第8話 シュレディンガーの猫飼い
オレはシュレディンガーの猫を飼っている。
ただ、姿を見たことはない。オレの猫は、部屋の中に色々な気配を残していくので、そこから彼(もしくは彼女)の行動を予測するのは可能だ。例えば朝起きる時。底冷えするような寒い日に、ふと暖かく重い感触をとらえる。野原の匂いがする。起きた時には足元に何かがいたような窪みがあり、ぬくもりの残滓がある。黒い毛が残っていることもある。爪痕が残っている時もある。この時は賃貸でなく、築年数の古い実家に住んでいてよかったと思う。父母はもう亡くなっているのでわからないが、猫がいたら喜んで世話をしていたと思う。
ただオレは、その姿を見てしまったら、もう猫の気配は消えてすべて幻になってしまうんじゃないかとも思っている。たかが猫と思うかもしれないが、猫は人の気配に敏感だし、構いたがる人間の側にはいたがらない猫もいると聞く。だから、たまに気配があって、置いていた餌が消えているならそれでいい。観測すると消えてしまうからシュレディンガー。厳密な意味とは違うだろうけど。
あの実験は青酸ガスで猫が生きているか死んでいるか重ね合わせの状態になるそうだが、そんな思考実験で猫が犠牲になるのは可哀想だ。酒で酔っ払う、という説明に変えている辞書があったので、オレはそちらを採用したい。
一度玄関にまたたびを置いたことがあった。そのときはあいつは前後不覚になるまで楽しんだようで、そこら中に気配を撒き散らして、挙句に寝ているオレにタックルまでしてきた。その時は目を閉じてやり過ごしたが、瞼を開けたい衝動を抑えるのが大変だった--
友達がそんなことを言っていたと思い返しながら、僕は彼のもう亡くなってしまった笑顔の写真に手を合わせる。自宅でひっそりと亡くなっていたと聞いた。ただ、ご遺体は綺麗だったのだと聞いた。閉じこもりで変人気質で、友達も親類も少なかった彼がすぐに発見できたのは幸運だったのだろう。
管理人曰く、猫の鳴き声がしたらしい。ドアの中から、鳴きながら爪をカリカリ引っ掻く音がした、と。閉じ込められているのかと思い、呼びかけたら中から返事がなく、縁側が空いているので除いたら、事切れた彼の姿を発見したらしい。
彼の身体には少し引っ掻いた跡があり、黒い毛が落ちていた。ただ猫の姿はどこにも見当たらなかったそうだ。近所の野良猫がたまたま入り込んだのだろう、とのことだった。
線香の香りの中に、ふと野原の匂いが混じったような、気がした。
(第八話 了)
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