第2話 吉岡柚子の恋

 目が覚めたら、真っ白な部屋だった。静かに電子音が聞こえる……それは波のように響いては消える。

 そして目の前に色んな人たちがいて……その人たちは全く知らない人たちだった。

 単純に、死んだんだなあ……と私、吉岡柚子は思った。

 そう思ったのと同時に「やっと終わった」と思ってしまい、目を閉じた。

 やっぱり死にたかったんだ。ずっとずっと自分の真ん中にある気持ちが分からなくて、もやもやしていた。

 それでも静かに降り積もる雪が音もなく空に届くように、私は死にたかった。

 ガラスのドアが開いて、お父さんにそっくりだけど……お父さんより品がよい服装をした人が私に笑いかけた。


「吉岡柚子さん、初めまして。俺は吉岡徹よしおかとおると申します。まずここは安全だということだけ信じてほしい」


 そう言ってお父さんのそっくりさんは目じりをさげてほほ笑んだ。

 何故だろう、その瞬間、私の心は爪が伸びた指で心臓をざくりと潰されたように痛んだ。

 こんな風に笑うお父さんの笑顔を、私は何年も見てなかったからだ。


「驚いて当然だね。とりあえず大丈夫だから。こんなゴチャゴチャした部屋じゃなくてもっと静かな所に行こう。動かして」


 徹さんがそういうと、私が座っていた椅子がカチャリと大きな機械から切り離された。

 そして車いすのような形状になった。それを徹さんが押して歩く。

 私は死んだんじゃないの? 私はどこかに連れ去られたの? 誘拐? わからなくて怖いけど、車いすを押しているのがお父さんにそっくりな人という事実だけが私を安心させた。そして少し笑ってしまう。私のお父さんは私の塾代金を使い込んで浮気をしたような人だ。

 私になんて全く愛情がなくて、優しくしてもらったことなんて、ここ数年ない。目の下にクマを作って叫んでいる姿しか思い出せない。

 だからきっと……甘えたいのだ、このお父さんにそっくりな人に。

 車いすは無機質で真っ暗な廊下を移動してドアの前に立つ。そしてドアが開くと眩い光に目を細めた。

 部屋中に植物が置いてあり、ゆっくりと水が流れる音が響いている。

 壁はほんの少し水が流れる滝になっていて、空気が澄んでいる。

 私は思わず長く細い息を吐く。とても落ち着く。

 徹さんは私の車いすを窓のすぐ横……大きな木があるところにおいてくれた。

 室内なのに置いてある木は室内だと思えないほど大きくて立派だった。

 徹さんは私の視線に気が付いてその木に触れながら、


「最近の技術だと室内でここまで大きくできるんだよ。水耕栽培なんだけど、これは下から根を見られるのが楽しくてね。あ、ダメだ。まずちゃんと説明しないとね。ほら、窓の外見られるかな」


 と私の車いすを窓際に動かした。そこには都心の景色が広がっていた。

 私は地方に住んでいるので、ここまで都会に来たことがない。でもテレビとかで見たことある景色に安心した。

 そして吐き出すようにいう。


「……死んでない、んですね。どこかに移動してきただけで」

「安心して、死んでないよ。あとこれを見てほしいんだけど」


 そう言って鏡を渡してくれた。その『私』は間違いなく『私』だったけど、髪の毛はサラサラでまつ毛は長い……キレイな私だった。

 でも本当に顔のパーツとか、全部私なのだ。ほんの少し違うけど、全然『私』だった。

 鏡を見ながら口を開く。


「これは……どういうことですか?」

「ここはね、君がいた世界とは違う世界なんだ。分かりやすく言うと……君の祖父は離婚されたようだけど、その祖父さんが別の方と再婚して、君に弟が生まれる可能性もあったわけだよね。そう言う風に細かく分岐していった世界のひとつ。君の人生のひとつの可能性だ」

「全然わかりません」

「そうだろうね。でもとにかく君に危害を与える人はいないし、一週間程度で元の世界に戻れる。ちょっとした旅行にきたと思ってほしい。学校には君の身体に入った『こっちの世界の柚子』が行くから問題ないよ。ほら、こんな風に」


 そう言って徹さんは机に置いてあったモニターを付けた。すると目の前に般若のような表情をして叫ぶお母さんがいた。

 突然の日常に心臓がぎゅうと掴まれて痛くなる。そして『私の声』が響く。


『家事はみんなで平等にやるべきよね。それは思う。でも柚子……じゃない私は、バイトから帰ってきてから夜味噌汁作って準備してる。その後に宿題して、なぜか洗濯物も家族分畳んでるよね。そんで一番最後にお風呂入って掃除までしてる。ぜんっぜん平等じゃないんだけど』


 『私』がそういうと、画面の中のお母さんは顔面蒼白になってポカンと口を開けた。

 その後も『私の声』は今まで私が我慢していたことを、次から次に言い放ち、私が持って帰ってきたのに、いつもお母さんとお姉ちゃんが勝手に持って行っていたお惣菜をお弁当箱に詰めた。それを見てドキドキしてしまう。だってあのお弁当箱はお姉ちゃんのものだ。

 手早くそれを詰めて部屋に戻り、学校のWEBサイトを見て経路を確認している。

 それをみて私は口を開く。


「これ、私は、私に話しかけられないんですか」

「ごめんね、それは出来ないんだ。まだ研究中で一回トライしたら接続が完全に切れちゃって大変だったから」


 そうですかと言いながら画面に戻った。

 学校への行き方とか教えてあげたいと思った。

 そして手をくっと握る。

 状況は全然分からないけど、私は少し楽しくなり始めていた。

 家事をするのは家族なんだから当然と言われていたし、これ以上大声をあげるお母さんを見たくなかった。だからただいう事を聞いた。あと一年半我慢すれば一人暮らしが出来る。それまでの辛抱だと思って生きてきた。でも心の奥底で分かっていた。この人生から抜け出せる気がしない。ドロドロと身体にへばりつくヘドロのように、この家は私に永遠にしがみ付いてくる。

 それがどこか分かっていたから……きっと私は二階から飛び下りたんだ。ただ頭を強打して手首を骨折しただけで死ねなくて驚いたけど。

 もっともっと高い所から落ちないと死ねないと知った。そんな矢先だったから、やっと死ねたと思ったのに、たった一週間で画面に映っている地獄に戻らなきゃいけないのか。私はため息をついた。

 その視界に、三階建てになっている甘いものがたくさん入った入れ物が運ばれてきた。


「アフタヌーンティーでもどう? 柚子の研究によるとどこのワールドに行っても甘い物が美味しいのは共通! らしいけど」

「こんなの無料で頂いて良いんですか? お金持ってきてないんですけど……」

「そんなこと言ったら君のお金をあっちの柚子は勝手に使うよ、たぶん。ごめんね、本当に身勝手な娘なんだ。飲み物は紅茶でいいかな?」

「はい」


 私は紅茶を受け取って一口のんだ。それは今まで一度も飲んだことがないくらい甘くて深くてまろやかで、美味しかった。

 そして画面の中の私はちゃんと制服を着て、なんとクラスのLINEに『今日の授業何があるの?』と聞いていた。

 驚いて画面にくいついてしまう。だって私はクラスの雑用を押し付けられるためにグループLINEに入れられたのだ。

 何か疑問を聞くようなこと、したことがない。無視されるに違いないと見ていたら、クラスの副委員長、九曜藺月くよういづきさんが書いてくれた。

 サンキュー! と『私』は書いて、教科書をカバンにつめて部屋から出て行く。

 九曜さん……今まで一度も話したことないし、正直顔も思い出せないけど、聞いたら答えてくれるのね……驚いた。

 

 『私』が家から出て行こうとしている。その視界が大きくブレてお姉ちゃんが立っていた。

 そして『私』を睨みつける。


「ねえちょっと、朝ごはんは?! それにあんた、なんでお弁当箱間違えてんの?! どういうつもり?!」

「朝ごはんはもう作らない。机の上にパンがあるからそれ食べなよ。あとお弁当箱はこれが一番サイズが良さそうだからこれにしたの。使いたいなら先に起きて使えばよくない? あとなにこの匂い。香水? なんかすっごい臭いから、もうちょっと控えめにしたほうがいいよ。高校生でしょ? あ、でも髪の毛すっごく綺麗ね。どこの美容院? 何かトリートメントしてるの?」

「えっ、急に何? 褒めてんの、けなしてんの?」

「思ったこと言ってるだけ。良いトリートメント知ってるなら教えてよ。私のこの髪の毛、相当大変ね」

「なにそれ。あんた気にしてたの。全然気にしてないと思ってた」

「バカなの?! この年齢で容姿気にしないわけないじゃん」

「バカ?! え、ちょっとまって、お母さん、柚子が変だよーーーー!」


 お姉ちゃんはそう言って台所のほうに消えて行った。

 私は思わず笑ってしまう。『私』がお姉ちゃんにこんなふうにいうなんて。

 それにお姉ちゃんは……私が容姿なんて全く気にしてないと思ってたんだなと分かってため息をついた。

 綺麗なお姉ちゃんと真逆の自分をずっと比べていた。でもお姉ちゃんにそれを言ったことは一度も無かったんだ。

 だったらお姉ちゃんが知らなくて当たり前なのか……客観視して唖然とした。

 『私』は家から出て自転車に跨った。どうやら『私』は私の日記を読んだようで自転車登校だと気が付いたようだ。

 あの本音をすべてぶちまけて書いてある日記を他人に読まれるなんて恥ずかしくて仕方ないけど、どこかワクワクしてる自分がいた。


 自分の置かれた立場を、容姿を、人生を、生まれたところを悔やみながら、ずっとずっと『ここではない自分、そうではない自分』を妄想していた。

 ものすごく強くて何でも言える自分。

 どうして私ばかり家事をやらされるの? そう言いたかった。

 その自分が、画面の中にいた。

 あんな風にお母さんに、お姉ちゃんに、言ってみたかった。あんなポカンとした顔を見てみたかったんだ。


 『私』はスマホの地図を見ながら自転車に乗って学校に向かう。途中……いつも私が通らない方向に向かった。

 見ていて気が付いたが、マップが示しているのは学校の裏口への行き方だ。これだとかなり遠回りになるけど……見ていると『私』は自分の意思でしっかり動いている人だから、すぐに気が付くだろう。

 そして『私』は道沿いにあるパン屋さんに気が付いた。こんなところにパン屋さんがあることを知らなかった。

 自転車をとめてパン屋さんに入る。すると中に同じ学校の制服を来た子がいた。


「超良い匂いがするから入ったら……君って、原くん、だよね? 偶然だね、おはよう」

「お、おお。吉岡。おはよう」


 私は手に持っていた紅茶を落としそうになった。原くん……原くんだ!

 ずっとずっとただ見ていたクラスのヒーロー。原くんが、なんとレジにいた。

 どういうことなのだろう。なんでこんなところに原くんがいるの?

 レジの後ろからマスクした女の人が出てきて原くんに話しかける。


「ごめん、圭吾。もういいよ、もう私が店番するから」

「でも姉貴、熱あるんだろ? せめて病院行ってこいよ」

「でも圭吾、もうすぐテストだから学校行ったほうがいいでしょ?」


 会話を聞きながら気が付いた。このお店は原くんのお姉さんがしてるお店のようだ。たしかに原くんのお弁当はいつもパンだった気がする。

 パンが好きなのかなと思ってたけど、お姉さんのお店で買ったものだったのね。知らなかった事実に驚いて画面を見つめる。

 『私』はトングをカチャカチャしながらレジに近づいた。


「はじめましてお姉さん。私、原くんと同じクラスの吉岡柚子と申します。今日からテスト前授業で範囲が出てくるっぽいんですけど、もし良かったら私、原くんにノートのコピー渡しますよ。お礼は……このお店のオススメパンを教えてください。すっごく良い香りがしてお店入っちゃいました!」


 私は口を押えて絶句する。原くんのお姉さん……当然だけど初めて会った人に即挨拶。そしてノートを、私が原くんに渡す、そのお礼にパンを教えてって……そんなの普段の私なら絶対に言えないことだ。

 当然だと思う。だって私、学校が始まって一年三か月、一度だって話しかけたことがない。同じクラスってだけで、吉岡って苗字を知っててくれたんだと涙が出るくらい嬉しかった……それくらい接触がない。教室の隅でただ息をしていただけなのに。

 原くんは、にこりと私に、ほほ笑んだ。

 その瞬間、涙が溢れて画面が見えなくなってしまう。

 原くんが、私にほほ笑んだ。慌てて涙をぬぐって画面に喰らいつく。


「本当? 助かるな。今日は休みたくないと思ってたけど、姉貴は熱だしおじさん会社だし、困ってたんだ」

「オッケー! じゃあ帰りにノート持って寄るね。んでオススメのパンはどれ? 予算は五百円で」

「了解。んじゃこのサンドウィッチと……」

「あーー生トマトダメ。時間経つとフニャフニャするじゃん?」

「なんだよ、オススメ聞いたのに。じゃあ焼いたトマトは?」

「オッケー! そっちのが好きかも」

「じゃあこっちのパンだ」


 原くんにオススメされたパンを『私』は購入して自転車で去って行った。

 もう事実を飲み込めない、この『私』すごい。


 私がこのパン屋さんに気がついたとして……それでも絶対こんな風に動けなかった。

 この『私』、私じゃないみたいと思って、そうね、私じゃないと思った。

 そして気が付いた。

 徹さんの話によると、私は一週間後に元の身体に戻るようだ。

 『私』は原くんに話しかけられたけど私は絶対にそんなこと出来ない。

 原くんの家の事情を知っている私が勝手に生まれてしまっている。

 でもこの『私』は私じゃないから、またこの状況になった時に対応できる自信がない。

 どうしよう……。

 不安になりながら、緩む口元に触れた。

 原くんと私が、話した。

 視界に入った。

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