの先生も、何のつもり?
教師なら、生徒のしつけくらい、自分でしなきゃでしょ!
あたし、田代先生なんか嫌い。大嫌いなんだから』
つまりは、先生の片想いってことか……なんて思ったりした。
クラスメートたちの情報によれば、田代先生は五十代にして独身らしく…
「女子生徒を性的な目で見ている」などというウワサも流されていた。
けど、俺は、そんなウワサは受け入れなかった。
松木のことも、あくまで生徒として気に入っているのだろうと思っていた。
『なあ、何かゲームしようぜ』
俺、小野翔弥、吉川礼司、佐藤光喜の四人でいた時だ。
急に、翔弥が言いだした。
『いいけど、何のゲーム?』
礼司が怪しむような目をして尋ねると。
『巨大鼻クソ対決』
『…もっとマシなゲームはないのか?』
『じゃ、トランプ』
『まるで、雨が降ってて外で遊べない小学生だな』
ふざけ者の翔弥と、しっかり者の礼司は、
いつもショートコントのようなやり取りを繰り広げていた。
それを見て、俺はいつも観客の如く笑ったけど、
暇さえあれば昼寝をしている光喜を起こすのも、俺の役割だった。
『光喜、起きなよ。もうすぐ昼休み終わるよ』
『…んー。もうちょっとぉ』
『いつまで寝てんだよ。鼻クソ、プレゼントするぞ』
『…どんな脅しだよ』
ボケ担当で陽キャの翔弥、ツッコミ担当で優等生の礼司、
リアルボケ担当でマイペースな光喜、そして、観客担当で学級長の俺。
教室の中では、この四人でいることが定番になっていた。
だけど、俺はいつも、頭の片隅ではある人物のことが気になっていた。
『もう…、俺には関わらないでほしいんだ』
あの言葉は、かなりショックだった。
力になれるかもしれないなんて、ただの俺の勘違いだったのだ。
竹田本人から助けを求められたわけでもないのに、一方的に行動なんかして…
本当に自分勝手だった。
そう反省した俺は、もうあまり無理に話しかけたりするのはやめることにした。
話すとしても、最低限くらいだ。
これで、竹田は、ほぼ完全に独りになってしまった。
『……』
彼を見ていると、中学の頃の自分を思い出した。
――あの頃は、本当に辛かった。
思い返すのもしんどいけど、決して消えることはない記憶だ。
これから、ザッと、この苦い記憶についてお話ししようと思う。
~~
―――中学二年生の時だった。
俺は、出席番号順の席で、
ちょうど前に座る一人の女子生徒に話しかけられた。
『原口くんだよね?良かったら、ちょっとノート見せてくれない?』
長い黒髪に、大きな切れ長の瞳。
彼女の名は、
俺と夢ちゃんが通っていた星野ヶ丘第一中学校において、
「美少女」と話題だった子だ。
『あ…、えっと』
美少女に話しかけられ、陰キャの俺はジタバタした。
『ど、どうぞ』
どぎまぎしながらノートを手渡すと、美少女は微笑んだ。
『ありがとう。優しいんだね』
これが、始まりだった。
俺と長谷川灯は、よく話すようになっていき、意外にも仲良くなった。
長谷川灯は、ちょっと押しが強いけど、決して悪い子ではなかった。
それもそのはず…、
彼女の双子の兄・
燿も、校内で「イケメン」と言われていて、
長谷川兄妹は、二人揃って遺伝子が素晴らしいと周囲から崇められる存在だった。
俺が一年生の頃から所属していた部活動は、卓球部。
卓球部は、意外と人気で、同学年の部員が山ほどいた。
そのせいで、卓球台を使って練習することすら難しい状況だったけど、
日々筋トレをしていたおかげで、小学生の頃まであった身体中の肉が見事に落ちた。
それによって、俺は、ようやくデブ人生から脱け出したのだった…!
卓球部では、他にも良いことがあった。
それは、長谷川燿をはじめ、仲の良い友人ができたこと。
中でも、
一年生の頃、部活でも教室でも一緒だった。
ところが、二年生になってからクラスが離れてしまい、
内心、俺は寂しく思っていたところだった。
『わたしたち、友達だよね。原口くん』
長谷川灯は、確かに可愛かったけど、あくまで友人という存在だった。
世間では、男と女が一緒にいれば、必ず恋愛関係だと思われるところがあるけど、
俺たちの場合は本当に違った。
友人の妹に手を出すなんて考えられなかったし、
第一、学校のアイドルを恋愛対象として見るなんて……滅相もなかったのだ。
しかし、周囲はそのことを知らず、俺のことを「自信過剰な男」と認識していた。
つまり、俺と長谷川灯が恋仲だと誤解していたのだ。
その誤解集団の中心人物が、
ちなみに、奴とは、中学校に入って初めて出会ったというわけではなかった。
俺と阿部は、それよりも前……星野ヶ丘小学校で知り合っていた。
当時、太っていた俺は、阿部から酷くからかわれたものだ。
『デブ!豚!ロース!』
さらに、何もしていないのに、
叩かれたり、蹴られたり、腹にパンチを食らわされたこともあった。
太っていることをバカにしてきたのは、決して阿部だけではない。
けど、その中で、最も残酷なのが阿部だったのだ。
その気質は、中学生になってから、ますます酷くなったようだった。
『おい、原口。ちょっと来いよ』
ある日、突然に呼び出しを受けた俺は、阿部からこう言われた。
『お前、長谷川灯が自分のこと好きだって勘違いしてるだろ。
ちょっと痩せたくらいで、調子乗ってんじゃねーよ。
お前みたいな、バカでトロい豚が、
女子と仲良くするなんて、おこがましいにも程がある。
小学生の時みたいに、思い知らせてやろうか?』
その瞬間、悟った……
阿部と同じクラスになってしまった時点で、
今年の俺は悪夢に見舞われるのだろう、と。
『ちょっと痩せたからって、豚なのには変わりねーんだからな。
豚は、豚なんだよ。
豚は人間に食べられるための肉でしかないだろ?
それ以外には、何の役にも立たない。お前だって同じだ』
そう言って、阿部は満足そうに笑みを浮かべた。
なんだか、小学生の頃に戻ってしまったような気分だった。
『もう、長谷川灯と関わるなよ。分かったら、返事。ブーッて鳴けよ』
結論から言うと、阿部は長谷川灯のことが好きだった。
だから、俺が彼女と関わるのを気に入らなかったのだ。
それは、俗に言う嫉妬というやつだけど、
俺には奴や周囲から誤解されているようなことはなかったし、
奴がしたことは妬みというものを超えていたと思う。
奴がどんな人間なのか分かっていたので、
俺はとりあえず、言われた通りにしようとした。
なるべく、長谷川灯とは関わらないようにしたのだ。
――命令を無視すれば、またやられてしまう。
――きっと、最悪な目に遭う。
俺はまさに、怯える小学生に逆戻りしていた。
長谷川灯は初め、『なんで無視するの?』などと言ってきたけど、
そのうち何も言ってこなくなり…――
情けないことに、俺はそれを悪く思うどころか、安堵感を抱いていた。
そんなある日、事件が起きた。
『原口くんにだけ、教えたいことがあるの』
急に、長谷川灯が話しかけてきたのだ。
しかも、放課後に体育館裏へ来いという。
俺は断った。
阿部に、二人でいるところを見られたらアウトだからだ。
『わたしのこと、嫌い?』
長谷川灯は拗ねたようだったけど、俺は折れることなく、
彼女の方も諦める気配はなかった。
『…わたし、昨日、阿部くんから告白されちゃった。どう思う?』
『……な、何だって?』
突然の展開に、驚きを隠すことが出来なかった。
長谷川灯は、阿部から告白されたというのだ。
しかし、長谷川灯は……
『阿部くんって、なんか…気持ち悪いっていうか、怖くない?
原口くんにだって、なんだか意地悪だし…
わたし、断ったの』
『……』
断ったということだった。
…しかも。
『そしたら、”好きな人はいるのか”とか、しつこく聞いてきたりしたの。
わたしは、”いる”って答えた。
あんまりしつこかったから、誰のことが好きなのかも答えた。
…誰って、答えたと思う?』
『…さあ?分からないよ』
『ほんとに、分からない?』
『うん』
『……原口くん、だよ』
『…ん?』
後で、状況を理解した。
長谷川灯は、なんと、この俺のことが好きだったらしい。
驚きに次ぐ、驚き……いや、衝撃だった。
けど、それ以上に、不安の方が大きかった。
長谷川灯は、俺のことを好きなのだと、阿部に話したというのだ。
これは、きっと、最悪な事態になると…――俺は覚悟した。
『…そ、そうだったんだ?ありがとう』
それだけ言うと、俺はそそくさとその場から逃げた。
長谷川灯のことなど気にならず、ただ不安に駆られていたのだ。
……それから間もなく、悪夢のような日々が始まった。
始まりは、いろいろな物の「紛失」だった。
提出していたノート、机の横に掛けていた体操服、靴箱に入れていた上靴……
俺の周りから、あらゆる物が次々と消えていった。
大抵の場合は、後日、教室のゴミ箱やトイレで発見されたけど…
イジメが始まっていることを受け入れたくなかった俺は、
事実を言い出す気になれず、
先生たちの間では日増しに問題児扱いされるようになっていった。
『授業のノートも宿題も提出しない、体育の授業もずっと見学、
上靴は忘れっぱなしで借りたスリッパを返しもしない……
一体、どうなってるの?言いたいことがあるなら言いなさい』
担任の先生にそう問い詰められても、何も出てこなかった。
母さんや夢ちゃんにも、ウソをついてばかりいた。
『ごめん、母さん。今日も、体操服、忘れてきちゃった』
『えー、また?汚いから、早く持って帰ってきなさいよ』
『アハハ。最近、忘れっぽいんだ…』
イジメを受けているなんて、言えなかった。
恥ずかしいという思いももちろんあったし、
心配をかけたくないという思いもあって、
弱い息子だと思われたくない部分もあったのだ。
でも、結局…、家族にウソを言うことが一番辛かったように思う。
それでも、まだ本当のことを言う気にはなれなかった。
もう少し我慢すれば、きっと事態は良くなるだろう……
そう自分に言い聞かせていた。
けど、実際は、むしろ悪くなっていく一方だった。
「紛失」という現象は、だんだんと「暴力」へ形を変えていった。
座っている時、ゴミやいろいろな物が投げつけられる。
通りすがりに、拳で殴られる。
歩いていると、後ろから蹴飛ばされる。
シャーペンで、腕や背中を刺される。
給食の(熱い)大きなおかずを、かけられる。
こういったことは、日常茶飯事だった。
暴力行為をしてきたのは、阿部奏志だけではなく、
その協力者たちも、俺を標的に暴力を振るった。
阿部に逆らえない者が多かったのか、俺を嫌っている者が多かったのか、
それとも、長谷川灯を巡って嫉妬心を募らせている男が多かったのか。
理由はともかく、
この集団からの暴力で、俺は精神的にも肉体的にも疲弊していった。
そんな中、こういう出来事があった。
体育の授業でのことだ。
体操服が相変わらず紛失していて、いつものように授業を見学していると、
俺目掛けて、有り得ない数のボールが力加減なしに飛ばされてきた。
その場にうずくまって耐える俺を見て、無数の笑い声が飛び交う。
それだけではない…、
授業が終わると、俺は複数の男たちに囲まれた。
その中には、もちろん、阿部がいて、俺の腹を強く蹴ってきた。
そして、その後、俺は倉庫の中に閉じ込められてしまった。
『嫌だ、嫌だ…』
埃っぽく、薄暗い倉庫の中で、精神が追い詰められた。
そして……、俺は絶叫した。
『…いやだ―――っ!!助けて!!父さん、母さん、夢ちゃん!!!』
すると、間もなく、倉庫の扉が開かれた。
次の授業でやって来た、他のクラスの生徒たちが、俺を凝視した。
その中から、一人の人物が前に出てきた。
『……進真?』
上原良人だった。
何を思ったのか、両腕を広げてきたので、
俺はその中に飛び込んだ。
『進真…、ごめん。本当に、ごめん……』
良人は、泣いているようだった。
俺を抱きしめる腕が、ブルブルと震えていた。
『…俺も、同罪だよ。こんなことになるなんて』
俺は、良人の言葉に違和感を覚えた。
――”同罪”って、何のことだろう?
尋ねてみると、良人は顔を上げた。
その目には…、透明の涙とは別の、何かが浮かんでいた。
『……進真』
良人の声は、いつもと違い、聞き取りづらかった。
『言おうと思ってたんだけど……』
その直後、良人の口から吐き出されたことは、衝撃の内容だった。
『…お前をイジメているのは、阿部たちだけじゃないんだ。
ひ…、燿も、阿部に協力しているんだ。
妹がお前にフラれたからって…、俺にもお前をイジメるよう言ってきた。
でも、俺は、お前をイジメるなんて……無理だった』
…徐々に、話の内容を理解していった。
俺は、てっきり、物の「紛失」も阿部たちの仕業だろうと思い込んでいた。
けど、実際は、友人の長谷川燿がしたことだったのだ。
どうやら、俺が長谷川灯からの告白を適当にあしらったということで、
兄としての怒りを抱き、俺に嫌がらせをしようと考えたらしかった。
良人はそれを本人から聞き、ずっと心の中で葛藤していた……
そのことが、彼の様子から汲み取れた。
『お前のノートや、体操服や、上靴を奪ったのは…全部、燿なんだ。
自分は阿部みたいに暴力は振るえないから、
自分なりのやり方で、阿部を支えると言っていた。
一体、それで、何が解決するんだろ……俺には分からないよ。
とにかく、進真、本当にごめん。ごめん……』
俺は、ショック状態のまま、教室へと戻っていった。
その途中で、ちょうど、長谷川燿と出くわしてしまった。
衝撃的な事実を聞かされたばかりだったので、胸の中がザワザワと揺れ動く。
『…進真?どうしたんだよ、こんな所で』
無意識に立ち止まっていた俺に、燿が声を掛けてきた。
その姿は、いつもの彼そのもので……
なんだか、人間不信に陥りそうだった。
『なんか、疲れ切ってるみたいだな。何があったんだよ?』
燿は、俺が何も知らないと思い込んでいる。
だったら、俺は…――
『……体操服、知らない?』
『え?誰の?』
『俺の』
『…知らないよ。当たり前だろ』
明らかに、ウソだった。
良人の言っていたことは、本当だったんだと確信した。
『…ウソをついたな』
悲しみのあまり、責めるような口調になってしまった。
『心配するフリして…、本当は俺のいろいろな物を奪っただろ。
全部、分かってるんだからな。…この嘘つきめ』
『……は?』
俺の感情が移ったのか、だんだんと燿も繕えなくなっていった。
俺の中での燿は、外見とあらゆる才能に恵まれた優等生だったけど……
『――仕方ないな。そんなに言うなら、体操服がありそうな場所を教えてやるよ』
実際の彼は、そうではなかった。
優しかったはずの燿は、もういなかった。
『体育館裏か、校舎裏。このどちらかにあるはずだよ。
もっとちゃんと探してみたらいい』
『やっぱり、お前がやったんだな…。信じてたのに』
『勝手に決めつけるなよ。てか、俺にも言いたいことがあるんだ』
『え…?』
燿が、俺の方に近づいてきた。
そして、周囲には聞こえない声で言った。
『…灯にあんな対応をしておきながら、よく人を責められるよな。
お前みたいな、地味で冴えない奴にフラれて…、本当に可哀想だよ。
お前は、俺の妹に傷をつけたんだ。
もう二度と顔も見たくない』
それからのことは、あまり覚えていない。
とにかく、燿から言われた通り、体育館裏や校舎裏を探し回った。
すると、しばらくして、泥まみれになった俺の体操服が見つかった。
このままでは母さんに渡せないと思い、校舎の中の水道で泥を落とした。
泥と共に流れていく水のように、目から涙が溢れ出てきた。
――もう、無理だ。
そう思った。
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