暗殺の天使は胡椒にむせぶ(仮)

あいづ

チャーハンの話1

 深夜0時をまわったころ、蒼田あおたは町の郊外まで原付を走らせていた。真夜中の旧い街道。車通りはほとんどなく、時々トラックが通る程度だ。外灯は少なくなっていき、月や星の光を頼らなければならなくなる。夏の原付の爽快さを感じつつ注意しながら十分ほど進むと、小高い山のシルエットが見えてくる。同時に、その麓に真っ黒な巨人が立っているのが見える。

 むろん、それは、人ではない。巨大な観音像である。高さ八十メートルほどはあろうか、その威容に反して、世界から見て見ぬふりをされているかのように照明も灯されておらず、それはただ闇夜に屹立していた。初めて見た者は、その異様に一驚することであろう。

 事実、観音像は無視されていた。バブルの頃にある実業家によって建てられ、一時は町の名所として話題となったが、長くは続かなかった。実業家が死去すると遺族が所有権を放棄し、以後二十年以上にわたり放置されていた。今ではテレビやネットでごく稀にネタにされ「永久の眠りについた観音像」などと言われていた。

 ――こいつは眠ってなんかいない。ただ生きているだけだ。

 蒼田は胸中で吐き捨てた。今年で三十歳になる蒼田にバブルのころの記憶はない。気がついたころにはこの観音像は、人と時代に打ち捨てられた廃建造物だった。費用がつくので撤去もされず、かといって往時の威勢を取り戻すこともない。風雨にさらされ、コンクリートでできた肉体が少しずつ綻びても、なにもせず、なにもできず、なにもしてもらえない。観音像は今までもこれからもそう在り続ける。ただひたすらに在り続けることしかできないのだ。蒼田に言わせれば、それはただ生きているだけ、非発展的持続の権化のように思われた。

 蒼田は、観音像の足もとに原付を停めた。もともと観光用に建てられたものなので、観音像の身体の中に入れるように造られていた。電気が通っていないので中は真っ暗である。蒼田はスマホの明かりを頼りに歩を進めた。内部には螺旋階段があり、それを登ると観音像の首のあたりから出ることができる。出た先は展望台となっていた。展望台は観音像の首の周囲をマフラーのようにぐるりと巡っており、あまりいいデザインとはいえなかった。

 展望台についた蒼田は、設置してあるベンチに腰掛け煙草に火をつけた。厳然とした静寂は不気味でさえあるが、ここはいわゆる心霊スポットに認定されてはいないので、ひとの興味を引くことはなく、訪れる者は皆無といってよかった。蒼田も同様に興味はなかったのだが、あるときこの観音像の「気持ち」に気づいてから、仕事終わりにこうして訪れるようになったのだった。

 ――いっそ、爆破してやろうか。

 蒼田は観音像の巨大な顔を見上げ、目で語りかけた。

 ――なんて、できっこない。俺にも、誰にも。死ぬこともできないんだな。おまえは。

 物言わぬコンクリートの塊は、むろん何も応えない。だが、蒼田は哀れむように、蔑むように、ここに来るたびにそう語りかけるのだった。

 ――俺には、できるぞ。

 蒼田は煙草を携帯灰皿に押し込んだ。立ち上がって、おもむろに柵に手をかけた。柵は胸の高さほどであり、飛び越えるのは容易い。その後は八十メートルほど落下することになるのだが、その数秒間の感情とは、幸福であろうか、それとも後悔であろうか。観音像に、どうだ見たか、と勝ち誇る余裕はあるだろうか。その先には、何もない。

 ――自分はやるだろうか。それともやらないだろうか。

 深淵が蒼田に語りかける。

 蒼田は、柵から手を離した。壁にもたれ、煙草に火をつけた。やめたのである。飛び越えるのをやめたのではなく、考えることをやめたのである。煙草を吸いながら蒼田は、明日のことを考えていた。

 この一連の行動は、蒼田の儀式のようなものだった。仕事を終えたあとになんとなくまだ家に帰りたくないとき、この観音像の展望台に登って以上のことを繰り返し、気が済んだら帰宅するのである。要するに現実逃避だ。

 蒼田は、ぼんやり風景を見ていた。

 東京のはずれ、区ではなく市と表記される地域の、小さな駅のある小さな町。そのさらに郊外の小高い山にある観音像の展望台。眼下に広がる寂しい夜景が蒼田は好きだった。ビルと呼べるような高い建物はないので、勤め先の駅前の焼き鳥屋が点景となっていた。蒼田はそこで社員(といっても社員は社長と蒼田の二人だけだが)として勤めている。社長の人柄はよく、人間関係の悩みはない。常連客からの覚えもよく、接客にストレスはない。休みは少ないが給料はよく、貯金もそれなりにできていた。自殺志願者としては落第点をとった蒼田だが、一般人としては過不足のない生活を営んでいるといえるだろう。

 ――なんでかわからないけど、どうしようもなく不安なんだよな。

 ひとに儀式の理由を聞かれたら、こう答えるだろう。

 蒼田は明日のことを考えた。明日の仕事の入り時間は、今日より一時間早かった。金曜日なので、いつもより仕込みの量が多いのだ。

 蒼田は明後日のことを考えた。土曜日は大口の予約が入っている。勤務歴六年目の蒼田にとって、週末の忙しさはやりがいと言えるものになっていた。日曜日は前半は賑わうが、後半は暇である。月曜日は一番暇だ。常連客とゆっくり話せる。火曜日は休みだ。気になっていた飲み屋に行こう。ああ、反吐が出る。

 蒼田は煙草を投げ捨てた。背で跳ねるように壁から離れると、柵に手をかけ、勢いのままに両腕に力を込めて、身体を浮かせた。運動不足の身体が固い。思いのほかうまく上がらない脚を乱暴に柵に乗せた。最後に観音像の顔を見ておけばよかった、と蒼田は思った。


 突如、といってよかった。蒼田のまわりが、かっと明るくなった。

 ――やばい。

 蒼田は咄嗟に柵から降りた。かなり慌てていたので、ほとんど転ぶようだった。この観音像は閉鎖されているので、蒼田がこの場にいることは不法侵入にあたる。関係者か警察であれば面倒だ。通りすがりの人だったとしても、やはり面倒だ。蒼田はここで人と逢ったことがなかった。面倒というか、気持ち悪かった。蒼田はさまざまな感情をひっくるめた焦りの中で、背後を確かめた。

 誰もいなかった。次いですぐに考えを改めた。ここにこんな照明は設置されていなかったし、繰り返すが、そもそも電気自体通っていないのである。では、この光はなんなのか。不自然すぎるほどに明るい。まるでスタジアムの照明をいくつも向けられたかのような、強烈な光である。

 ――上だ。

 柵から転げ落ちた姿のまま、蒼田は空を見上げた。

 光の出どころははるか上空にあり、蒼田は長大な光の柱に包まれているような状況だった。不思議と、目が眩むことはなかった。

 蒼田は混乱していたが、さらにその光の中に人の姿を見たことで、思考は混乱を越えて停止し、呆然とそのさまを見ているほかなかった。

 その人物は上空から光の柱の中をゆっくり下降していた。西洋の時代映画で観るような大ぶりなスカートのある白い服を纏っている。白い肌とはっきりとした目鼻立ちで、年齢は二十代前半か半ばほどか。栗色の髪が揺れていた。美しい女性であった。

 ――天使?

 観音像に天使が降臨するとはひねくれた事態であるが、そんなことを考えている余裕は蒼田にはなかった。女性の美しさを最大限に表現する言葉をひとつ浮かべるのがせいいっぱいだった。

 光の柱は徐々に狭まっていき、それにつれて女性の降下速度は上がっていった。展望台の上に着地しそうなものだったが、そうではなさそうで、このままでは柵よりすこし外側を降りて、いや落ちていきそうだった。蒼田ははっとして立ち上がった。

 女性は眼を閉じ、祈るように両手を組んでいた。意識はなさそうだった。手が届く距離だったので、蒼田は引き寄せようとして彼女の手を掴んだ。

 その瞬間、女性の目が開いた。同時に、彼女の身体にがくんと重力がはたらいた。

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