殺戮オランウータンの幻影

Bar:バー

そこには石を投げる獣がいた

◆ 一日目 朝


快晴の空の下、小さな船が穏やかな海を進んでいる。

甲板ではこの船の名義上の所有者である一成いっせいが、海風を体に受けて心地よさそうにしていた。


船は、とある無人島に向かっている。その島は一成の父の所有物であり、そこでは買い集められた貴重な動植物が飼育されていた。

一成はそこで、友人たちと二泊三日のキャンプを行おうとしている。


一成の父は一代で財を成した実業家で、一人息子の一成を溺愛してあらゆるものを買い与えた。

彼と友人を乗せている船も、それを運転する船長も、キャンプセットの中身の一つに至るまで、すべて一成の父が用意した物だ。


船旅を楽しむ一成の横に、彼の婚約者の二葉ふたばが座った。長い髪が風になびいている。

「気持ちいいわね」

「ああ、何度来ても良い所だよ」

「そう? 前に来たときは大雨で酷かったじゃない」


二葉の言葉に、一成は眉をひそめて言い返した。

「雨の無人島も雰囲気あっただろ?」

「雨の中のキャンプって大変なのよ? 一成さんは皆を働かせただけだったけど」

「そういうお前もテントの中で休んでいたじゃないか」


「はいはい、おふたりさん。新婚さんがそんなことで喧嘩しちゃだめだろ」

割って入ったのは、一成の幼馴染の三好みよしだ。

同じく幼馴染の四郎しろうが間延びした声で続ける。

「三好さー、まだじゃないだろー」

「帰ったら入籍すんだから、新婚みたいなものだろ。な? 一成」

「あー、まぁそうだな。だよな? 二葉」

「私はまだ……実感が湧かないですけどね」

「夢みたいな玉の輿だもんねー」

四人は他愛ない会話で笑い合う。


それを船室から見ていた五人目の乗客が顔を出した。

「皆さん、仲が良いんですね」

「おはようございます。船酔いはマシになりましたか? 五味ごみさん」

一成が意地悪そうに笑って言った。

「いやはや、お恥ずかしい。船旅には縁がないものでして」


苦笑いで返す五味に二葉が聞く。

「五味さんって、一成さんとどこで知り合ったんですか?」

「五味さんは会社の先輩だよ。キャンプ好きで気が合ってね」

一成が五味の代わりに答えた。五味が続けて言う。

「ええ。でも、一成くんに無人島二泊三日って言われたときは驚きましたよ」

「一成はいつもいきなりなんだよ」

「まー、おかげで飽きないけどねー」


◆ 一日目 昼


談笑する五人を乗せた船は数時間後、島に到着した。

船長を含めた六人は手早く荷物を降ろし、二葉、三好、四郎、五味は早々とテントと調理場の設営を始め、一成、船長は船内の片づけを行った。

船は本土の港まで戻り、また二日後に迎えに来る予定だ。


船長を見送った一成が設営中の三人と合流したときには、海を望む小さな丘にはテント一つとレンガを組んだ小さな調理台が完成していた。

「おーい、みんな。これ付けといてくれ」

「なーにー? 香水?」

「違ぇよ。これは獣除け」

一成はそう言いながら全員に制汗スプレーのようなものを吹きかけた。


「結構、強い臭いね」

「獣除けってことはー、これ付ければ探検し放題ってことー?」

「やめた方が良いですよ、四郎さん。動物は嫌な臭いには近づかないでしょうけど、嫌な臭いをさせながら縄張りに入ったら逆効果になりそうですから」

「なぁ一成、お前は付けなくて良いのか?」

「俺は船を見送った後、すぐに付けたから大丈夫だよ。ほら、全員一本ずつ持っておけよ」


その後、残り二つのテントを組み上げた五人は夕食のバーベキューまで島の散策を楽しんだ。

開放的な自然の中ではあったが、放し飼いの獣がいると聞かされてはあまり大騒ぎはできない。

だがその緊張感が、むしろ五人の冒険心を刺激していた。


双眼鏡を覗けば、見慣れない植物や小動物があふれている。

一成の得意げな解説を聞きながら和気あいあいと島を海沿いに回る途中、不意に五味が全員に質問した。

「皆さんはこの島によく来るんですか?」

「いや、俺と四郎が三度目。二葉さんが二度目……かな?」

「そうですね。私は二度目です」

「当然だけど、俺は数えきれないくらい来てるぜ」

それを聞くと五味は黙って、何かを考え込んでしまう。


二葉が心配そうに聞く。

「五味さん、どうかしましたか?」

「ちょっと考え事を……あの、一成さん。最近、島の動物が増えましたか?」

「あー……さすが五味さん。勘が良いよね、ほんと。あのね、一か月くらい前にオランウータンが増えたんだよ」

「おー! オランウータンがいるのー!? すげー!!」

「え、おい。一成。それって違法じゃないのか?」

「……親父がしてることだから、どうにか抜け道を見つけて上手くやってんだろ」

「えー……ホントに大丈夫なのかよー」

「俺が知る訳ねぇだろ!」

一成が怒鳴ると、全員が押し黙ってしまった。


保護動物であるはずのオランウータンが売買されて、この島にいる。その話が、空気を一変させてしまった。

子供のようにはしゃいでいた五人は、そのままほとんど会話することなく日が沈む前にテントへ戻っていった。


◆ 一日目 夜


オランウータンのことがあっても、夜になれば予定通りにバーベキューが行われた。

肉、野菜、飯盒はんごうが火にかけられ、月と星の明かりしかない島の夜を炭の灯りが照らしている。

五人は昼間の話を忘れようとするかのように、大げさに食事を楽しんだ。

こういう時は、自然と四郎が会話の中心になる。

「やっぱウマいなー! 一成の用意する食いモンは全部ウマいよー!」

「そりゃそうだ! ここぞとばかりに金かけてるからよ。楽しんでくれ!」

「白米あるの、本当に嬉しいよ」

「三好はご飯党だもんなー」

「俺、このために飯盒炊飯を覚えたんだぜ。五味さんも味わってくださいよ」

「ええ、堪能してます。一成くん、料理の才能ありますよ」

「五味さん五味さーん! これもウマいよー! 食べて食べてー!」


しばらくして、先にメインディッシュの肉を食べ終えていた二葉がデザートを運んできた。

「デザートはマシュマロと、チョコレートフォンデュでーす」

それぞれが持った串にマシュマロを刺し、遠火に当てる。その横でアルミホイルで作られた器の中でチョコレートが解けている。

ただそれだけのことに、大人が揃って歓声を上げた。五人とも程よく酒も飲んでおり、妙に上機嫌になっている。


「あれ? 一成くんは甘いの苦手? 食べてないみたいだけど」

「あー、いや。俺は果物ダメなんですよ。軽めだけどアレルギーあって」

「そうなんです。だから、一成さんはこっち。あーん」

二葉がとろけたマシュマロを一成の口に運ぶ。一成はわざとらしく声を出しながら開けた口で、それを受け止めた。

「あーん」

「おー。見せつけてくれるよなー」


「っ! アッツ!」

マシュマロが熱すぎたようで、一成は反射的に仰け反る。

酔いも手伝い、脚がもつれた一成は尻もちをついた。


「一成さん! ごめんなさい、大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」

駆け寄る二葉に、一成は笑顔で返しながらズボンについた土を払った。


楽しい夜は、瞬く間にけていった。

食後の片づけ、火の始末を終え、洗い物は明るくなってからにしようということになった。

各々が寝支度を整えると、一成と二葉、三好と四郎がそれぞれ同じテントに入り、五味は一人のテントで眠った。


◆ 二日目 朝


夜が明けきる前に、五味は物音で目を覚ました。

テントの外を見ると、まだ朝焼けが眩しい時間だと言うのに二葉、三好、四郎が慌ただしく動き回っていた。様子がおかしい。

「皆さん、どうしました?」

「五味さんも手伝ってください! 一成がいないんです!」

三好の返答を聞いた五味は大慌てで着替え、テントから抜け出した。


ほどなくして一成が見つかった。

彼は、森の中で頭から血を流して倒れていた。


注意深く見れば、割れた頭部から薄黄色の何かがこぼれ出ている。

その近くには同じ色の破片がこびりついた、拳ほどの石が転がっていた。

一目見て、何者かに石を投げつけられたのだろうと想像できる。


変形した頭部とピクリとも動かない一成の姿は、見る者に彼の死を確信させた。


「一成さん!」

「一成!」

二葉と三好が駆け寄ろうとした、その時。

「キー!!」

耳をつんざくような獣の声が響いた。

「危ない!」

「ちょー! マジかー!?」

一歩後ろにいた四郎と五味が、二葉と三好を掴んで引き戻す。

ドスン!

重たい音が地面を伝って四人の心胆を寒からしめた。


先ほどまで二葉と三好が居た場所には、片手では収まらないほどの大きな石がめり込んでいた。

唖然とする四人の前に、赤毛をまとった太い腕が伸ばされる。

一目見て分かった。生物としての本能が、知性より早く状況を理解させた。

”この獣に敵意を持って迎えられたら、自分は確実に殺される”と。


全員が緊張で動けない中、真っ先に動いたのは四郎だった。

「何やってんだよー! 逃ーげーるーぞー!」

二葉、三好、五味の身体を次々に揺さぶって行動を促す。


われを取り戻した三人は弾かれたように逃げ出し、四郎は手近な棒切れでオランウータンを威嚇してから殿しんがりを務めた。


◆ 二日目 昼


キャンプ地に戻った四人は調理場に固まっていた。

友人の死と、限りなく野生に近い獣の暴力に震えて、誰も声を出せなかった。


「助けを呼びましょう」

五味はそう言ったが、三好が制した。

「この島、携帯の電波が入らないんです。船を待つしかない」

「船って……いつ来るんですか?」

五味の問いに、二葉が震えた声で答えた。

「三日目のお昼です。船が来れば、無線で通報もできるはずです」


四郎がホッとしたように言う。

「あー、ってーことはー。もう一晩、がんばればいいのかー」

「そうだ! 獣除け! テントにもかけておけば、安全かも知れません」

五味の思いつきで、四人はそれぞれが持っているスプレーを自分とテントに吹きかけた。

こんなことをしても、気休めにしかならないかもしれないが、それでも何かをしたかった。


だが、できることが無くなると、また重い沈黙が四人を包んだ。そんな中、意を決したように三好が言う。

「とにかく、こちらから森に近づかなければ大丈夫なはず。とにかく火を絶やさないようにして……明日の朝まで、耐えましょう」


続けて五味が提案する。

「それなら、今のうちに交代で仮眠を取りましょう。休むのは二葉さんから……良いですよね。皆さん」

全員がうなずき、夜まで順番に休むことにした。


◆ 二日目 夜


調理場の小さな火を囲むように四人が座っている。

仮眠を取ったとはいえ精神的な疲労は大きく、四人は憔悴しきっていた。

その顔を炭の灯りが照らしている。

昨日の今頃は、同じ炭の灯りが彼らの笑顔を照らしていたというのに、今は会話すらない。


月と星しか明かりのない無人島の夜が、彼らの影を飲み込んでいる。

二葉は闇の中に佇む獣の姿を想像して、震えあがった。

「な、何か! 何か、話をしませんか? あの……ボーっとしてきちゃって」

悲鳴にも似た二葉の声に、三好、四郎、五味がビクッと顔を向けた。


「話……ですか」

「ごめんね。思いつかないよ」

「……あのさー」

四郎が珍しく神妙な顔で言った。


「一成ってさー、ほんとにオランウータンにやられたのかなー」

「どういうことですか?」

二葉は驚いた顔で聞いた。

二葉だけではない。三好も五味も目を丸くしている。


「なー、四郎。何か知ってるんじゃないかー」

「え? なんだよ、それ」

「一成がバーベキューの片付けのときにさー ”オランウータン見に行く。三好も誘う”って言ってたの、思い出したんだよねー」


二葉と五味が三好の顔を見やる。

三好は何も言わなかった。

「本当なの? 三好さん」

二葉が聞くが、三好は何も言わないままだ。

「ね。何とか言ってよ。黙ってないで」

二葉の語気が強くなっていく。

「何とか良いなさいよ!」

「分かったよ! 言うよ!」


二葉は立ち上がって怒鳴り声を上げた。限界に達した三好も怒鳴り返した。

「確かに呼び出されてたよ! でもな、原因はお前にもあるんだぞ! 二葉!」

「わた、私が何よ……」

「バレてたんだよ! 俺たちがデキてんの!」


二葉は顔を背けて、静かに座り直した。

五味はその様子を見て、二人の浮気が事実だと確信する。

「三好さんは、一成さんに会いに行ったんですか?」

「いや……何と言うか……」

「……ちゃんと話して」

消え入りそうな二葉の声が、三好の背を押した。


「会いに行った……”二葉のことで話がある”って言われて……それで言われた場所に行ったら、もう、あいつは死んでたんだ」

「死んでた?」

「そうだよ! 皆が見た通りの状態で倒れてたんだ。それで、すぐに逃げた」

「アンタが殺したんじゃないわよね……」

「ち、違う。俺はやってない」

「あー、うん。三好じゃないと思うー」

唐突に四郎が言った。


その四郎の言葉に、最初に声を上げたのは他ならぬ三好だ。

「どの口で言いやがる! お前が言い出したんだろう!」

「えー? オランウータンが殺したのか分からないよー。とは言ったけどさー」

「あ、あの。とにかく。四郎さん。なんでそう思うのか教えてください」

「俺と三好、同じテントでしょー。だから昨日の夜にさー、ごそごそ着替えて出て行ってすぐに戻ってきたの知ってるんだよねー。人を殺して戻ったにしては早すぎるから無理でしょー」


「四郎、お前……分かってて喋らせたのか……? 浮気の事」

「まー、ね。っていうか、一成に教えたの。俺だし」

「「はぁ!?」」

三好と二葉が同時に声を上げた。

「お前らさー、ガキの頃からずっと俺の事をよー、馬鹿だと思ってんだろー?」


三好と二葉は何も言えないまま、居心地が悪そうな顔で四郎を見ている。

四郎が言うことに心当たりがあるのだと、昨日会ったばかりの五味にも分かった。

「あのなー、馬鹿でも”馬鹿にされてる”ことくらいは分かるんだよ! バーカ!!」

「テメェ! ふざけるなよ!」

「そんなことで、私の結婚を台無しにしようとして!」

「ちょっと! 落ち着いてください! とにかく、三好さんは無実なんですね?」

声を張り上げて制止する五味だが、それはまったくの無力だった。


二葉がヒステリックに叫ぶ。

「分からないわよ! こいつらがグルかも知れないじゃない! 私が玉の輿乗るのが気に入らなくて、アンタが私を誘惑して! アンタがチクって! 一成を殺したのもアンタらでしょ!」

三好も冷静さを失って怒鳴り返す。

「はぁ!? 尻も頭も軽い女だな! 一成は金づるだ。殺して何の得があんだよ! つか、誘ったのはお前からだろうが! ”一成さん、ワガママでー。すぐ怒るからー”ってよ!!」

小ばかにした猫なで声で二葉を真似る三好。

二葉は衝動的に三好に飛び掛かり、五味はそれを抑えた。


「あーははははははー! ざまぁーみろー! あーははー!」

四郎はその様子をゲラゲラ笑いながら見ていた。

今度は、それを見た三好が四郎に殴りかかる。


次の瞬間、五味の、渾身の怒鳴り声が狂騒を断ち切った。

「いい加減にしろよ!!!」

二葉、三好、四郎のそれぞれが一瞬、身体を硬直させた。

そのわずかな硬直で怒りは連続性を失い、もう全てが終わってしまっているという虚無感に代わった。

四人はそれぞれの場所に力なく座り直して、最初と同じように沈黙の中で炭火をにらんでいる。


「なぁ、五味さん。あんた、本当は何者なんだ?」

突然、三好が声をかけた。

「何って……なんですか?」

「アンタ、会社の先輩って言ってたけど、嘘だろ」

「何か、根拠でもあるんですか?」

「一成の果物アレルギー」

五味の身体がピクリと動いた。


押し黙った五味に向かって、三好は淡々と続けた。

「一成がアレルギー持ちなのは、誰でも知ってる」

「それは、皆さんがご友人だからでしょ?」

で、知らない奴はいないはずなんだよ」

「あー、あいつ自慢してたねー」

「一成さん、武勇伝みたいに話してました。”お土産でフルーツ買ってきた奴を、親父に言って左遷してやった”って」

「ほんとークソヤローだよなー。父親が社長だからって、まるでボークンだー」

「だから、アイツの会社でアレルギーのことを知らない奴はいないんだ」


五味は深く息をつき、観念した様子で言った。

「分かりました。話せる所まで、ですが……お話しします」

五味の顔つきが変わったことが、薄暗い中でも三人に伝わった。

「私は探偵です。ある人に依頼されて、ここにいます」

「依頼主は一成か?」

「話せないんです。守秘義務があるので」

「あーははー。変な話し方しちゃってー。守秘義務あるから秘密だけどー、喋るってことねー」

「依頼の内容は……って聞くまでもないか。俺と二葉の浮気だろ?」

「依頼内容については、答えられない」

「”答えられない”って言いながら、うなづいてる……変な人」


こんなことで守秘義務が果たせるとは、五味も思っていない。

しかし、彼なりに探偵としての矜持は持っており、形だけでもそれを保ちながら、人殺しの汚名を着ないための苦肉の策だった。


「一成のやつ。疑い深いからなー。俺がチクっても鵜呑みにしなかったかー」

「テメェ……」

四郎が無神経に話をむし返すので、三好はまた殴りかかりそうになる。


そんな三好と四郎を無視して、二葉は五味に疑いの目を向けながら言った。

「……五味さんは、一成さんとトラブルになってませんでしたか?」

「それはありません」

「なぜ島に来たんですか? だって、浮気調査なら報告すれば終わりですよね」

「島に来ることも含めて、依頼の内容です。だから答えられません」

「一成さんが五味さんを島に呼んだんですね。それなら身分を偽ったのも、一成さんに言われたからですか?」

「会社の先輩のフリをするのも依頼の内容です。だから答えられません」

「めんどくさい話し方」


五味と二葉の問答を黙って聞いていた四郎が、突然閃いたように言う。

「一成のやつ、お前らの浮気の証拠を突きつけるつもりだったんじゃないのー?」

「いえ。昨晩、私は呼び出されていません。証拠を突きつけるなら三好さんだけが呼び出されているのは、しっくり来ません」

四郎の閃きを五味が否定した。先ほどまで話していた二葉は、五味の口調の変化がおかしくて、口の端を緩めて言った。

「依頼と関係ないことは普通に喋るんですね」

「当然ですよ。守秘義務がないので」

そんなやり取りのおかげか、やや弛緩した空気が流れた。


しかし、三好にはそれが気に食わなかった。自分だけが四郎にイラつかされ、二葉になじられ、五味に弱みを握られているように感じていた。

「なぁ、本当に俺だけが呼び出されたのか? 五味さんは一人でテントに居たんだから証拠はないだろ」

「それは……そうですが」

「二葉だってそうだ。一成に一番くっついていられるのはお前だからな」

「私が殺す訳ないじゃない!」

「三好にしたって、俺が呼び出されたことを知ってるんだから、先回りして殺すことができただろ」

「おおーい。八つ当たりかー。”全員怪しいでーす”って? バカじゃねーの?」


三好はもう我慢の限界だった。握りしめた拳を、思いっきり振りかぶって四郎の顔面に叩きつけた。

慌てて五味が割って入り、二葉も三好を制止した。

殴られた四郎は、地面に倒れながらも変わらずニヤニヤと笑っている。


「もう、良いじゃないですか」

二葉が疲れ果てたように言った。

「もう……オランウータンが殺した。で良いじゃないですか」

「……そうですね。もう、それで納得するのが良いのかも知れません」

「あー、俺は最初からどーでもよかったよー」


三好も同じ気持ちだった。疲れていた。思考を放棄したかった。

だが、引っ込みがつかなかった。

「……おかしいだろ! なら、なぜ俺は呼び出されたんだよ! 五味さんが島に呼ばれた理由は! なんで”会社の先輩だ”なんて嘘をつかされたんだよ!」

涙目で叫ぶ三好に、他の三人が憐れむような視線を向けた。


しかし、三好の言葉で五味は違和感に気が付いた。

「嘘を……そうですよ。私は噓をつかされたんだ! おかしいのは私たちじゃない!」

「なーに言ってんのー? 疲れすぎておかしくなった?」

「違います。おかしな行動をしていたのは全部、の方だったんです」


◆ 三日目 朝


五味は、一成と二葉が寝ていたテントから一成の荷物を引きずり出しながら言った。

「最初におかしいと思ったのは、獣除けのスプレーです」

「あー、オランウータン除けだっけー?」


五味は一成の荷物を漁りながら話し続ける。

「あのスプレーは、今回が初めてですよね?」

「確かに。前に来た時はスプレーなんてしなかったな」

「だから私は獣が増えたのか、と聞いたんです。今まで必要なかったスプレーが何かの理由で必要になったんじゃないかと」

「それがどうしたんですか?」


その質問に答える前に五味は目当てのものを見つけた。

「あった……」

見つかったのは、カットされた果物と獣の爪のような見慣れない刃物、そしてパックに小分けにされた赤毛―――オランウータンの体毛だった。

「なんですか……これ? 刃物? 毛?」

「果物アレルギーの一成がなぜ果物を隠し持ってるんだ?」

「デザートの残りー……じゃないよねー。切り方が動物の餌って感じだしー」


五味は自分の推測が正しかったことを確信した。

「もう一度。オランウータンの所に行きましょう」

「えー? あぶないことしたくなーい」

「双眼鏡を使いましょう。遠くから見るだけです」

「オランウータンの所に行くなら、スプレーを使ってから―――」

「だめです! それは使わないで!」

スプレーに手を伸ばした二葉を五味が止めた。


「念のため、全員身体を洗ってから行きましょう。スプレーの臭いをできるだけ落としてください」

「えー……テントにまでスプレーかけちゃったからなー……」

「いっそ、海水でもかぶってから行くか?」

「……頭も冷えるし良いかもね」

二葉が真顔でつぶやく。皮肉か本気か分からず、五味たち三人も真顔になった。


手早く身体を洗った四人は森へ移動する。一成の死体をもう一度見るために。

「やっぱり」

最初に双眼鏡を覗いたのは五味だ。そして、思っていた通りのものを見つけた。

「いいかげんに説明してくれませんか?」

三好が詰め寄ると、五味は双眼鏡を手渡して説明を始めた。


「一成さんは私たちを殺そうとしたんです。オランウータンの仕業に見せかけて」

「はぁ?」

双眼鏡を覗こうとしていた三好は、五味の方を振り向いて裏返るような声を上げた。

「獣除けのスプレーはマーキングなんです。あのオランウータンはマーキングされた人間を襲うように調教されている」

「臭いでターゲットを区別しているって言うんですか?」

「オランウータンの嗅覚は人間と同じか、少し鈍いくらいらしいです。いくら嫌がる臭いを付けていたとしても、一成さんの死体に駆け寄ったときのように即座に攻撃されるなんて、不自然なんですよ」

「そういう訓練を受けていたから、私たちを見つけてすぐ攻撃してきたのね……」

「そしたらさー、荷物に入ってた果物はオランウータンを調教用かなー」


四郎の言葉に五味がうなづいた。

「一成さんは自分だけがスプレーを使わないことで、安全を確保しようとした。しかし、想定外のトラブルで自分がターゲットになってしまったんです。三好さん、一成さんの死体のズボンを見てください」

「……スプレーが潰れてる? 中身が漏れて臭いが付いたのか……でも、なぜ?」

「バーベキューのとき、一成さんは尻もちをつきましたよね。ズボンのポケットに入れたスプレーが、あのとき潰れたんでしょう」

「それじゃ……私が”あーん”したから?」

「おー。お手柄じゃーん。よ! みんなの命のオーンジーン!」

「四郎! テメェは殴られても分からねぇのか!」

「二葉さん。あなたは悪くありません。こんな準備をした一成さんの自業自得です」


五味のフォローが気に入らなかったのか、四郎が突っかかるように質問した。

「でもさー。動物を使って犯行なんて、上手くいかないでしょー? 実際、自滅してるしー」

「実際にオランウータンが殺さなくても良いんです」

「俺が”襲われた”と証言すれば良い、ってことか」

「そうです。一度でも襲われれば、あとはをすれば勝手に、殺戮を繰り返すオランウータンを想像してくれる。大きな石で殴っても、刃物で切り裂いても、海に沈めても良かったんです」

「それで爪みたいな刃物かー。テキトーに毛もばら撒けばオランウータンが来たように見えるしー。メンドクセーことするなー」

「一成さんが、四郎さんにだけ”三好さんとオランウータンを見に行く”と言ったのも、オランウータンの存在を印象付けたかったんだと思います」

「俺、あのとき着替えてから行ったから……それで襲われなかったのか……いや、着替えていても、一成がしくじってなければその場でやられてたか」


「ねー。一成はさ、俺らを皆殺しにするつもりだったのかなー?」

「どうでしょうか……呼び出した三好さんだけが狙いだったのか、あるいは……」

「まー、浮気カップルは処刑対象だろうねー」

「わざわざ偽装したのだから、生き残りに”殺戮オランウータンに襲われた”と証言させるつもりだったんだと思います。皆殺しではないはずです」

「……それなら、たぶん四郎さん以外は殺す計画だったんだと思います」

「一番騙しやすそうだからな」

三好の嫌味に、四郎は中指を立てて応じた。


二葉は首を横に振ってから、冷たい声で言う。

「口封じのためです。一成さんは異常にプライドが高いんです……少しの隙も見せないように気を張り続けていた。陽気でカッコいいリーダーでいないと、誰かに殺されるとでも思っているみたいだった」

「だから、浮気した婚約者も浮気相手も、事実を知っている探偵も消す。ってことですか?」

「えー? 俺だって知ってるよー? お前らの浮気をさー」

「あの人のことだから、言いくるめるつもりだったと思います。”浮気は勘違いだった。調べさせたけど、そんな事実はなかった”って」

「どっちにしろ、一番騙しやすいって思われてたんだな」

「あー……クソ! あのヤロー、死んでせいせいしたわー」


全員が、無言でその言葉に同意した。


◆ 三日目 昼


船は予定通りに到着した。

四人は港で船長を出迎えたが、その姿を見た瞬間に船長は怒鳴った。

「貴様ら! 坊ちゃんに何をした!」

船長のあまりの豹変ぶりに四人は閉口した。

そして同時に、船長にありのままを語ってはいけないことを四人は理解できた。


一成の姿が見えないことを即座に”四人が一成に何かした”と判断したのは、裏を返せば”一成が四人に何をするつもりだったのか”を知っているからだろう。

船長は元より一成の父に雇われた立場だが、計画を知らなかったのなら良心に訴えることもできた。

しかし、計画を知っていてなお”一成坊ちゃん”の身を案じる人間が、四人の味方になるとは到底思えなかった。


「一成さんが……オランウータンに襲われて……頭から血を……」

豹変したのは船長だけではなかった。二葉が泣き崩れながら言う。

不幸な事故で婚約者を失った悲劇の女性に、二葉は一瞬で豹変した。


そこからは早かった。

三好も四郎も五味も、各々が一成の死を心から嘆き、悲しんでいるふりをした。

要するにことにしたのだ。


一成を殺したのは間違いなくオランウータンである。その原因は、何の変哲もない獣除けのスプレーである。獣除けのスプレーの効果を過信してオランウータンの縄張りに入った一成が、不幸な事故死を遂げたのだ。


一成の不審な行動の全てにことにすれば良い。

昨晩、疲れ切った彼らが一度は口にしていたように、オランウータンが一成を殺したことにすれば良い。


一成はオランウータンに殺された。

それは真実ではないが、矛盾なく成立する事実である。

四人はただ、事実以外を話さなければ良いだけだった。


◆ 数日後 夜


五味は事務所でフルーツの盛り合わせをにらみつけていた。

盛り合わせの中央には、つややかリンゴが鎮座している。


船長を騙しきって無人島から無事に帰った四人は、数日もしないうちに多額の見舞金を受け取った。

振り込んだのは、一成の父だった。

実の息子が亡くなってすぐ、婚約者と友人たちに多額の見舞金を振り込むのは異様な行動にも見えるが、父親が一成の計画を知っていたとすれば納得できる。


もし、五味たちが一成の計画に気が付いていないなら、見舞金としか思わなかっただろう。しかし、気が付いているのなら口止め料だと察しが付く。

当然、五味はこの金を口止め料であると理解していた。


そして、金と同じく見舞い品として送られてきたフルーツの盛り合わせが、今、五味の目の前にあり、かれこれ三十分ほど彼はそれをにらんでいる。


五味たちは、島から出るために真実を隠した。

そして、身を守るために―――あるいは金のために―――真実を隠し続けることを選んだ。


「俺も、買われた訳か」

そうつぶやいた五味は、あの日見たオランウータンと自分を重ねていた。


一成に調教されていたオランウータン。

餌をちらつかされ、飴と鞭で殺人のために調教されたオランウータン。


自分はオランウータンと同じではないか、という思いが五味の中に渦巻いていた。

権力に屈し、金と安全をちらつかされて、そして黙るように調教されているのだと、五味にはそう思えてならなかった。


一成の計画の明確な物証がある訳でもない。

仮にあったとしても握りつぶされるだろう。

しかしこのまま何もせず黙っていると、後悔するだろうという確信もあった。


五味には探偵としての矜持があった。

それゆえ五味は葛藤を抱え、盛り合わせのリンゴをにらみ続けている。


そのままジッと考えて続けた五味の頭に、ふと、ある考えがよぎった。

それは、妄想に限りなく近い仮説である。

”あのオランウータンに、殺意があったかもしれない”


オランウータンは人の顔を覚えられると聞く。

もしかすると、オランウータンはマーキングに反応しただけではないかもしれない。

自分を支配する、一成を憎んでいたのかも知れない。


一成の頭をめがけて殺意を込めて石を投げつけるオランウータンの姿を、五味は想像した。

想像の中のオランウータンは、狂暴に、不敵に、牙をむいて笑っていた。

五味は、自分をオランウータンに重ねる。


「黙って、飼われていると思うなよ……」

五味はリンゴを鷲掴みにして、大きく振りかぶった。

そこには石を投げる獣がいた。



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殺戮オランウータンの幻影 Bar:バー @BAcaRdi

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