第7話 私のお腹には海がある
私のお腹の中には海がある。不思議なことだけど、と夫は言う。自分にも、どうして海があるのかわからない。
異変があったのは、準備していたベビーベッドや可愛い寝巻きを処分した次の日の朝、だったと思う。
朝起きて着替えようとしたらもう何もないはずのお腹が膨らんでいて、うっすらと透き通っていた。お腹が光っているように見えてびっくりして覗き込むと、私のお腹は水槽のようになっていて、中にエメラルドグリーンとイエローの魚が泳いでいた。目を凝らすと薄桃色の珊瑚や揺蕩う海藻も見える。
まだ寝ていた夫を起こしてお腹を見せると、夫にもお腹の中の海が見えた。
「多分、これは今までにない大発見だと思う」
「現実に起きているならね」
夫は理性的だ。大学で時空物理学とか何とかの教授をやっている。
「これは僕たちが悲しみのあまりに見た幻覚である可能性があるし、その方が可能性が高いと思っている。でも特に困らないし、それなら僕ら二人の秘密でいいと思う」
「もしお腹の海以外に幻覚が見えたらどうする?」
「羽ばたくピンクの象とか?もし他に色々見えすぎて、日常生活に支障をきたしたら、メンタルクリニックに行こうね」
お腹に海が見える以外、特に何もいつもと変わらなかったので、そのまま生活することにした。ただ服の中がうっすら光っているのが見えてしまうので、戌の日の腹帯をして誤魔化した。こうしていると、私はお母さんみたいだ。海のお母さんだ。
そしてある日、夫は突然、もうすぐ世界が終わるのだと言った。世界中の学者が手を尽くしたが、あと一週間で地球に隕石が衝突するのは避けられない、と。
「無駄な足掻きかもしれないけど、僕は最期に時空物理学の理論を証明したい。一つだけ試作機を作ったんだ。未来の宇宙に飛ばせる宇宙船。僕だけが操縦できる。それに君が乗るんだ」
「あなたと一緒じゃダメなの?」
「残念だけど、試作機だから一人しか乗れない構造なんだ。もう今から新しくもう一機は作れないし、射出するのは外からしか操作できない。だから今の一機を完成させるのに一週間を使いたい」
夫は泣くのを我慢したような顔をしている。
「僕の見立てでは、君のお腹に海が入っているのではなく、どこか別の時空に接続して、そこに海があるように見えているんだと思う。僕の提唱する時空物理学理論ならその現象が証明できる。
そういう現象が起きている君だからこそ、未来へのタイムスリップ航行が可能になるかもしれない。新たに仮説を証明するために、君が生き延びるために、どうか実験に参加してくれないか」
それなら仕方ないな、と私は思って、その計画に同意した。
そして一週間、とうとうその時がきた。夫は大きいカプセルのような機械を持ってきて、これが宇宙船だと言った。広くはないけど、すぐ眠れるようなガスを入れるから、怖い思いをすることはないんだよ、と夫は子守唄を聞かせるような優しい声で言った。
夫と最期のキスをして、宇宙船の中に入る。膝を抱えながら、私がお腹の中の赤ちゃんになったみたいだ、と思った。
さて、悲しみで壊れてしまった夫が、ありもしない機械やタイムスリップの話をしていたらどうしようか。あるいは私が邪魔になって嘘をついているとしたら、と考えたけど結論は同じだった。そうだとしても、私はもうどうでもいい。赤ちゃんがいなくなって、もう私にはお腹の中の海しかない。だったらいいじゃないか。
少し眠くなってきたのは、夫が言っていた催眠ガスだろうか。瞼を閉じて、私は想像する。私の乗った、小さな卵のような宇宙船が飛び出して、時間を超えて、遠い遠い果てに旅をすることを。
卵から飛び出した私は、未来の海に到着し、お腹に抱えた海と融け合う。私は海を産む。
そして私は海の、お母さんになるのだ。
(第七話 了)
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