第23話
「──ああ。すまない。ありがとう」
通話を終え、携帯を離した夏輝は目の前にあった鏡に映る自分を見て苦笑した。
前は均等に剃られていた顎ひげは今は生え放題で、目元には黒いクマがくっきりとあった。
その目も憔悴しきって焦点も定まっておらず、もし患者たちの担当を続けていたらきっと不安を与えていただろうと安堵と不安が胸を占めていた。
幼い頃の陽七乃なら、この疲れ切った顔も「叔父さんパンダみたーい」と言って笑い話にしてくれたかもしれない。
「くそっ」
だがそれは叶わない。何故なら今の夏輝を困らせている種は彼女だからである。
「どこにいったんだ…」
そんなことを呟いていると、扉を開ける音が聞こえた。彼は思わず「陽七か!?」と言いながら振り返ったが、すぐにその表情は曇った。
「なんだ桜か」
「私なのがそんなに嫌?」
扉の前には彼の妻である桜が立っており、その手にはアタッシュケースが握られていた。
「陽七乃ちゃんが心配なのは分かるわ。でも、少しは寝ないと」
「俺のことはいい。あいつが先だ。早く治療しないと…!」
彼女の心配も余所に、夏輝は再びどこかへ電話をかけようと携帯を手にした時、アタッシュケースに目が行き、手を止めた。
「なんだそれは」
「ああ、これ」
桜はアタッシュケースを目線まで持っていき、中に影響を及ぼさない程度に揺らしながら「試薬よ」とだけ答えた。
「なんの試薬だ」
「chickよ」
その名を聞いた夏輝は目を見開き、桜に詰め寄った。
「志願者はまさか──」
「ええ。陽七乃ちゃんよ」
桜の両肩を掴み、揺らす勢いで興奮をそのままに質問する。
「どこだ!どこで渡すんだ!」
そんな彼を目の当たりにしながら学者である桜は微笑を浮かべ、掴みかかっている彼を離してから答える。
「明日の朝渡すわ。一緒に来る?」
「着きましたよ」
「おー早い早い」
鎌倉から空港近くのホテルまでガブに運ばれている間、私は特に不快感もなく、快適という字を体現した旅だった。
着地を除いて。
「うべっ」
地面から少し離れた場所から突然手を離された私は反応が遅れ、四つん這いのような状態で着地した。
「あら、足腰弱かったですか?」
そんな私を上空から少し煽るような口調でガブは話しかけてきた。すごい腹立つ。
「降りてきな。もう一発いいのをあげる」
「お断りします」
ニヤケ面をそのままに着地した彼は煽り性能が高く、本当に殴ろうかと思ったが、疲労が勝り素直に下ろし、背中を向けてホテルのエントランスへと向かう。
「何名様でしょうか」
「ひとりで」
部屋は空いてるらしく、スムーズに手続きは終わり、ルームキーを渡された。
部屋は一人にふさわしい質素で利便性のある綺麗で、さすがと言わざるを得ない。
本当ならこの綺麗に整えられたベッドに飛び込みたい。
「だけど我慢!」
トランクをベッドの近くに置き、私はユニットバスでシャワーだけを浴びることにした。
シャワーは当たり前だが暖かく、夜の海風に当たった身体によく染み渡り、特に足の指先はじわじわと痺れまで感じた。
「あーさっぱりした」
「もう就寝ですか?」
げ。
「げ」
「なんですか。げって」
この野郎、私が我慢したベッドの上に悠々自適と腰掛けやがって……
「大丈夫です。実体化してないので」
「でもさあ、気分ってあるじゃん。気分」
「そんなもんですかね」
フワフワと羽も出さずにベッドから浮かんで離れたガブリエルに私は虫を追い払うようにシッシとジェスチャーをしてからベッドに倒れ込む。
「ふぃもふぃー」
枕に顔を埋めて声を発せば、その振動がまた心地いい。私だけかな?
そんな事を感じていると掛けていたコートから着信音が聞こえた。
「ガブ、取って」
「えー」
まるで一昔前のキャプチャ画面のロゴのように浮遊しているガブリエルを見た私はため息をつきながらベッドから身体を引き剥がし、ポケットからスマホを取り出す。
宛名不明のメールだった。内容はたった一文。
明日の早朝、ターミナル前にて
「ついに来た」
思わず頬が緩む。
「どうしました?」
その様子に不審がったガブリエルが顔を覗き込んできたが「なんでもない」と言いながら押し退けて再びベッドに飛び込む。
「おやすみ」
「あ、はい」
私が布団をかぶってそう言うと電気が消えた。
こういう時は気が利くのは流石だ。
おやすみ。そして明日から本番だ。
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