第5話

「なあ、漱」


ある日、父がまじめな顔をして言った。


恒例の花火大会の近づいた、夏の始まりのことだった。


夏休みに入り、クラスのみんなは受験体制になっていて、俺はそのピリピリした雰囲気になんとなく気後れしていた。そんなこともあって、火曜以外も公園であてもなく参考書を開くことが多かった。






「どうしたの、深刻な顔して」


いつもの競馬やパチンコの話をする、父親らしくない表情とは違ったので、すこし妙な感じがした。普通に父親みたいな顔をしていて。


俺の顔はすこしこわばっていたかもしれない。




「あのな、漱。俺の心臓は、いつ止まるかわからないらしい」


「え、だって、ペースメーカーが入ってるんでしょ?」


「脈がゆっくりになったら機械が補助してくれるけど、止まったらどうにもならないからなぁ」


「どうにもならないって、人事みたいだなぁ」


「若い頃好き勝手やったせいかな。しかたないよな」


「……」


なんと答えていいか、わからなかった。


言葉がうまく出てこなくて、ただ父の顔を見つめていた。


「それでお願いがあるんだ。他人にはお願いしにくいから、漱、おまえにお願いしたいんだ」


そして父は父親らしい顔をして、自分が死んだ後の話をした。




話を聞いても、その願いを叶えるのはもっと先だと思ったんだ。空中をふわふわ漂う雲みたいに、現実味のない話で。


だってそこに父はいて、普通に話していたから。


毎週火曜日によれよれの作業着をきて、よぉ、今度は競馬を教えてやる、だとか麻雀のイカサマを伝授しようとか、むちゃくちゃな話をし始めるに違いない。


日は高くなり、一日ごとに気温が上昇しても、いつもとかわらずに毎週火曜日には俺の前で赤いマルボロを吸って。




酒はもう飲まない、と父は言っていた。記憶も健康な体も、家族もみんな奪っていったから。


実際のところはわからない。でも、俺は殴られもしなかったし、いやな思いをすることもなかった。行事のたびに怯えることもなかった。あの頃のモンスターはもういない。ここにいるのは病気の、俺の血のつながった父親だ。




まだ俺は近しい人が死ぬとか、そういった目にはあったことがなかった。安っぽいドラマや映画でしか人の死を見たことがない。だからなのか死ぬもか生きるとかの実感は丸でなかった。


数ヶ月前に再会した実の父親がもうすぐ死んでしまう。


あまりのドラマティックな出来事に、これはフィクションなんじゃないかと思うほどに。




きっと俺はリアルな映画を見ているんだ。









8月の一番初めの火曜日だった。


あの話を聞いて、そんなに経っていなかった。




夕方になっても、まだ暑く、俺は日陰を選んで歩いていた。父の病院の終わるころを予想しながら公園に向かっているときだった。


公園の向かいの道路に人だかりができていることに気がついた。


救急車を呼べ、とか、人工呼吸、とか聞こえた。


ざわざわざわ・・・と、背筋に何かが上っていくのがわかったんだ。




嫌な予感てやつは、たいてい当たる。






見覚えのある作業着。


そこが磨り減って、そろそろ新しいの買いなよっていってた靴。


タバコのやにで黄色くなった指。


白髪交じりの頭が遠くに見えた。






「いいか、もうお前とは親子じゃない。」


あの日、父はそういった。


「お前にはちゃんと、新しい父親がいるから、俺の息子だと名乗り出る必要はないんだ。」


あの時俺は否定したが、父は強い口調で言った。


「俺が死んだのがわかってもかかわらなくっていい。ただ、火曜日に現れなかったら俺のアパートにあるものを処分してくれ。」


「押入れの箱をみんな処分してくれ。」


「お前にも、母さんにも、迷惑をかけたくないんだ。お願いだ。」








本当は父の言葉なんて無視して、俺がその人の息子ですと大声で言えばよかったのかもしれない。


人として、そこで背を向けるのは間違っていたに違いない。救急車で一緒に行って、最後まで近くにいてあげるべきだったのだと思う。




でも、


俺は父の言葉に従って、背を向け、聞いていた父のアパートに向かっていた。


遠くに救急車のサイレンが聞こえる。


野次馬が「もう、ダメかもしれねぇな」と言っているのも聞こえた。


それでも俺の足は止まらなかった。

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