第27話 独白

 高校の最終学年になってからというもの、クラスメートの進学に対しての温度差が生じ始めた気がする。


 僕はどちらかというと焦燥に駆られることなく、勉強に関しては比較的のんびりと過ごしていた。


 だからこの日。高校では普通に授業も行われている六月初めの平日。

 僕は開館して間もない水族館にある、入館ゲート近くの樹木の前で、気長に立ち尽くして待つ。相手はもちろん、シズだ。


「大丈夫かな? ちゃんとこれるかな?」


 思わずそんな言葉を呟いてしまう。

 いくら地元とはいえ、開園したばかりだと土地鑑とちかんに頼ることも難しいだろうから、迷ってしまっていないか心配だ。


 ちなみに六月には祝日はない。つまり今日の僕は、高校をずる休みしてここに居る。

 両親には事前に伝えていて、先生などから追及されたときに口裏を合わせてくれる約束までしてくれた。


 僕にとって特別な日ということもあるけど、そんな父さんと母さんには感謝しかない。


 けれどずる休みなんて、何気に初めての経験で、先生やクラスメートに対する罪悪感が凄まじく襲って来ている。


 慣れないことはするものじゃないと、自責の念が語りかけていた。


「はあぁ……——」

「——どうしたの、溜息なんて吐いて?」

「えっ、ああ——」


 それは突然、僕の背にある立木の更に後ろから、顔を覗かせるように訊ねられた。

 

 その茶目っ気は今日も健在だ。


「——おはようシズ、迷わなかった?」

「うん。お父さんに送って貰ったから」


 シズが入館前からご満悦の様子だ。

 素肌を覆うようにホワイトのシアーブラウスと浅緑のキャミソールワンピースを着て、ブラウンのオックスフォードシューズと、それとマッチする紺色のアンクルソックスを履いている。


 右手首にはこじんまりとした装飾用の腕時計もあるようだ。財布など小物が入っているであろうショルダーポーチも掛けている。


 そして僕からの視点だと、左側面に三つ編みを施したセミロングに、靴の色に合わせたであろうベレー帽を被っている。

 おおよそ今までのシズには、あまり見られなかったコーディネートばかりだ。

 いつもはもっと機能性を重視した中性的な服装が大半だから、少々面食らってしまう。


「……そっか」

「それにしても車のナビって優秀だね。この水族館、検索したらもうヒットしたもん」

「へー、そんなにすぐ対応出来るものなんだね」


 この水族館自体は僕たちが小学生の頃から建設は始まっていたけど、大人の事情が絡み幾度かの中断を経て、この春にようやくオープンしたという成り行きがある。


 要するに。かなりの苦労の末、実現した商業施設と言える。


 それと時期が重なるようにシズが退院する。そして、僕が近くに水族館が出来たことを教えると、間髪入れずに行きたいと答えてくれた。だからこうして二人で、水族館へと遊びに来ている。


「よしっ、じゃあ行こうよ」

「……うん」


 シズのその声に応え、一緒に入り口前の受付へと向かう。数歩ほど、後ろを歩く。


 あと。僕はあまり知識がないんだけど、シズはほんのり化粧を施しているようだ。

 恐らく本来の地肌と比べて濃い配色のものだと思う。それでも僕よりは色白だ。


「……」


 シズは気丈に振る舞っているけど、病は日に日に蝕んでいる。

 濃いめの化粧は、そうしないともう健康状態を誤魔化せないからだろう。

 熱気を帯びたこの時期に、全体的に服装が長めなのも同様の理由だ。


「皆本ー、お連れの人まで割引使えるってー。学割よりも安いからこっちにしよー」

「え……ああ、そうなんだ」


 ポーチから出した手帳を掲げながら言う。

 本当はこうして出歩くことすら辛い瞬間がある筈だ。なのにされど、シズはこんな僕を連れて行ってくれる。


 想定した金額よりも安く入館ゲートを通過するとすぐに、群青色の空間が僕とシズを迎える。まだ本物の魚たちの姿は見えないけれど、それはまるで水中で呼吸をしているような感覚になった。


「……」


 このとき僕は、隣にいるシズがどんな表情で眺めているのか気になり、気付かれないように流し見た。


「え、あれ?」


 隣に居ると思っていたシズがいなかった。

 僕は焦って辺りを右へ左へと見回し、シズを探すため不審者になっている。

 もしもの事態さえ、あるかもしれない。


「皆本なんか楽しそうだねー」

「……あっ——」


 その声の方へ振り返る。


「——シズ……どこいってたの?」

「パンフレットあったから取りに行ってた、ほらこれっ」


 そう言ってシズは三つ折りした縦長のパンフレットの表紙を僕に見せ付ける。

 新次元アクアリウムの文字と共にこの水族館名を記し、海底から撮影したらしき群れと陽光が全面に映し出されていた。


「……本当だ」

「あ、でも……この中見ない方がいいかな。行き当たりばったりでお魚さんたちに出逢おうよ」

「シズがそう言うなら」

「うん、もし迷ったら教えてね。私がすぐに地図を開くから」


 シズは頷いた後にパンフレットをポーチの中へとしまう。サイズ的にギリギリ折り畳む必要もなく収納出来ていた。


「じゃあ皆本、どっちから逢いに行く?」

「シズが決めていいよ」

「……確かここ二階建てだよね?」

「うん」


 公式のサイトを閲覧したときにその情報があって、イベントや食事スペースなどがあると記述されていたような気がする。


「だよね。なら私が二階、皆本が一階の主導権を握る……なんてどうかな?」


 シズが右手で人差し指を立てて、左手でピースサインを作り訊ねてくる。

 なんだか急に遊びに来たって感じがして、思い掛けず笑えてしまう。


「分かった。なら僕は右側にあるオーシャンエリアから見て回りたいかな」

「おお。いきなり大きな所だね、了解」


 シズが親指を立てて賛同してくれる。

 そうして、僕とシズは世界最大の海洋をモチーフにしたオーシャンエリアへと向かう。


 僕が最初にそこを指名した理由は、シズには言えない。

 最初に見応えのある場所から行けば、もしも体調を崩してすぐ帰ることになったとしても、またここに来たいと思えるのではないかと考えたなんて、口が裂けても割れない。


「おー……」


 オーシャンエリアに入り、すぐに水槽が一望出来る。すると僕の隣のシズが早歩きになり、その水槽の仰ぎながら近付いて行ってしまった。


「……」


 僕とシズとの距離がとお退いているのに、ラピスラズリの水槽前で群れ魚と共にきらめくシズの背中。


 この光景から、目が離せそうにない。


「アジがいっぱい……同じ方向に泳いでる、みんな仲良しだよ」

「そうだね」


 僕はゆっくりとシズの後ろまで歩きながら答えた。するとそんなアジの群れに、鞭のような尻尾と平らな形状が特徴の軟骨魚が接近してくる。


「ああっエイ、エイだよ皆本」

「本当だ」


 シズが指を差し示して僕に伝えてくれる。


「大きくてカッコいい」

「うん」

「でも裏側は可愛い、しょんぼりしてる」

「……言われてみれば」


 そのエイの面積の割に空洞が小さいから、余計にそう見えてしまうのかもしれない。


「あれ……アジさんの方に突撃してない?」

「突撃かどうか分からないけど、近づいてはいるね」

「もしかして食べちゃったりしないよね?

 可愛いけどダメだよ、アジさんも逃げて」

「……多分、それは大丈夫だと思うけど」


 飼育している魚たちは、共食いなどをしないように徹底的な食事管理や、同じ水槽に入れないなどの配慮がなされているとテレビ番組で言っていたような気がする。


 基本的には口に入らない種類とか、水中のプランクトンを食べるくらいで満足する餌やりをしているらしい。

 仮にもし食べられるときがあるとしたら、小魚が病気かなにかで遊泳力が著しく衰えた場合が大半のようだ。


 ただシズはアジたちとエイを凝視しながら、双方の行く末を黙々と見守っている。

 どちらも愛らしいからこそ、争って欲しくないみたいだ。


「あ、ああ……お、おおっ、凄い」


 アジたちとエイが交えようとする。

 もしかすると本当に共食いが始まるのかと僕も肝を冷やしていると、それを察知してか否か、アジの群れは急旋回してエイを瞬く間に回避した。


 優雅に泳ぐエイと、進路を変更したのにも関わらず一匹もはぐれなかったアジの群れが、僕とシズの角度からだと丁度重なって見え、大小魚のコントラストに照らされる。


「……今の、なかなか見られないんじゃない?」

「うん、あと無事で良かったよ」


 シズが僕と対面して、そう言いながらはにかんでいる。それを見て、どんな反応をしてしまったのか、ちょっと覚えていない。


「あ、そうだ」


 シズがポーチの中からスマホを取り出し、フラッシュ機能をオフにして魚たちを撮影する。水族館に来た記念のようだ。


 先程のアジやエイに加え、別水槽にいるタカアシガニがサンゴ礁を渡り歩く姿を追っていたり、昔の教科書で見たクマノミとイソギンチャクの互恵ごけい関係かんけいが本物だと喜んでいた。


 シズはあれが見たい、これが観たいと、途絶えることなく目移りし即行動する。きっと僕を連れ回している自覚はないと思う。


 でもどのみち、僕はシズにどこまでも付き合うつもりだから、悪くはないシチュエーションだ。


 それになにより、あんなに好奇心旺盛で目紛しく動くシズを久々に見て、どうしようもなく胸を打たれる。


「……」

「……あれっ?」


 そんなシズが上向いて急停止する。

 何事かと僕は少し足早に近付くと、一般的に想像する四隅の水槽ではなく、天井窓を覗き見るような形式の、満月みたいな水槽から魚影を眺めていた。


 そこに悠々と遊泳する丁字の頭部が特徴の肉食的な魚類は、シズを釘付けにしている。


「皆本あれ観てサメ。サメがあんな近くにい……あ、何匹もいる!」

「ああ、アカシュモクザメだね。この水族館の目玉って書いてあったけど……こんな感じで観るんだ、珍しい」


 今は三匹いるサメの白肌を僕は仰ぎ、身体を左右に動かして泳いでいるのが分かる。

 一目で分類が出来るその頭部も、何かを探しているかのように映った。


「私、昔からサメが観たかったんだ。大きくて強くて、ちょっと怖いのが気になって」

「ああ……言ってたね」

「あれ? 皆本に言ったっけ?」

「僕の父さんとシズが、話してたよね」


 それは僕がまだ入院していた頃。怪我から明けて歩けるようになった姿を僕の両親へ、シズと共にサプライズを仕掛けたときの出来事だ。


 僕と母さんから少し離れたシズと僕の父さんが、完成前のこの水族館の話をしていたのを今でも憶えていた。


 だから。あの頃から僕はシズと水族館に行きたいと常々考えていた気がする。


 でも。あのときシズが観たいと言っていたのは、シュモクザメではなかったと思う。


「あー小学生の頃だったかな? 懐かしいね」

「……ごめん」

「え……ん? どうしたの急に?」

「いやあの……探したんだけど、シズが観たがってたジンベエザメはいないらしくて、もっと遠くの水族館に行かないとダメで——」


 少なくともこの地方の水族館には、どこにもいないらしい。

 その巨体も相まって、輸送の困難さからそもそも、水族館で飼育していること自体が少数のようだ。


「——シズに、見せたかったんだけど……」

「……」


 シズの所望を叶えたい。

 けれどその容態から、県外への長距離移動の許可が下りるとは思えないし、時間も一刻と日々迫っている。


 もっと遠く。その発言で、今後ジンベエザメを拝める機会が訪れないかも知れないことを察したかのように、シズは沈黙する。


 掛ける言葉に僕は困った。こういうときに気の利いたことを喋られないのが、いつも悔やまれる。


「——いいんじゃない?」

「えっ?」

「ジンベエザメはまた今度で、ねっ? それよりも今はこの子たちだよ。怖い顔だけど、ビックリするくらい可愛いよ」

「……」


 シズが僕の腕を掴み、シュモクザメが泳ぐ満月型の水槽の方へと持ち上げてくれる。


「ほらねっ!」

「……うん」


 僕の右腕が揺さぶられる。遊覧ゆうらんとするようにくつろぐサメたちを、シズが僕を使ってなぞり追いかけるからだ。


「……」


 気が付けば急接近している。

 その強面がガラス越しに目視出来なくなるまで、僕の赴きも知らないで続いた。


 それは決して嫌なんじゃなくて、どのように対応したらいいのか戸惑い、呼吸をすることすら難しくなる。隣のシズにもその兆候が見られる。


「みんないなくなっちゃった」

「同じ所に留まるのは退屈なのかもね」

「……そうだね。元気に泳いてで何よりってことだよね」

「うん……そろそろ二階に行こうか?」


 シズはスマホの容量が心配なくらい撮りまくっていたけど、僕たちはまだ一階にいる。


「そうだね。どうやって行けばいいのかな?」

「あそこに階段があるよ」


 僕がそう指摘すると、率先してシズが右腕を掴んだまま導いてくれる。

 螺旋の階段をそうやって上ると、まるで迷宮探索のようだと頰が緩む。


 二階には屋外のスペースも併設されていて、そこでは水槽越しの観覧は勿論のこと、食堂にお土産、そして生き物たちのショーイベントが開催している。


 念のため事前に、そのイベントのタイムテーブルを調べてはいたけど、シズと一緒にいるとどうにも時間を忘れてしまう。


 僕とシズは二階に辿り着くとすぐ、イベントが行われる会場に向かう。


 開放的な石段の座席が半円弧を描くように設置されていて、その中心には生き物たちがショーを行う。煌びやかな水面が波打つ特設プールがある。


 このプールは一階にある水槽とも直結していて、上からも下からも楽しめる仕組みになっているらしい。


 でもそこは、繊細な生き物たちに考慮して、ちゃんと時間配分が成されている。


「あ……昼休憩」

「みたいだね」


 イルカショーもペンギンショーも全て調べだけど、直近でも一時間以上後になる。

 前公演は催されているみたいから、生き物たちの体調不良で中止になる確率は低いと思うけど、この待ち時間をどうしようか悩む。


「……」

「えっ……シズ?」

「あ、ううん平気だよ」

「そう……——」


 僕の呼び掛けに弱々しく答える。どうやらシズはかなり疲弊しているようだ。


 先程から呼吸が安定しないし、膝下が震えてワンピースが僅かに揺れている。

 

 明らかに、平気ではない。


「——フードスペースで何か食べる?」

「……あんまり食欲がないから。皆本だけ食べに行ってもいいよ」

「いや僕は……あ、お土産とか見て回る?」

「後でね……」


 この感じだとおそらく、一階に居たときから耐え忍んでいたようだ。浮かれてないで、もっと早く気付いてあげるべきだった。


 せめてどこか、シズが休める所を探さないといけない。食事系を嫌うということは腹部の方の痛みだろう。

 この辺に簡易休憩スペースはないし、お手洗いに行って解決する痛みでもないと思う。


 となるとどこか。僕がシズから目を離さず、一緒に休めて視覚的な負担もない場所。


「……シズ、ちょっと早いかもだけどイベントショーのところに行こう」

「いいけど、今何にもやってないよ?」

「えっと……なんか僕の膝が痺れている気がするから座りたいなって」

「……どこか、ぶつけたりでもしたの?」


 シズには悪いけど、真っ赤な嘘だ。

 けれど僕の言うことが本当でも嘘でも、シズは絶対無視はしない。その優しさにつけ込むのは、心が痛い。


「そんなところかな」

「……そっか。じゃあ私が側にいないと」

「いやそれは……うん、お願い」

「任せて」


 そう言いながらシズは虚勢を張りつつも、僕に対して左手を下から差し伸ばす。

 送って行くよという健気な意思表示だ。

 本当にしんどいのはシズの方なのに。


「……」


 僕は周囲から視線が注がれていないことを確認しつつ、シズの平手に右手を添える。

 それは小さくて、骨骨しくて、僕と比較すると随分とか細いけど、思わず信頼を寄せたくなる逞しく心地よく冷たい手の平だ。

 

 離れないように、強く握られる。


「私から離れないでね」

「……離れようがないよ」


 物理的にも、精神的にも、そうしたくない。それにしても、今日はいつにも増してシズに引っ張られている気がする。もう既に、特別な日になってしまっている。


 日陰の石段は直接触れると冷んやりとしていて、湿度が上昇し始めた環境のせいか、やけに心地良い。


 イベント会場には休憩時間のため、当然ながら僕とシズの他には誰もいない。


「……静かだね」

「ん、呼んだ?」

「えっ? ああ、ちがう違う。その、さっきのはここの雰囲気のことで——」

「——だよね。でもちょっとビックリした」


 飛沫しぶきを浴びせていたであろう水面を見下ろすように、僕とシズは隣り合わせに着席する。ついでにバッグも下ろす。


 繋がれた手と手は、離すタイミングが分からなくてそのままだ。


「膝の調子はどう?」

「安静にしてるとなんともないよ」

「うん……こうやってくつろげるといいよね」

「……そうだね」


 相変わらず平然を装っているけど、唇が力み堪えている。


 痛み止めの薬を飲める時間とかも聴きたいけど、僕はシズが落ち着くのを待つしかない。


「少し、皆本の力をもらって良いかな?」

「うん……」


 シズの頭部が、僕の二の腕を枕にする。

 他人から見ると、ドラマなどの影響で余計な勘繰りをされてしまうかもしれないけど、これが今一番の、楽な体勢みたいだ。


「……柔らかい」

「向き、そっちでいい?」

「うん。このままがいい」

「……分かった」


 筋肉質じゃない身体も、悪いことばかりではないらしい。僕の視点からだとシズの顔がベレー帽に隠れているけど、伝え聴こえる吐息から仮眠中のようだ。


 僕はシズを起こさないように、下ろしていたバッグから麦茶の入った水筒を取り出し、石段の空きスペースに置く。

 片手間で備え付けのコップに麦茶を淹れると、一足先に水分を補給する。

 小忠実こまめに喉を潤す予定が、すっかり忘れていた。

 目覚めた後で、シズにも確認しておこう。


「……いつもの味だ」


 それから麦茶が無くなるまでの正確な時間を調べた訳ではないけど、体感では十分後くらいだろうか。


 二の腕の重みが突如として無くなる。


「——……んっ、んん。ふあぁ……むぅ?」

「……」


 シズがうつらうつらとしながら、誰かを探しているみたいだ。そうして僕と目が合う。


「……にゃん時?」

「そんなに経ってないよ」


 舌足らずなシズは珍しい。


「——……おはよう」

「うん、おはよう」

「なに、してたの?」

「お茶を飲みながらまったりと。あっシズ、飲み物あったっけ? あと喉がれたりしてない?」


 シズがまなじりや口角付近をぬぐいつつ、どうだったかなと首を傾げている。まだぼんやりとしたままのようだ。


「……ある。喉渇いた、飲む」


 徐にシズは、事前に購入していたらしきエコロジーなペットボトルに入ったミネラルウォーターをポーチから取り出し、常備している経口薬と共に飲み込んでいった。


「ふー……」

「落ち着いた?」

「うん……色々と心配掛けちゃった」

「別に、僕はなにも……——」


 そう否定しようとすると、思考が巡りだしたらしいシズが先立って首を振る。


「——こういうこと、昔からよくあるし慣れてるから……もう皆本が、膝が悪いなんて嘘を付く必要はないからね」

「……」

「なんて、今の私じゃ説得力ないかな?」

「いや——」


 繋がれたままだった手と手が離れる。

 微かの温もりが残留する。


「——ごめんね。今日は皆本の誕生日なのに気を遣わせてばっかりだね」

「……謝る必要はないよ。普通に学校に通うより、ずっと楽しいから」


 六月のこの日は僕の誕生日だ。

 色んな我儘が通った要因の一つには、間違いなく含まれている。勿論シズの容態や家族同士の優しさもある。


「そっか、それなら良いのかな?」

「うん」

「いっぱい遊ぼうね、今日は」

「今日……そうだね」


 けれど、僕の周りが優し過ぎる気もした。

 そんなことを考えていると、イベント会場にある水面が激しく揺れ、そこから顔が覗かれる。


「あっイルカさんかなー、あれ」

「多分。一階の水槽と繋がってるらしいから、迷い込んだのかも」

「へえー。じゃあそっちも行けるのかな? 行けるなら後で行ってみようか?」

「そうだね」


 他愛のない会話が続く。

 小学生の頃に比べたら僕もシズも、より大人しくなったのかもしれないけど、根本的な部分は残っていると思う。


 十八歳だから何かが変化する訳じゃない。

 可能な事が少し増減するくらいだろうか。

 これから先。年齢を重ねただけだと、ずっとこのままな気がする。


「シズ……」

「ん? どうしたの?」


 僕の人生は平凡なものかもしれない。

 この世に存在してもしなくても、どっちでもいい人間と称されるかもしれない。


「——」

「皆本?」


 もし、そんな僕でいいのなら。

 シズがまだ、僕を連れ回してくれるなら。


 友人、恋人、同級生、入院仲間。

 僕とシズの関係はどれも当てはまって、そのどれもが不足している。

 適切な表現が未だに分からない。


「おーい」


 シズが僕に手を振っているみたいだ。ごめん、もう少し考えを纏めさせて欲しい。


 進学先選びのとき、適当に対処したものとは打って変わり、将来のことをひたすら反芻させている。


 僕とシズの限られた日々。

 田宮さんから離れるように忠告され、それを拒絶した。願わくば僕は、どこまでもシズに付き添うつもりだ。


 そしてシズが望んでくれるのなら、僕が密かに尊敬する二人のような関係になりたい。

 ようやく今日、その権利を貰えた。


 いつかの武藤が冗談交じりに言っていた台詞を憶い出す。あのときは現実味がなくて否定してしまったけど、今は撤回したい。


「……」


 ただ、どのように伝えたらいいものか苦慮する。いつもみたいな喋りの失敗は許されないし、拒否されたら精神的に参ってしまいそうで、失うのが怖くて仕方がない。


「……シズ、あの——」


 それでも僕が言わないと一生、出逢った頃からの感情を伝えることが叶わなくなる。


 着飾るだけの台詞ならたくさんある。

 シズの影響でドラマをよく観るようになったから、自然と傾向や流行りは少し分かる。


 使えばいい笑いの種になるかもしれない。

 だけど僕の言葉では無くなってしまう。


「——……こんな僕でもいいのなら」

「——」


 シズは何かを察したように押し黙る。

 僕の感情を、きっと汲んでくれている。


「ふー……——」


 僕にはシズが手を差し伸ばしてくれて、連れ回してくれて、不意に名前を呼んでくれないと、もう寂しくて生きていられない。

 形ない大切な宝物を、シズから貰い過ぎてしまったから。


「——その、これからも、遊んで欲しいんだけど……」

「ああ……どうしたの皆本、改まって?」

「え、あ、いや、言い直す」

「……うん、分かった」


 口下手なのはどうしようもないけど、本音ってこんなにも話せないものなんだと微笑む。


 感謝も、共有も、好意も、童心も、どんな言葉を使用しても足りないと思う。

 そういえばシズが僕のことをどう想っているのか知らない、ずっと聴けなかった。


 でもただの他人じゃ、もう居られない。

 今更こんなこと、聴いてもいいのかな。


「……僕は頼りにならないし、絶対苦労を掛けると思う。それでもシズと一緒に居続けたいから、その……結婚とかって出来ないしないかな……シズ」

「……えっ? あ、う、んん?」


 恥知らずで、みっともない告白だ。嘘でもいいから幸せにすると言うべきだった。

 交際などの過程をすっ飛ばしているし、誠実さにも欠けるかもしれない。


 男らしさなんてものは微塵も無くて、どうかしてるくらい盲目的で、多分結婚という行為自体にそこまでこだわりすらない。


「「…………」」


 でもシズの余命に対する同情なんかじゃない。少し早くはなったかもしれないけど、僕は必ず似たようなことを伝えた筈だ。


 それはただ昔の僕のように、今の僕のように、未来の僕がシズに翻弄され続けて欲しいからこその我儘だと思う。


 僕はシズと遊ぶ時間が、交わす声色が、豊かな表情が、不意に手を掴まれてしまうのが、いくつになっても大好きな自信がある。


 シズの方はどうなのかな。

 もしも同じなら。出逢えるきっかけの一つである両膝から崩れ落ちてしまいそうなほど嬉しいけど、どうかな。


 シズの気持ちを、僕はずっと知りたいです。


「——……皆本」


 硬直する僕をよそにシズが口を開く。

 嫌な顔をしているのか、気持ち悪いと思われているのか、今すぐ帰りたいと考えているのか分からない。


 シズの気持ちが最優先だから待つしかない。でももしも叶うのなら、こんな僕を、いつまでも受け入れて欲しい。


 そう祈りながら僕はシズを見る。

 シズのありのままの姿を、捉える。


「……」


 シズは、少なくとも嫌そうではなかった。けれど喜んでいる様子もなく真顔で見据えていて、僕を慮りながら告げる。


「それじゃ、皆本が幸せになれないよ」


 シズはそう言い残してポーチをその場に置き、どこかへと立ち去ってしまう。

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