(2)
「……」
やっと、我が家(公務員宿舎)が見えてきた。
今日は、いつにも増して、うちの宿舎自体が輝いて見える…!
今日の夜ご飯は何かな…、デザートは抹茶アイスと抹茶ラテ…。
そんなことを考えるうち、うちの宿舎の下にある、自転車小屋に辿り着いた。
空いている場所に、素早く愛車を停めると、鍵を掛け、
カバンを手に、エントランスへと走る。
郵便ポストを見た方が良いかと思いつつ、無視して、
エレベーターのボタンを押し、さっさと乗り込んだ。
いざ、マイホームへ!!!
…ところが。
うちのエレベーターときたら、故障しているのかと思うくらいに、遅い。
あたしの気持ちに反して、ノロノロと遅く進んでいく、のろまエレベーター。
七階に着くまで、こんなに時間が掛かるとは…。
改めて呆れていると、
ようやく、「七階です」と雑魚エレベーターが言った。
「…!」
扉が開いた瞬間、大急ぎで、七階のフロアを走る。
そして、エレベーター側から見て、五番目にあるドアを、開けにかかった。
ガチャ、ガチャ、ガチャ。
鍵が掛かっているため、ドアの取っ手を上下に揺する。
すると……―――ガチャン。
ドアの鍵が開けられ、中から、ママが出てきた。
「――おかえり、夢ちゃん」
「ママ!ただい…」
言いかけるも、目の前に立つママの顔を見て、途中で止めてしまった。
「ママ……どうしたの?」
赤くなった、目と鼻。
明らかに、泣いたのだと分かる。
「夢ちゃんこそ、どうしたの?」
不安になっていると、ママが言ってきた。
「え?」
思わず、聞き返すと。
ママの手が、あたしの頭に乗せられた。
「…すごく疲れてるみたい。今日は、一体、こんな時間まで何してたの?」
ママ、すごく心配している。
「ああ…」
あたしは、思わず、ママに抱きついた。
「ごめんね、帰り遅くなって。今日はホント、いろいろあったんだよ」
あたしが言うと、
ママは、
「そうみたいね。まあ、後で聞かせて」
あたしを優しく包み込みながら、言った。
「ママも話すことがあるの。さあ、中に入りなさい」
ママの顔を見たら、それだけで安心できるな…
そんなことを思いながら。
「うん。ありがとう」
自転車の鍵を、靴箱の上に置き、
ローファーを脱ぎ捨て、玄関へと入っていった。
――――その時。
「…――夢ちゃん」
久々に聞く、低い声。
驚いて、リビングの方に目を向けると―――
そこには、ボサボサの髪に、ヨレヨレのパジャマ姿の、
一人の少年が立っていた。
「…進真」
呆然と、弟を見つめる、あたし。
「…進くん、やっと部屋から出てきてくれたんだよ」
ママが言った。
「夢ちゃんのことが、心配でたまらなかったみたい」
そう言うと、微笑みながら、リビングの方へと消えていった。
…えっ、どういうこと??
戸惑っていると―――
あたしの正面に立つ、変わり果てた進真が、こちらに歩み寄ってきた。
そして、いきなり、抱きついてきた!
「進真!?」
思わず、声を上げた。
だって、いつもは、あたしから抱きしめることはあっても、
進真の方から抱きしめてくることなんて…無いから。
「進真……大丈夫?」
驚きつつも、弟の背中に腕を回す。
…すると。
「……アイツから、何もされてない?」
すぐ耳元で、進真が言葉を発した。
「…えっ?」
どういうこと?
言われたことの意味も分からないし、この状況も理解できない。
「……」
あたしを抱きしめる、進真の腕は、小刻みに震えている。
とりあえず、頭を撫でてあげることにした。
「あたしは、大丈夫よ」
肩に乗せられた進真の頭を、優しく撫でながら言う。
「アンタは…大丈夫なの?ママとは、何か話した?」
進真の頭が、ゆっくりと上がっていく。
見ると、涙に濡れた顔が、目の前にあった。
「…進真、泣かないの。ね?大丈夫だから」
言いながら、
なんだか、昔の記憶が蘇ってきた―――。
『――ゆめちゃんっ!だいじょうぶ?』
何年も前、進真と二人で遊んでいた時のこと。
当時からドジだったあたしは、派手に転んだ。
それを見て、まだ小さかった進真が、慌てて駆け寄ってきた。
『だいじょうぶ、だいじょうぶ』
弟を安心させるためにも、すぐに立ち上がったあたし。
膝からは赤い血が出ていて、もちろん、とても痛かったけど、懸命に我慢した。
あたしが泣いたりすれば、
すでに泣き出しそうな進真が、もっとひどいことになるだろうからだ。
いや、でも、実際は、
血が出ているといっても、泣くほどの痛みではなかった。
当時、あたしは、
常に転んでは、治りかけていた傷を自分でえぐっていたし、
元々痛みには強いタチだったから。
しかし、進真は違った。
当時から、神経質で、繊細な性分で、
人の痛みも、自分の痛みのように感じるタイプだったのだ。
『痛いの痛いの…飛んでけー!痛いの、痛いの……』
あたしの膝に手をかざしながら、
痛みが消える「おまじない」を始めた、小さな進真。
しかし、途中で、泣き出してしまった。
『うーーー……。ゆ…めっ、ちゃ』
なんで、アンタが泣くの???
そう思ったけど、
あたしなりに、「この子は、あたしの分まで泣いているんだ」と、
あたしが堪えている痛みが、この子にまで伝わったのだろう、と理解した。
『だいじょうぶだよ、しんくん。だから、おうちに帰ろう』
あたしが言うと、進真はギュッと抱きついてきた。
目に涙をいっぱい溜めて、鼻をグスグスと啜りながら、
『ママに、”痛いの、飛んでけ”って、してもらおう。そしたら、痛いのなくなるよ』
と、あどけない声で言った。
小さい頃の進真は、泣き虫だった。
男の子のわりに、危険を冒すようなことはしなかったし、
濡れたり汚れたりするのも嫌いで、とにかく、怖いことが大嫌いだった。
それでも、姉のあたしとのケンカは多く、そのたびに、いつもあたしが勝利した。
なぜなら、あたしがちょっと怒ったり、叩いたりしただけで、
進真はすぐにいじけて、戦いを止めたからだ。
大抵は、泣いて、ママのところへと逃げていくパターンだった。
あの頃は、あたしも幼かったし、結構、普通にムカついていたけど、
今では懐かしくてたまらない。
小さい進真、可愛かったなぁ…♡
もう一度、あの頃に戻ってくれたら…て、もちろん、今も可愛いよ!?
昔のことを思い出したくらい、今も昔も、あたしにとっての進真は変わらない。
「―――全部、聞いた」
進真が言った。
目に涙を浮かべて、苦しそうに。
「…お願いだから、無茶しないでよ。これは俺のことなんだから」
進真の手が、あたしの両肩を強く掴んだ。
「何もされてないなら、そう言って。夢ちゃん」
進真は言った。
「アイツに…、中谷王我に目をつけられてたら…
どうなるか分かったもんじゃないよ……。
夢ちゃんも、俺みたいになりたくなかったら…――」
「大丈夫。中谷王我とは、何の関係もないから」
「えっ?」
あたしの言葉に、進真は息をのんだ。
「だから、落ち着いて」
あたしは、半ばパニック状態の弟を、宥めようとして言った。
「中谷王我との、直接的な関わりは、一切ないの。
今日、帰りが遅れたのも、奴は全く関係ない。だから大丈夫。心配しないで」
言いながら、弟の肩にポンと手を置く。
「……ほんと?」
進真は、弱々しい声で言った。
「……本当に、何もされてないんだね?大丈夫なんだね?」
あたしは頷いた。
その瞬間、進真は、がくりと床に崩れた。
「―――良かったぁ……」
止めていた息を、吐き出すかのような声が発された。
…この様子。
本当に心配していたらしい。
「…進真」
あたしはしゃがんで、弟の頬を撫でた。
「あたしが、中谷王我に、何かされたんじゃないかって…
心配して、部屋から出てきたの?」
まさか、それだけで、部屋から出てくるなんて―――
ここしばらくの間、姉のあたしですら、ほとんど姿も見ていなかったくらい、
完全な引きこもりになっていたことを考えると―――もはや信じられない。
けれど…
「…当たり前だよ」
進真は言った。
「…王我のことは、ともかく。
ただでさえ、ドジで、不器用で、ほっとけない姉なんだから」
「…は―――っ?」
あたしは、すぐに反応した。
二歳も年上の姉を、ドジで不器用とは……何事じゃ??
「ドジで不器用って…人から言われたら、ムカつくんだよねー!
今すぐ謝ってもらおうか、進真くんッ!!」
「でも、真実だよ。それに、あんな奴に近づくなんて、危険すぎる。
俺の許可なしに、勝手に動かないで」
「ハァ――?勝手に動いたのは、アンタが部屋から出てこなかったからでしょ」
「はいはい、もう終わり!二人とも、夜ご飯にしましょ!」
互いに言い合う、あたしたち姉弟の間に、ママが割って入る。
…なんだか懐かしい、この光景。
進真が不登校になってしまう前は、いつもこんな感じだった…―――。
「もう、仲が良いかと思ったら、すぐ言い合いになるんだから。
我が家の子どもたちは、ホントに世話が焼けるわ~」
口では文句を言いながらも、顔には喜びが溢れている、ママ。
ママのこんな顔、久しぶりに見た気がする……。
感動に浸っていると、ママがこちらを見た。
「夢ちゃん!早く手洗って、制服脱いじゃいなさい」
「あ、はい!」
「今日のメニューは、けっこう頑張ったわよ~!
さあ、進くん、座ってッ!夢ちゃんも早くねッ♪」
…ママ、ハイテンションになってる。
でも、まあ、そりゃあ、嬉しいよね。
ずっと部屋に引きこもっていた愛息子が、
ようやく、こうして出てきてくれたんだから。
まるで、暗闇の中に射した、一筋の光のようだ。
制服のジャケットを脱いで、洗面所に入り、手洗い・うがいをする。
…ハァ、ビックリした。
まさか、進真が、部屋から出てきていたとは…!
一瞬、亡霊でも現れたのかと思ったほどだ。
顔を合わせて話したのは、何週間ぶりだろう……??
落ち着かない心地で、手を洗いながら、ふと鏡に映った自分を見る。
「…あ」
前髪、ピンで留めたままだった。
高橋来…いや、あの「分からず屋の末っ子くん」が、うちの教室へ来る寸前、
彼にバレないようにするため、付けたものだ。
結局、何の意味もなかったのに、いろいろな混乱があって、取るのを忘れていた…。
前髪を分けていると、
「人並みより広いおでこ」と、「形の悪い太眉」が露わになって、より不細工だ。
こんな顔で、あの方々と話したりしていたなんて…「恥さらし」もいいとこだ。
「あのデコ広・太眉・ブスメガネ、やっと帰りやがったな」
きっと、彼らは、そう言ったことだろう…。
あ―――、ムカムカするッ!
なぜ、進真のことを考えながら、あの男たちのことを思い出すのだろう!?
あー、忘れた、忘れた!!
もう終わったんだから。
何も考える必要はない。
分かったか、ブス夢果ッ!!!
怒りと悲しみを抱えながら、あたしはもう一度、手を洗い直した。
(※次は、特別エピソードです。このエピソードは、来登目線となっています)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます