第16話
仕事が手につかない。出てくるのは業務的な返事とため息だけ。
「はあ」
ふとキーボードを叩いていた指を休め、顔を上げると見慣れた顔があった。
「お疲れ。アキ」
「お疲れ様です上平さん」
缶コーヒーを片手に笑っていた彼は私の返事に少し残念そうな顔をしながらもそれを手渡してくる。
「浮かない顔してるな。"先輩"が気になるのか?」
「気にしないわけないじゃないですか。だって蒸発したんですよ? しかも四階にある病室ですから飛び降りることも出来ないし監視カメラにも姿が映ってないんですから、あんまり一身の都合上言いづらいですけど神隠しか超常現象としか表現のしようが無いんですよ。だから余計に心配なんです。もし前者なら無事では済まない訳ですし....」
一息で捲し立ててから微糖のコーヒーを飲む。ずっと彼は聞き役に徹してくれていた。
「先に言っておくと、多分アイツは大丈夫だと思うぞ。そういうのはお前の方が"分かる"んじゃないか?」
「それはそうだけど....」
返答に困りながらもそうだと納得する中、勤務時間中にエレベーターの到着音が聞こえる。
「搬入にしては早すぎないか?」
彼の言葉に同意しているとエレベーター近くにいた事務員達がざわめき、こちらにも伝播してきた。
それでも事情が分からず、彼が近くの社員に声をかけた。
「どうした?」
「あ、常務に亜紀さん。二人とも今すぐ会議室に行ってみてください!」
「「会議室?」」
返事も聞かずにそう言った社員は課長の方へと小走りで向かい、消えていく。
「とりあえず見にいくか」
「それもそうですね」
大体四日振りだ。なのにとても懐かしく感じる。
以前は巨大で黒い魔物だと思っていたのに、今は違う。太陽から私を遮ってくれる大きな日傘代わりの存在だ。
かつての枷をつけられた重い足取りは綿飴のように軽く、断頭台の刃のように思っていた自動ドアは道を譲る紳士にさえ見える。
「こんにちは」
「はい。こんにちは」
守衛さんへ初めて自分から挨拶をすると一瞬驚いたような顔を浮かべたが、すぐにいつものようにニッコリと笑い、挨拶を返してきた。
挨拶を済ませてからポケットに入れていたIDカードをかざしてゲートをくぐり、エレベーターのボタンを押して到着を待つ。
待ちながら腕時計を見ると時刻は九時を少し過ぎていたあたりで出勤時刻を大幅に過ぎていたため、スーツをまとった企業戦士や戦乙女もおらず、私の服装もいわば重役出勤と思われるのではと期待していた。
「お、来た」
そんな事を空想しているとエレベーターが到着し、チンと言う音だけはアンティークで滑らかに開く中へ足を踏み入れ、目指す階のボタンを押すと再び滑らかに閉まって小さな振動と共にモーターの駆動音が聞こえる。
時間にして十数秒だった。でも、その間に脳裏にはかつてのトラウマや同僚たちの顔が呪縛のようにまとわりつき、決心を鈍らせてくる。
その度に私はバッグに入れていた”お守り”を握って何のためにかを思い出した直後にエレベーターは停止して扉を開く。
ここから見える忙しそうなオペレーターたち。その手前でつまらなそうな顔を浮かばせている受付の人。
「はいはい。御用は───え?」
「課長と人事課長を呼んで。私は会議室で待ってる」
受付の人に言いたいことだけ告げ、”一応”社員の私はオフィスへと足を踏み入れる。
「なんだなんだ?」
「誰?」
出勤時間外に、しかも私服でデスクの海を横断する姿はドラマで例えるなら嫌な上司や同僚の不倫相手、マンガなら主人公といい感じだったキャラが実は勤め先のお偉いさん的な感じだ。
「あれ
「嘘!? めっちゃ美人じゃん」
「サエナイさんなの?」
片手に持つIDカードでやっと正体が分かるとどよめきはあっという間に広がり、視線やヒソヒソ声を全身で受けながら会議室に入ってど真ん中に座る。
あえてブラインドは落とさず、職務も忘れて好奇の視線を浴びながら腕時計をちらりと見ると時刻は九時十五分。残り一時間以内にケリをつけなくては。
そんなこんなでしばらく時間を潰しているとガチャリと扉が開いて強張った表情の人事課長が最初に入ってくる。そして続くようにカッパ頭のフロア責任者こと部長も。
一応はあれなので立ち上がると人事課長は着席するよう促してきたのでありがたく着席するとブラインドを下げてから私と対面する位置に座った。
「
「心配をおかけして申し訳ありません。おかげさまで元気になりました」
服装をじろりと一瞥しながら形式上の快方祝いを述べ、私も形式上の返事をしてから主導権を握ろうと行動を起こす。
「早速で申し訳ありませんが、こちらを」
言うと同時に”切り札”を机の上に置く。
「それは?」
一瞬目を見開いた人事課長は平静をすぐに取り戻しつつも、少々上ずった声で聞いてきた。
「見て分かりませんか? 辞表です」
ここに来て最ッ高にハイな笑顔へ切り替える。
「辞表? もし不満があるならここで
「本当に改善してくれるんですね?」
声を被せる。
「ええ。なんでも仰ってください」
その言葉を待っていましたあ!
「それでは、まずあなたの隣にいる部長を解雇とまで言いませんが軽い処分にしてください」
「分かりました。すぐにでも───はい?」
事務的な返事をした人事部長は驚いた顔でノートパソコンに打ち込んでいた報告を止め、隣にいたハゲ部長は「何言ってんだお前」という驚きと謎の安堵を浮かべていた。
「どういう事でしょうか。解雇なら分かりますが、その反対というのはどういった風の吹き回しでしょうか.....?」
「別に何もありません。ただ、私の辞職とこの人の処罰を軽くしてほしいだけです」
「陽七乃....!」
下の名前で呼ぶな。馴れ馴れしいんじゃ。
ぐっと堪えてハゲ部長には一切視線も向けず人事部長へ追い込みをかける。
「突然の来訪、さらに辞表の叩きつけは非常識だと承知しています。しかし今の私には時間が無いんです。お願いします」
身を乗りだし、落ち着きを少し失くした人事部長の目を見て切実に訴える。
しばらく何かを言おうとして躊躇ったりしていた人事部長はかけていた眼鏡を外し、レンズを拭いてかけ直してため息をついた。
「いいでしょう。受理します。デスクに残っている私物は全て処分で構いませんね?」
っしゃああああ!! 大ッ勝ッ利!!
心の中でガッツポーズをして雄叫びを上げながら表層ではニッコリとして明るい声で応じる。
「はい。あ、では一つだけ回収しても良いですか?」
「構いません。それと、IDカードはここに置いてから退出してください」
手に持っていたIDカードを机の上に置き、会議室から出ようとした瞬間、扉が勢いよく開いて驚いた。
「ん? あ、亜紀ちゃん」
「どうしてここにいるんですか!」
「左江内!? お前まだ入院してるはずだろ!」
入院、というワードは野次馬をざわつかせる。さらにフロア内屈指の美男美女カップルからのガチトーンとなればもしや重病なのではと勘のいい同僚もちらほらと現れた。
「大丈夫大丈夫。貧血だったし今じゃもう元気いっぱいよ!」
慣れないテンションは維持が大変だ。
でも、内心は全然元気じゃない。なんならちょっと心臓のあたりがまた痛くなってきたし。
「じゃあどうして脂汗が浮かんでいるんですか? 全然元気そうじゃないですよ」
「え、本当?」
慌てて額に手を伸ばすと汗すらも微塵に感じさせないつるりとした肌が指に当たる。しまった。
冷ややかな目で、亜紀ちゃんは言葉を続ける。
「やっぱりそれなりに重篤な病を抱えてるんですよね。だから辞めるんですよね?」
辞める、と重篤な病というワードで野次馬のどよめきは最高潮に達する。
その中、私と亜紀ちゃんは静かに対峙していた。
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