第3話 九曜から見た吉岡柚子

『ごめん、誰か今日の時間割教えて!』


 朝ごはんを食べながらそのLINEを見て、私、九曜藺月くよういづきは驚いた。

 それを書いたのが吉岡柚子だったからだ。吉岡柚子はこんな風にクラスLINEに時間割を聞いたりしない。

 いつもちゃんと時間割をちゃんとメモしている。あのオレンジ色の小さなノート。昨日も書いていたし、それを見れば済むことだ。

 そしてクラスLINEに書いても誰も答えないと分かっていたので私は今日の時間割を書き込んだ。

 すぐに既読になってサンキューとスタンプが踊った。

 吉岡柚子がスタンプ。……持っていたんだな、とさえ思う。

 驚いていると正面から厳しい声が聞こえてきた。


藺月いづき、良くないぞ、食事しながらスマホを見るのは」

「はい、おじいちゃん、ごめんなさい」

「今日は何時に帰ってくるんだ。車を出そうか」

「いいえ、大丈夫です。神社のほうには夕方十七時には顔を出します」

「そうか、待ってるぞ」


 私はトースト二枚、目玉焼き、サラダ、手作りの野菜ジュースを全部飲んでお手伝いさんに頭を下げた。

 朝食は私の体重や体調を加味して作られているので、全部食べないとおじいちゃんに怒られる。

 私は九曜財団の大切な跡取り娘だから野菜ひとかけらでも残すことは許されない。

 あと一年半だ。あと一年半で私は九曜財団の会長、私のおじいちゃんの下で修行をしつつ大学に行く日々が始まる。

 私の父親は触らせてももらえなかった椅子に、私が座る。


 九曜財団は普通の会社もたくさん持っているけど、一番金を稼いでいるのは宗教活動をしている公益財団法人だ。

 古い神社の血筋を持つ九曜家と、金持ちが政略結婚した結果生まれた法人だが、私は九曜家の力を色濃く継いでいた。

 九曜家は昔から『耳落とし』という、人の気配を読む仕事をしていて、財閥の人たちに愛されている。

 一言でいうと、その人に漂う『色』で、良い人と悪い人が一目で分かる。

 私は子どものころからその力があり、おじいちゃんと共に仕事をしてきた。

 

 しかし私の父親にはその力がなく、九曜財団の関連企業の社長に収まった。

 父親はそれが面白くなかったようで、おじいちゃんがいる時は私を大切にするが、居ない時は私を虐待した。

 普通に家から追い出すんだから、バカよね。おじいちゃんにバレたら、使用人が言いつけたらそれで終わるのに。

 でも家より外にいるのが楽で、よく公園に行った。そこで小学生の吉岡柚子に会った。


 吉岡柚子はずっとブランコに座ってうつむいていた。

 足をぷらぷらもさせてない。ただうつむいて、静かに座っていた。

 吉岡柚子の周辺だけ、風もない、太陽も、なにもない。ただストンとそこにいた。

 気になって気配を見ると真黒だった。本当に宇宙の奥、まったく光が届かない場所はこういう色なんだろう……そう思うほど黒い。

 今まで何人も見てきたが、そんな人は見たことがなかった。


 なにこの子、すごいんだけど。


 あまりの黒さに興味を持ち、私は少し離れた場所のベンチで見ていた。たぶん週に三回くらい会ってたけど、吉岡柚子は絶対に話しかけてこない。

 他に何も興味がないように見えた。ただ時間というモンスターを飲み込む宇宙。

 誰か公園に遊びにくると草むらに隠れていた。そしてぼんやり空を見ていた。そしてたまに折り紙をしていた。

 本当に笑顔のひとつもない、完全にひとりの宇宙に吉岡柚子はいた。

 そのどうしようもない静けさが、私は好きだった。

 狂ったようなカラフルな世界を見続けていた私に、吉岡柚子の漆黒は新鮮だった。

 だから私も何も話さず、ただその公園に居続けた。


 私は小学校中学校とおじいちゃんが決めた私立に行っていたから、吉岡柚子がどこの子なのか全く分からなかった。

 それに一年近く同じ公園で顔を合わせているのに、私は空気扱いだった。それがいい、すごくいい。

 私は九曜財団の跡継ぎに決まってから、空気のような扱いなんて全くされない。大切に、もしくはゴミのように扱われていた。

 だから空気になりたかったんだ。吉岡柚子は私が九曜の人間だと知っても興味も持たない。

 彼女には独自の守り切った世界があって、そこには誰も入り込めない。

 私がどうあがいても入れないし、入れないところがいい。 

 あの暗闇の先には何があるのだろう。知りたくてたまらない。

 私は夕方帰っていく吉岡柚子を追って家を突き止めた。

 そしてどこの中学校にいて、どの高校に行くのか調べた。ストーカー? いや、認知されてないとストーカーじゃないわ。

 私と吉岡柚子は四年以上同じ公園で一緒にいたのに、吉岡柚子は一度だって私を見なかった。存在してることさえ気にしてない。

 視界に入りたくて、入らせてくれない吉岡柚子が気になって、おじいちゃんに「最後の自由を頂戴」とお願いして同じ高校に行った。


 同じ高校に入って分かったが、やはり吉岡柚子は素晴らしい。


 なににも支配されない、ただ存在するだけだ。でもクラスで一番人気がある原圭吾を好きなのは一瞬で分かった。

 吉岡柚子が恋をするのか。絶望したが、そこは吉岡柚子。気配は相変わらず黒く、まったく話しかけず目で追うだけ。一歩も近づかない。

 でも吉岡の視界に人間が入れると知って、ものすごく嫉妬した。これが感情か。驚くほど私は原圭吾が嫌いだ。

 あんな楽しそうに人生生きてるやつ、羨ましすぎる。私なんて数年先からお先真っ暗だ。でもまあ、吉岡柚子が近づかないならそれでいい。

 原圭吾もあれだけ人気があれば吉岡柚子なんて気にしないだろう。

 あとたった一年半だ。その間、私のための宇宙で居続けてほしい。

 そう思っていたけど……。


「おっはよー! あ、九曜さんだね? わお、美人さん! 時間割教えてくれてありがとう。助かっちゃったー。んでさ、頭打った後遺症かな? 色々忘れてて迷惑かけると思うけど、私の席ってどこかな? 席の表とか無いのね」


 私は茫然とした。今まで一度も、同じ学校になって一年半。見続けて五年以上。ずっと一言も話さなかった吉岡柚子が笑顔で私に話しかけてくる。

 視界に入りたいと思っていたけど、こんなに突然? それになんでこんなに明るいの?

 それに……気配が黒ではなく、七色に輝いている。

 私は絶句する。こんな気配、今まで一度も見たことがなかった。

 どんな凄まじく仕事ができる政治家も、財閥トップも、こんな光を持っていなかった。

 昨日まで黒かったのに、突然何なの? 徐々に気配が変わる人は結構見るけど、こんなのは初めて。

 それでもなんとか口を開く。


「えっと、窓際の前から四番目だよ」

「ありがとー! 九曜さん副委員長なんだよね? 今日朝偶然さ、原圭吾くんに会ったんだけど、今日の放送委員会出られないから代わりに出てくれないかって言ってた。オッケー?」


 心臓が激しく暴れる。偶然原圭吾に、朝会った? どういう状況なの?

 吉岡柚子が原圭吾に接触したというのか。私が見てないところで、ふたりが話したの?

 私が頷くと「じゃあLINEしちゃうね、サンキュー」とスマホを弄りながら教室に入って行った。

 心臓が服の上からでも分かりそうなほど大きく動いている。吉岡柚子が私に話しかけた。私に。

 ものすごく嬉しくて……その数倍、悲しい。なんだろう、やっぱり違う。私は吉岡柚子と話したかったわけではない。

 何にも興味がない、雨がどれだけふっても水面が揺れる事も無く飲み込む漆黒、そんな吉岡柚子を見ていたいのだ。

 私に話かけるような吉岡柚子は好きじゃない。


 一か月ほど前、吉岡柚子は手首を怪我した状態で学校に来た。でも冬服で長袖、セーターの袖をひっぱった状態で生活していたから、私以外誰も気が付かなかったのでは……と思っている。いまごろその影響が出ているの?

 学校では誰とも話さず静かに窓の外を見ている。そんな吉岡柚子を見ていると、これから続くゴミみたいな未来の横にだって、何食わぬ顔でいてくれる……そんな安心感があった。

 いつもイヤホンをして……そこで気が付いた。

 教室の席に座っている吉岡柚子はいつもしているイヤホンをしていないのだ。

 それに、驚いたことに左右前後の人たちに話しかけている。みんなめちゃくちゃ戸惑っているが普通に会話している。


「ちょっと頭打ったショックで色々忘れちゃってるんだけどさ、テスト範囲ってここからここまで?」

「そうそう。ていうか吉岡さんめちゃくちゃ丁寧にノート取ってるからそれみたら分かることない?」

「あ~~、そうみたいね。うわあ、すごっ。めちゃくちゃしっかり書いてるねえー」

「なにそれ、なんで自分で書いたの覚えてないの?」

「でもそういうことって無い? 私はめちゃあるなあ」


 そう笑って吉岡柚子は前の席の女に触れた。

 吉岡柚子がクラスメイトにスキンシップするなんて、嘘でしょ?

 吉岡柚子はぶれない。何も興味がない、揺れない。それが吉岡柚子。どうなってるの?


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