第2話 日露戦争(二)
「参謀、情報通信の重要性をくどいくらいに報告書に書いてきたのも貴官ぐらいのものだな。同じことを書いてきた連中は他にもいたが、貴官ほど執拗ではなかった」
東郷長官は何とも言えない笑顔を秋山参謀に向ける。
その表情には少しばかりの呆れの色が滲んでいるが、秋山参謀のほうはといえば一切の表情を崩さずに淡々と東郷長官に自身の考えを開陳する。
「この戦で我々が痛感したのは情報と通信の重要性です。
例えば、仮に敵を発見したとして、そこで味方にその情報を届ける確実な連絡手段が無ければその情報はまったく無価値なものになってしまいます。信濃丸が敵発見の情報を送ることが出来たのも、確実な通信手段を有していたからです」
「そうだな。それと貴官が導入に熱心だった三六式無線機も各艦同士の情報交換に非常に役にたった。自身が知り得ない情報を他から提供されることがこれほど戦術的柔軟性を高めてくるとは想像もしていなかった」
なにより情報のスムーズな伝達によって助けられたのが東郷長官自身だ。
そのおかげで、正しい決断を下すという司令長官の職務をどうにかこうにか果たすことが出来た。
だからこそ、誰よりもその効果を身をもって理解している。
「おっしゃる通りです。敵の位置や戦力、それに友軍の被害状況などを知っているのと知らないのとでは指揮をするうえにおいてその正確性に天と地ほどの開きが出てしまいます。対馬沖での戦いのように広範囲にわたる海戦の場合は特にそれが顕著です」
「もし、今後も我が帝国海軍がどこかの国の海軍と戦う機会があるのだとしたら、通信技術の差が明暗を分けることもあるかもしれんな」
日本海海戦の勝利は、とかく大砲の命中率や火薬の性能、それにT字戦法といった艦隊運動の妙に目が行きがちだが、なにより通信という戦場での情報ネットワークの差が決定的だった。
だが、それに気づいたものは目の前の参謀を含めてほんのわずかしかいない。
「通信技術も含めた情報収集とその分析能力が勝敗の行方に大きくかかわってくることは間違いないでしょう。もはや英雄の時代ではありません。勝ったからといって自慢するつもりはありませんが、これからは合理的かつ機能的な軍隊が勝つ時代となるでしょう」
「我々は自らが建造したわけではないが、それでも世界最良の艦をもって、さらに世界最先端をいく通信技術とその運用術を身に着けたことでバルチック艦隊に勝つことができた。つまりはそういうことか」
「はい。将兵らの砲術や航海術を軽んじるつもりはありませんが、情報戦と後方支援による力がなにより大きかったことは間違いありません」
秋山参謀の言葉に東郷長官はその彼自身が書いた報告書にふたたび目を落とす。
今までに話してきたこと以外に索敵の重要性、国内情勢や外交情報の収集と分析を含む諜報の充実、医療設備の拡充を含めた艦の居住性の向上、さらに個艦の工作設備の充実と専門の工作艦の建造、それに各種支援艦艇の必要性などが記されていた。
それらの中で東郷長官の目を引いたのが敵の通商破壊から味方の商船を守る海上護衛部隊の新設であった。
「これは、ウラジオ艦隊による手痛い通商破壊戦の被害を受けてのものか」
「はい。ウラジオ艦隊の跳梁によって我が方の輸送船や民間の船が何隻も沈められました。このことで第二艦隊は批判を浴び、司令官の家に投石されるような騒ぎまで起こっています。
ウラジオ艦隊の一件でさえこの始末です。もしロシアがもっと大規模に通商破壊戦を仕掛けていれば、この戦争の帰趨は大きく違ったものになっていたでしょう」
「もはや我が国は他国からの資源の輸入無しには成り立たん。もし敵に完璧に海上交通路を封鎖されてしまえば艦隊決戦を待つまでもなく我が国は負ける、そういうことか」
「我が国がすべての物資について自給自足が出来ない以上、残念ながら長官のおっしゃる通りです。それと、第二艦隊がウラジオ艦隊の捕捉に失敗した原因の一つに濃霧が挙げられます。現在の技術では無理ですが、将来的には濃霧やスコールの中でも敵を探知できる装置の開発が必要になるはずです」
「技術開発に後方支援の拡充、それに海上護衛戦力の充実か。金がいくらあっても足りんな。あれもこれも欲しいものばかりだが、予算には限度というものがある。貴官なら何を削る?」
「戦艦や装甲巡洋艦といった正面戦力ですね。これらは一隻建造をやめるだけで工場や護衛艦艇がいくつも造れますし、膨大な維持費も必要無くなりますから」
秋山参謀のこの言葉にはさすがの東郷長官も面食らう。
ことは海軍の存在意義にかかわる話だけでは済まない。
「だが、戦艦は戦うためだけではなく、その軍事プレゼンスは外交にも影響するぞ」
「戦艦が無いから国益が図れない、他国との交渉が進まないというのであれば、それは外務省の無能です。軍事力の乏しい小国であっても外交の世界でうまく立ち回っている国はいくらでもあります」
「ほう、そうなのか。後学のために聞いておきたいが、それらの小国は何を武器に魑魅魍魎が跋扈する外交の世界でうまくやっていけているのだ」
「これらの国に共通して言えることは情報収集能力や分析力に優れた組織を持っていること、それに優秀な大使をはじめとした外交官の存在です」
「ここでも情報か。貴官と話をしていると情報中毒になりそうだ」
東郷長官が心底うんざりした表情になる。
「仕方がありません。資源の乏しい日本が生き馬の目を抜くがごとき列強の連中と伍していくためには情報戦で先んじるより他に手立てはありません」
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