(2)




――その翌日。




またもや、朝から、中谷美蝶に命令を受けた。





『原口さ~ん。今日の日直、代わってくれる?いいでしょ?』





…だってさ。




あの言い方、もう、あたしが命令を受け入れると分かり切っているみたい。




腹が立ちつつも、もう今さら抵抗する気などない、あたし。




こんな生活も、あと一年もせずに終わるのだから。




あたしの目標は、このまま、ただ静かに卒業することなのだから。




そう言い聞かせながら、




命令に従って、自分の仕事でもない黒板掃除をする。





「…まったく」





思わず、口に出た。




岩倉いわくら先生の字ときたら、なんて消えにくいんだろう。




岩倉先生というのは、あたしが一年生の時に担任だった人で、




二年生からの担任である林田先生と同じく、担当科目は体育。




なぜ、このあたしが、体育教師のクラスにばかりあたるのか。




それは置いておくとして、




岩倉先生という人は、とにかく全てにおいて力が強い。




まだ二十代ということもあって、体力があり、




それ故に、去年から特別科の担任になっているのだけど、




それにしても、筆圧が強すぎる。




岩倉先生は、同じ体育教師同士、林田先生と仲が良く、




そのため、よくうちのクラスに来ては、黒板に落書きをしていくのだ。




これも、その痕跡なのだけど…もはや落書きとは思えないほど消えにくい。




黒板掃除をする身にもなってくれ…!




心の中でそう叫んでいると、





「…原口さん?」





誰かが、後ろから声を掛けてきた。




振り向くと、そこには、クラスメートの松木さくらまつきさくらがいた。




その背後には、彼女の仲良しである、




桐島麗華きりしまれいか岡本杏奈おかもとあんなもいる。




彼女たちとは、去年から同じクラスで、




松木さくらとは、ほんの数回だけ会話したことがあるけど、




あとの二人とは一度も直接話したことはない。




あたしに何かしら声を掛けてくるのは、




それこそ、中谷美蝶か、




今、目の前にいる彼女―松木さくら―くらいなものだ。





「…ごめんね、急に話しかけて。ちょっと用があるんだけど……いい?」





いつも通り遠慮がちな松木さくらに、あたしは頷いてみせた。





「大丈夫だよ。どうかした?」





松木さくらは、一瞬、後ろにいる仲良しの二人の方を見た。




まるで、何かを確認しているような様子だ。




けれど、ほんの少しでも、彼女と話したことがあるあたしには、




別に不思議ではない光景だ。




松木さくらは、どう見ても、桐島麗華と岡本杏奈とは違うタイプで、




友達といえども、いつも二人に気を使っている。




これも、その一貫なんだと思う。




……友達って、こういうのがあるから嫌なんだよねッ!!




そう思いつつ、あたしは、松木さくらが何かを言うのを待った。




でも、なかなか話し出さないので、ザッとこの三人について説明することにしよう。




松木さくらは、おそらく、この教室にいる中で、あたしの次に地味な女子だ。




茶色っぽい黒髪のボブヘアーに、大きな茶色の瞳、




少しふっくらとした薄ピンク色の頬。




制服の着方は、ほとんどあたしと同じ…




襟元はきちんと上まで締められ、スカートも靴下も全然短くしていない。




一方、桐島麗華と岡本杏奈は違う。




桐島麗華は、おそらく、このクラスの中で、中谷美蝶に次ぐ派手な女で、




結んだ髪は明らかにカーラーか何かで巻いており、もちろんメイクもしている。




スカート丈も靴下も短く、首にはネックレスを付けていることも。




彼女は明らかに、あたしのような地味子を毛嫌いしている。




ほら、あの目つき……




「わたしは、あなたを見下しています」と言っているようなものだ。




ほんと感じの悪い女!!




松木さくらのことも、利用しているような気がしてならない。




そんな嫌な女の横に、いつもくっ付いている岡本杏奈という女は、




桐島麗華に比べると足元にも及ばないレベルだけど、




前髪が眉毛よりもだいぶ上の位置にある、それなりに派手な女子だ。




彼女は桐島麗華といつもセットなので、たとえ三人一緒にいても、




松木さくらだけが独りになっていることが多いように見える。




女の三人組はダメだと聞くことが多いけど、本当にそうなのかもしれない。




そんなことを考えていると、ようやく、松木さくらが口を開いた。





「ちょっと…廊下の方に、出られる?」





そう言うので、あたしは言われた通りに廊下へ出た。




その瞬間、すぐ正面に、




一人の女子生徒が、こちらをじっと見て立っているのが目に入った。





「あ」





その女子生徒に、あたしは見覚えがあった。




――そうだ。




昨日、進真の不登校の理由を探るため、一年生のフロアへ行った時、




一年二組の教室にいた、あの時の子だ。




あたしが微笑みかけた瞬間、逃げていった、あの子に違いない!




一体、なぜ、こんなところにいるんだろう?




頭の中でクエスチョンマークを浮かべていると――





「ほら、こうめ。原口進真くんのお姉さんだよ。挨拶して」





急に、後ろから、松木さくらが言った。




……は?




頭の中のクエスチョンマークが、さらに大きくなる。




え、知り合い?




そして、今、「原口進真くんのお姉さん」って言った?




え、あたしと進真という姉弟を知っている人って、この学校にいたの?




さまざまな疑問が飛び交うも、





「一年二組にいます、松木こうめまつきこうめです」





そう言って、目の前の女子が挨拶してきたので、




あたしは意味も分からず、ただ本能的にペコリと頭を下げた。




これは、どういう状況なのでしょうか??




心の中で尋ねていると、





「ごめんね、原口さん。どういうことなのか、きちんと説明するから」





あたしの気持ちを察したらしい、松木さくらが、




宥めようとするような口調で言った。





「こうめは、わたしの妹なんだけどね。


原口さんの弟くんと同い年で、しかも同じクラスなの。


それで……その関係で、話があるんだけど」





いろいろと聞きたいことはあるのだけど、




とりあえず、あたしは話を聞いてみることにした。




……




さて、どのくらい時間が経ったのだろう。




教室の時計の方に目をやるも、それほど経ってはいないようだ。




けれど、この数分間は、




あたしにとっては、とても長く、程遠いものに感じられた。




目の前にいる松木さくらと、その妹が、こちらを心配そうに見ている。





「ホントに……ごめんなさい」





松木さくらの妹・松木こうめが、悲しげな様子で頭を下げた。





「進真くんが不登校になっちゃったのは……


あたしたち一年二組のクラスメート、全員の責任でもあります。


進真くんは、何も悪くなんかなかったのに」





松木こうめの言葉に対して、あたしはただ首を横に振った。




頭の中は整理できていないけど、この子が何も悪くないということは確かだ。




そして、正直、スッキリしている部分もある。




だって、これまで予想するしかなかった、弟の不登校の理由が、




やっと分かったのだから――。





松木こうめが、あたしに語った話はこうだ。





まだ、新学期が始まって間もない頃。




一年二組のクラスメートの一人である、




竹田悠太たけだゆうたという男子生徒が、




中谷王我なかたにおうがという他クラスの男子生徒に、イジメを受け始めた。




そのイジメは、暴力や恐喝など酷いものばかりで、




一年二組の生徒たちは、そのことを知っていたけど、




中谷王我という生徒の恐ろしさに、




何もせず、ただ黙って黙認していることしか出来なかった。




そんな中、ただひとり、その実態をどうにかしようと立ち上がった人物がいた。




それが、進真だったという!




きっと、酷いイジメを受けているクラスメートのことを、




見て見ぬフリをして、放っておくことは出来なかったのだろう。




進真は、竹田悠太を、いつもかばって守ろうとした。




…しかし、それは、悪夢の始まりだった。




竹田悠太をかばったことで、進真は、中谷王我に目をつけられたらしく…




それだけでなく、竹田悠太からは裏切られてしまったようなのだ。




どうやら、中谷王我に怯え切っていた竹田悠太は、




逆らうことが出来ず、また、自分がイジメのターゲットから逃れたいために、




中谷王我の命令に、なす術もなく従ってしまった…。




少なくとも、周囲からは、そのように見えたという。




ある瞬間から、




竹田悠太は、中谷王我に協力するように、進真をイジメる側に回ったらしい。




自分が守ろうとした相手に寝返られ、




イジメの標的となった進真を待ち受けていたのは、暴力と裏切りの地獄だった。




進真は、しばらくの間、その地獄に耐え続けた。




それは、どんなに長く、辛い時間だったことだろう。




けれど、教室にいる時、




進真がそういう素振りを見せたことは、一度もなかったという。




ただ明らかに、笑顔が減り、疲れ切っているようではあったとか……。





進真が学校に来なくなり、




松木こうめは、いよいよイジメの事実を伝えるべきだと思ったのだという。





そんな時、




姉の松木さくらの話に、どういうわけか、あたしの名前が登場したらしい。




あたしは、以前、松木さくらと、チラッとだけ弟妹の話をしたことがあった。




その時、あたしは確かに、松木さくらには妹がいるのだと知り、




あたしには弟がいるのだと、松木さくらに話した。




…今になって、思い出した!




松木さくらは、あんな少しだけの会話を、きちんと内容まで覚えていたらしい。




彼女の驚くべき記憶力が、




あたしと進真が姉弟であるという事実を知らせるきっかけになったのだから、




これまた驚きだ。




とにかく、松木姉妹のおかげで、




進真が残酷なイジメの標的となっていたことが分かり、




それが姉のあたしの耳にまで届いたのだ。




なんて偶然だろう!





「教えてくれて、ありがとう」





あたしは、松木姉妹に頭を下げた。




今にも怒鳴り散らしそうなほど悔しくて、涙が出そうなほど悲しくて苦しいけど、




そういう感情は、全て自分の心の中だ。




とりあえず、今は、真実が分かったということに感謝しなくちゃ。




松木姉妹は二人とも、何ともいえない表情を浮かべたまま、首を左右に振った。





「やっぱり、あなたが、原口夢果さんだったんですね」





妹の方――松木こうめが、姉よりもきっぱりとした口調で言った。





「昨日、あたしたちの教室に来てましたよね?


もしかして…と思ったんですけど、やっぱりそうでした」





クスクスと笑い出す、松木こうめ。




やっぱり、あの時、あたしを見ていたんだ(確信)。





「でも、なんか睨んでるっぽかったから、つい逃げちゃいました」



「睨んではなかったよ」





すぐさま、あたしは答えた。




というか、むしろ微笑んでいたんですけどね?




あたしって、そんなに目つき悪いかな??




そして、松木こうめ……この子、結構ハッキリもの言うタイプね。




姉の松木さくらとは、全然違……





「原口さん」





ウワサをすれば、まだ深刻な表情のままの松木さくらが口を開いた。





「実はまだ、言っておかなくちゃいけないことがあるの。


……気付いてないよね?」




「……え、何が?」





松木さくらと松木こうめは、顔を見合わせた。





「実はね……」





松木さくらが、重い口を開いた。





「進真くんを酷い目に遭わせた、中谷王我は……あの中谷美蝶の弟なの」




「………え?」





一瞬、時間が止まったような気がした。




何の動作も出来なくなってしまったあたしを見て、




松木さくらは、さらに付け加えた。





「だから、わたし、麗華と杏奈に止められたの……


原口さんの助けになりたいからって、無駄に介入なんかしたら、


中谷美蝶が何をするか分からないから。


でも、こうめもわたしも、無視する気にはなれなかったの」





――ああ、なるほど。




それで、いつにも増して、桐島麗華と岡本杏奈の様子を窺っていたのか。




点と点が繋がった!




…なんて言っている段じゃない。




進真をイジメた人物が、あたしをパシリにする女の弟だなんて……




まさかの事態だ!!!





「ほんと、姉があれだから、弟もひどい奴。


でも、原口さん、何もしちゃダメよ。


この学校は、イジメを平気で黙認するようなところだし、


相手は中谷美蝶の弟なんだから!」





松木さくらの必死の訴えが、ぼんやりと聞こえる。




けれど、大ショック状態のあたしの心には、誰のどんな言葉も入ってはこなかった。





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