チャーハンの話2
蒼田はしっかりと女性の手首を掴んでいたため、突然の重みにもなんとか手を離すことなくこらえることができた。目を開いた女性は状況が理解できていないらしく、驚きと恐怖で声も出ないようだった。
なぜ、上空から? 光の柱はなんだったのか? 驚いているということは、女性は自分の意志でこうなったのではないのか?
蒼田も理解できていないのはいっしょだったが、この状況では女性を助けることがあらゆる思考よりも優先された。
「離さないで! 絶対に助けるから!」
蒼田は叫んだ。蒼田の呼びかけによって多少われにかえったのか、女性の方も繋いだ手に力がこもった。次いで何か叫んでいるが、どこの言葉なのかまったくわからなかった。英語ではなさそうだったが、しかしこの状況で言語はあまり重要ではなかった。
蒼田は渾身の力を込めてどうにか女性を引き上げると、展望台の床に倒れ込むように二人して転がった。
胸で激しく息をする蒼田に向かって女性は何か言っているが、あいかわらずわからない。しかしお礼を言っているであろうことはその美しい眼に浮かべた涙でわかった。女性はあふれる感謝を表すように蒼田に胸にがばっと抱きついた。
「よかった、よかった。――」
ぽつりぽつりとすこし息苦しげに言って笑った蒼田の目も、すこし濡れていた。
幻想的な体験から危機的状況に一転し、それもなんとか乗り越えたものの、問題はここからといってよかった。お互いに状況を整理したいが、お互いによくわかっていなかった。ひとまずベンチに座って話をしようとするが、一生懸命喋る女性の言葉がやはりわからない。さしあたり天使ではなさそうだった。
「フランス?」
蒼田はあてずっぽうで言ってみた。女性の顔がぱっと明るくなった。月の薄明かりでもよくわかる、花が咲いたような笑顔だった。どうやら当たったらしい。店では外国人の客と接することもたびたびある。フランス人ということなら、言語はともかく、すくなくとも天使よりはコミュニケーションがとれそうである。ちなみに先ほどの危機的状況を経て、映画の撮影ではないか、などという発想はすでになかった。
「名前を教えてほしい。俺は、蒼田。君は?」
蒼田は身振りと手振りを交えてなんとか伝えようと試みた。
「アオタ」
まずコミュニケーションをとろうという蒼田の意を察したらしく、女性は蒼田の名を口にした。蒼田は二回も三回もうなずいてみせた。彼女は次いで胸に手を当て、自分の名を告げた。
「シャルロット? シャルロット・コルデー?」
確かめるように蒼田は問うた。
シャルロットは咲った。やっぱり天使なのかもしれない、と蒼田は思った。
蒼田の感想は、ある意味的を射ていたといえるだろう。
シャルロット・コルデー。天使は天使でも、
「暗殺の天使」
という呼び名を彼女はもっていたのだから。
フランス革命の激動期を生きた女性である。歴史に疎い蒼田はピンときていないようで、シャルロットの笑顔に呑気に見惚れていたのだった。
シャルロットを伴い蒼田が自宅に着いたのは、深夜一時をまわったころだった。こんな夜中に東京のはずれで外国人を(しかも女性を)一人で放っておくことはさすがにできなかった。はじめはこのまま交番に連れていってなんとかしてもらおうかとも思ったが、シャルロットも自身もひどく疲れていたので、何か行動するにしても明日に持ち越すことにしたのだ。いちおうシャルロットには身振り手振りでどうにか伝えて納得してもらった。彼女は真面目な性格らしく、一生懸命蒼田の意を汲み取ろうとしてくれていた。明日警察にうまく説明できるだろうか。不法侵入のことも白状しなければならないな、と多少の憂鬱を覚えながら、蒼田は自宅アパートの玄関を開けた。
自身が自殺未遂をしたことについては、忘れるようにしていた。もうそれどころではなかったのだった。
1LDKのアパートの一室は、物が少なく、あまり生活感がなかった。給料がよかったこともあって奮発して借りた部屋なのだが、完全に広さを持て余していた。シャルロットには来客用のスリッパを出して、靴を脱いで上がるようジェスチャーをした。彼女はすこし驚いたようだったが、すぐに受け入れてくれた。
「お水しかなくて、ごめんね」
蒼田は冷蔵庫からミネラルウォーターをコップに注いで、シャルロットに差し出した。
とりあえずリビングのソファに座ってもらっていたシャルロットは、驚きと好奇の目で部屋じゅうをきょろきょろとしていた。まさか二百年前のフランスの人物がタイムスリップしてきたとは思わない蒼田は、単純に日本の家が珍しいのだろうと思っていた。
「Merci」
水を受け取ったシャルロットは礼を言った。喉が渇いていたのか、ひといきに半分ほど飲んだ。
「あ、メルシー。ありがとうって意味だ」
展望台でシャルロットを救った時、彼女は何度もそう言っていたのだが、混乱した状況でそのときの蒼田は聞き取ることができなかったのだった。フランス語はまったくわからない蒼田だが、世界のありがとうくらいはいくつか知っていた。
「アリガトウ?」
「そう、ありがとう。メルシーはありがとう。ありがとうはメルシー」
「アオタ、アリガトウ」
「おお、すごい、すごい。メルシー、メルシー」
たった一言だが、ジェスチャーではなく初めて言葉が通じたことに二人は喜んだ。そして、笑ったことで緊張がほぐれたのか、二人して腹の虫が鳴った。
「お腹空いたね、なにか食べよう」
恥いるようにうつむくシャルロットに、自分もお腹が空いた、というジェスチャーをまじえて蒼田は言った。シャルロットはうつむいたまま何か言っていた。そこまで恥ずかしがらなくても、と蒼田は思いつつ、育ちのよさそうな彼女の雰囲気に何か納得しつつキッチンへと向かった。
「ううん、どうしよう、何にもないな……」
冷蔵庫や収納棚にはたいした食材はなかった。飲食店勤務者がふだんしっかり自炊をしているとは限らないのである。だいたい外食かコンビニで済ませており、今夜もそのつもりだったのだ。
「どこか寄ってくればよかったねえ。まあ、しょうがないか。チャーハンでいいかな? ……いいよね?」
シャルロットに確認するというより自分に言い聞かせるように蒼田は言った。今からまた外に出るのは正直言って面倒だった。かと言って手の込んだものを作る気力はもうなかった。
蒼田の声を聞いて、シャルロットは気を取り直したのかキッチンまでやって来た。チャーハンの準備をする蒼田を見て、自分も何か手伝おう、と言っているらしかった。
「大丈夫。簡単だから、一人でできるよ。ありがとね」
「え、嫌なの?」
「じゃあ……、せっかくだから作ってるとこでも見ててよ」
「あ、見るんだ。それはそれでなんか緊張するけど……。まあいいや」
と、以上のようなやりとりをジェスチャーまじりにおこなったのち、蒼田はチャーハンの準備にとりかかった。
「チャーハンはね、時間勝負。最初にしっかり準備しておくの」
言いながら蒼田は、冷凍保存していたごはんをレンジに放り込むと、その間に長ネギ、卵、おつまみ用に買っていた焼豚、カニカマを冷蔵庫から取り出す。長ネギをすばやくみじん切りにし、ネギを寄せてチャーシューを細かく切り、次いでカニカマも一センチ程度に切った。
「他の人はどうかわかんないけど、俺はここまでやっちゃうんだよね」
といって蒼田は必要な調味料を蓋を開けてコンロから手の届くところに設置した。解凍できたごはんを器に移して、フライパンに火をかける。
「家の火力だとやっぱりお店のには全然かなわないんだけど、それでもできるだけあっためるのが大事。あと、油はびびらずに気持ち多めにね。そのほうが卵がふわっとするから」
フライパンに油を回して温めているあいだに、卵を割ってかき混ぜる。洗い物を減らすため、卵を解いている器はあとでチャーハンを盛りつけるためのちょっと深めの皿である。これはむろん蒼田のぶんだ。
「一人か二人ぶんなら、最低でも卵二個はあったほうがいいね。ちゃんと具材になってる感があって嬉しいから。まあお店ではもったいないから全然一個なんだけど。よし、じゃあフライパンいい感じだし、いこうか」
飲食店の事情をまじえつつ、蒼田の解説と調理は続く。ちなみにシャルロットは、冷凍庫からごはんをとりだしたあたりからついて来れていなかった。
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