第26話 言分

 僕は普通に高校で授業を受けて、終業と同時に、そのまま直行して病院へと向かう。


 今日は面会を断られなければいいなと、他愛のない会話でも出来たらいいなと、病院の敷地内にある小児科病棟までの通路を呑気に歩いていた。


「あっ……——」


 その小児科病棟に続く通路から逸脱した、木陰の下でシズの両親、田宮たみやさん、担当のお医者さんがなにやら取込中のようだ。


「——あんな所で、どうしたんだろう?」


 本来なら挨拶に向かいたいけど、大人たちの要件が済むまで、僕は視界の外れで待つことを決めた……そのときだった。


「え……——」


 シズの母親が、脈絡もなくうずくまった。すぐに父親と田宮さんが寄り添うけど、一向に立ち上がる気配は無い。

 

 お医者さんは、無常に立ち尽くす。

 いや、そんなことは今どうでもいい。


「——……っ!?」


 気が付いたら僕は、シズの母親の元へと駆ける。大人たちの邪魔をしたら悪いなんて遠慮を、すっかり忘れてしまっていた。


「あの、シズの、大丈夫ですか!」

「え……——」


 突然の呼び掛けに驚いたのか、シズの母親を含めて全員が僕の方へと視線が向く。


「——あ。笹……伸くん、こんにちは。今日も逢いに来てくれたのね、ありがと……う」

「はい……」


 辛うじて返事だけは出来たけど、それ以上の言葉がつっかえた。胸元から喉まで強く、鋭く締め付けられる。


 僕は、細々と震えた声と両眼を赤くして堪え続ける、シズの母親のつくろった親の笑みに、ちゃんと応えられなかった。


「……」


 でも、一目見ただけで分かる。シズの母親が、とても僕に声を掛けられるような状態では、到底なかったことくらい。


「いつも……いつもね……」

「……」


 この笑顔を僕は知っている。

 ときどき、シズも同じような痩せ我慢をするからだ。やっぱり二人はどうしようもなく親と娘なんだって、視界が歪みながら思う。


「笹伸……」


 田宮さんが僕の名前を呼んでいる。

 それなのに。聴こえてはいたけど、僕は身体が囚われてしまったかのように、全く動かなくなった。


「……」


 頭の中がシズのことで乱れていた。思考がそこに注がれて、僕の名前すら忘れてしまいかねないくらい交錯する。


 いっそ真っ白になってしまったら、どれだけ楽になれるのかと、思ってもいないことがぎってしまう。


 シズの身になんらかの異変がある。それはシズの両親、田宮さんにお医者さんの顔色伺うだけで、拙い僕の思考回路でも、そう断定していた。


「だってね……ずっ——」

「——笹伸くん、先生方。すみませんがこの後立て込んでおりますので……失礼します」


 シズの母親を制して、シズの父親はそのように告げる。このまま喋り続けるのは身体を苦しめていくだけだと庇ったようにも映る。


「……はい」

「お送りしま——」

「——今日は二人で、大丈夫です。田宮さん、いつもありがとうございます」

「いえ……分かりました」


 そうして僕、田宮さん、お医者さん。

 それぞれにお礼を述べてから、シズの両親は二人支え合うように、シズが居る小児科病棟から遠のいて行く。


「……」


 僕はその大きな二つの背中が見えなくなるまで、ずっとがれていた。


 潜熱が呼吸器官を火傷させる。塩味の液状を抑制したことによる酸性が、じんわりと僕を冒す。


「それでは、これで——」

「——あ、はい」


 お医者さんは田宮さんに断りを入れて独り、病棟へと戻って行く。


 元々、他の患者さんとの合間を縫ってここに居たんだろうから、僕が介入したことで寧ろ長居をさせてしまったのかもしれない。


「「…………」」


 そうして木陰には僕と田宮さんだけになる。看護師さんもここに立ち尽くす理由は、もう無い。今すぐに子どもたちの所へと向かいたいはずだ。


 ましてや、その看護師は田宮さん。基本は優しく、でもときには厳しく律してくれる、子どもたちが大好きな小児科の看護師さん、それが田宮さんだ。


 休みたいとか、怠いとか、サボりたいとか、そんな理由でここにいる訳がない。


「笹伸」

「……」


 田宮さんは僕の背中を撫でる。同時にその労るような声色は、体調の違和感にもきっと気が付いている。


「……また、大きくなったんじゃない?」

「……」

「そうだよね。もうすぐ、結婚も出来る年齢にもなるんだもん、当たり前だったね」

「……」


 こんな僕の為に、他にも仕事があるのに、田宮さんは側にいてくれている。


「笹伸も……シズもね。私のお腹ぐらいの高さだったのに、成長したよね」

「……」

「ふふっ、私もおばさんになるはずだ——」

「——いえ」


 田宮さんが急に自虐を言うから、締め付けられたままでも思わず否定してしまった。


 勤務年数が長く、年上の看護師さんにも指示を出す立場の為分かりにくいけど、確かまだ三十代と、この病院の関係者では若い部類だ。


 少なくとも僕が、田宮さんをそんな扱いをすることはない。


「……否定してくれるなんてね、嬉しいよ」

「そう、思っただけです」

「ふふっ、ちょっとは落ち着いたかな?」

「……多少は——」


 夕焼けが影を潜めて、断続的な軟風が僕の前髪を揺らし、目元を遮る。


「あのね笹伸、シズの面会は——」

「——無理、ですよね……はい」

「うん……」


 僕のタイミングを見計らって、簡潔に告げてくれようとしたようだ。それなら素直に帰らないと、田宮さんにも他の人にも迷惑だ。


 周辺温度が下がっていく。その影響か、かつての怪我のせいか否か、僕の両膝は震えている。


 まるでこの病院から自宅に帰ろうとすることを、自然と拒絶するみたいだ。


「笹伸——」

「……すみません」

「——ちょっと、私と話せないかな?」

「いや、えっ?」


 僕は動揺しながら、田宮さんを見る。


「なん……で、ですか?」

「……」


 それは無言で、僕を神妙に案じるようだ。

 田宮さんは背中に当てられていた逆の手で、僕の左腕を軽く掴む。


「田宮さん?」


 でも。田宮さん自身が唇を噛んで、今にも壊れてしまいそうな儚い表情を抑え込んでいるのが伝わる。


「……」


 その後、僕が田宮さんにどう答えたのかは覚えていない。けれど、二人で中庭の木製ベンチへと移動したことから、田宮さんの提案に頷いたんだと思う。


「そこ、足場が悪いから気を付けてね」

「あ、はい」


 それはいつもの忠告だ。僕の茫然とした意識が戻ったのもこのときだ。


「……」

「ん、どうしたの?」


 田宮さんがいつのまにか、看護師さんの表情になっている。それがどんな顔か、誰かに伝えることは出来ないけど、僕の感覚では間違いなくそうだ。


「とりあえず、座ろうか?」

「……はい」


 木製ベンチの左側に僕、一人分の空白の向こう、右側に田宮さんがそれぞれ座る。


 なんの話をするつもりなんだろうか。


「……シズは今頃、子どもたちと遊んでいると思うよ」

「……そうですか」

「うん、だから元気ではあるんだよ。でも、今日は様子見というか——」

「——はい」


 シズが元気だという情報を、他でもない田宮さんから聴けたことで、ひとまず僕は安堵していた。


「シズは子どもたちにとって、良いお姉さんって感じだね。笹伸が来れない日は、大体子どもたちから引っ張りだこだし」

「——そう、なんだ」


 僕がいないときのシズは、どんな風に過ごしているのか気になってはいた。面会に行ったとき、それを垣間見れる瞬間と言えば、塔子も一緒に遊んだときくらいだと思う。


 その塔子も僕が知らないうちに無事退院していて、もうこの病院にはいない。


 今頃ご両親や、小学校やその他の友達と、塔子の天真爛漫っぷりを見せつけていたらいいなと、僕は切に願っている。


「絵本を読んであげたり、大人気なくゲームで完勝したり、暖め合ってたりね。別病棟の患者さんの所に遊びにも、一緒に行ってたかな? まあ、やってることは昔と変わらないんだけど」

「ちょっと穏やかにはなっていますけど、確かにそうですね」


 最初は年長者になるにつれ、話し難い存在になってしまっているのかと思った。

 けれどやっぱり僕がいると、子どもたちは遠慮して、シズに近付かないだけみたいだ。


 本当にここの子どもたちが、人の気持ちに敏感で思いやりのある子ばかりなのは、昔から変わらない。


 小学生の頃。別病棟で入院していた僕を受け入れてくれたときのことを、今でも覚えている。忘れられない時間だ。


「手は焼かされるけど、良い子なんだよね」

「……はい」


 僕のいないときのシズを聴けて嬉しい。本人にもなかなか訊ねられなかったから、尚のことそう感じる。


 けど。どうして急に田宮さんは、この話を始め出したんだろうか。


「私が新米看護師だった頃からだから、余計にそう思うね」

「前に言ってた気がします」

「うん、ここに着任してすぐ。私の初めての担当患者さんが、シズ」

「へぇ……」


 昔から仲が良いと思ってはいたけど、新人からというのは知らなかった。


「この小児科でのイロハは、シズが案内して教えてくれたんだよね」

「追いかけっこのような感じで、でしょうかね?」

「ううん。あのときは一緒……に——。

 ——……一緒におててを繋いで、そのうち私が腰を痛めてさ、シズが背中を叩いてくれて、優しく、て……ね。」

「……田宮さん」


 田宮さんの柔和な声が揺れている。

 僕はベンチから正面を見据える。


 今、田宮さんの座る方へ向けるのは駄目だと、両膝にいつまでも不安が残るこの身体が教えてくれた。


 やがて、その場で深呼吸をする田宮さんの吐息が聴こえる。


「笹伸は……——」

「——はい」


 感情を上手くコントロールしようとしてるのが伝わってくる。それでもまだ難しくて、言葉が上手く紡ぎ出せなかったみたいだ。


 シズの両親、そして田宮さん。

 みんなの反応と口調からして、僕に言おうとして辞めた台詞はきっと、シズとの今後のことだと思う。


「——そろそろ、進学か就職を考える頃合いじゃない?」

「……はい。どちらかというと考えるより、もう決める時期かもしれませんけど」

「そうだよね。笹伸は進学かな?」

「とりあえずはですね」


 いつもの雑談とはどこか違う。あと、田宮さんが本当に訊ねたいのは、きっと僕の進路のことじゃない。


「受験勉強とかは大丈夫?」

「割と余裕のある大学が候補なので、一夜漬けとか過度な勉強をする必要はないです」

「そっか。じゃあ、高校の子とちょっと遊んだりとか出来るのかな?」

「いや……出来ますけど、相手がいないですね。武藤とかは難関大学を目指すみたいなので、僕が邪魔する訳にはいかないです」


 ここ数ヶ月。勉強に取り組み出した武藤の成績が跳ね上がったらしい。元々地頭が良いからとりわけ驚くことではないかもしれないけど、流石は武藤といえる。


 とかくに受験日を過ぎるまでは、進学に対する熱情が違う僕は静観するべきだろう。


「うーん。考えすぎだと思うけどね」

「ですかね? でもその代わり、卒業式前後に旅行を計画しているので……」

「ああー懐かしいね卒業旅行。私は北海道に行ったよ。三月だからまだ寒くてさむくて」

「はは……大変でしたね」


 一般的に三月は温暖になってくる時期だけど、北の雪国はまだ氷点下になるときもあるとニュースで観た気がする。


「思い出にはなったけどね。笹伸たちはどこに行くの?」

「まだ具体的に決まってないですけど関西方面だと思います」

「……それなら安心だね」

「はい」


 少なくとも、何枚も重ね着をする必要はない所になると思う。


「「…………」」


 庭園で一時休憩する旅鳥が、落ちて舞う青葉に怯え鳴き羽ばたいて行く。


 そんな一部始終を眺めている間、僕と田宮さんは沈黙していた。先延ばしにする会話が終わる気まずさは、想像以上に戸惑う。


「……」


 僕は田宮さんを一瞥する。俯いた横顔からだと、高い鼻筋が際立ち、サイドヘアが左頬と瞳を隠す。


 白衣の看護服の上をネームプレートが跳ねていて、内股気味の両脚は微動だにしない。


 しかし、指先を絶え間無く摩られている。

 冷え性なのかもしれないけど、どこか手持ち無沙汰で、考え事をまとめようとそうしている気がする。


 僕は再び正面を向いて、何も特筆すべき地点が無くて、背中が丸まる。


「シズ……もうすぐ退院するんだよ」

「え……そ——」


 そうなると同時に、田宮さんがシズの未来を零す。僕はその言葉の意味が、一瞬良く分からなかった。


「——そう……」


 とにかく喜んでいれば良かった。

 退院とは、大抵の場合はそれでいい。


 僕のときも両親や親戚からとても歓迎されたし、またシズと一緒に街を巡ることが出来る。それは幸せなはずだ。


 そういえばようやく、近くで建設していた水族館がオープンしたらしい。シズも行きたがっていたと記憶している。

 そこに二人で行けますと、僕は田宮さんに笑顔で答えたら良い。


 でも僕も病院事情に、素人なりにはある程度知識を持っている。無論関係者の田宮さんなら僕以上だ。


 だから。最近のシズの容態を見る限り、普通なら退院なんて当面先の話だと思って言い淀むべきじゃなかった。


「——笹伸は正直な反応だね」

「いや——」


 僕が否定しようと田宮さんに向き直ると、その田宮さんは既に僕の方を見ていた。


「——そっか……これがどういうことか、やっぱり笹伸は分かっちゃうか」

「……」

「……伝えるべきじゃなかったかもしれないけど」


 田宮さんの語気が沈んでいる。それはどこか、僕を突き離すような口調だ。


「はは……笹伸は、賢いね」

「……」


 されど田宮さんは、いつもの笑顔を作る。

 口角を上げることすら、辛いはずなのに。


 それよりも。僕の想像に間違いであるように、田宮さんに訊かないといけない。


「シズの……移植手術はしないんですか?」

「……する予定だった。けど、キャンセルになる」

「どうして?」

「……」


 その情報は、僕に直接告げられてはいなかったけど、最近のシズの心意気からそうじゃないかと勘が働いた。


「家族が断ったんですか? それともドナーがいなかった? お医者さんの都合がつかなかった? ……なんでですか?」

「どれも違う。シズもご両親も望んでいたし、適合するであろう患者さんもいた……」

「だったら——」

「——笹伸っ」


 詰問する僕を田宮さんは強引に制する。

 小学生の頃に注意されたときと同じか、それ以上の語勢だ。


「……すみません」


 それを間近聴いて、僕は我に返った。

 確かに、部外者の僕が責め立てるように訊ねる内容ではなかったと猛省する。

 看護師さんにも、当然守秘義務がある。


 でも田宮さんは、僕に怒っているというよりは、無力な自分を自らの手で後ろ指差しているみたいだった。


「ちょっとだけ、私の話を聴いてくれる?」

「……なんですか?」


 僕も珍しく、声色が低くなって返す。少なからず、怒気が含まれているのかもしれない。


 ケンカになっても相手の逆鱗に触れたケースばかりだから、僕自身にこんな感情が渦巻くなんて知らなかった。


 誰かにここまで無愛想に対応したのは、両親以外には初めてかもしれない。


「笹伸に逢う前の、シズの入院理由は知ってたかな?」

「……持病とだけ、お医者さんと雑談しているときに話してましたね」

「うん。じゃあ具体的な病名は伏せるけど、小児特有の臓器の炎症っていえばいいかな。成長と比例して収まることが多いけど、そのまま悪化して悪性化するパターンもある病気なんだ。でも、シズは収まっていたの」

「……はい」


 僕はそちらの病に侵されたシズに、皆目見当も付かない。そもそも現在の病で苦しんでいる姿すら、シズは僕に見せたことがない。


 いや。シズが苦しむ場面に遭遇することはあったけど、必ず僕に悟られないように誤魔化そうとする。今日のシズの母親と同じだ。


「収まっていただけで寛解かんかい。だから完全に治ってる訳じゃないけど、日常生活に支障はないレベルと考えたらいいかな」

「……」


 寛解という単語は、シズの病を検索すると必ずと言っていいくらい出てくるから、一応意味は分かる。


「でも……」

「……でも?」


 躊躇ためらう田宮さんに、その先を早く話して欲しいと急かす。こんな底意地の悪い訊き方を、したいんじゃない。


 ただ。時間が経過すると共に、僕の覚悟が歪んでしまいそうだった。


「……その臓器に悪性の腫瘍が見つかった。おそらくだけど、理論上は今の病と別経緯。幼少期からの持病が慢性化して進行したものと考えるのが、一番筋が通る」

「……」


 これは聞き間違いだと、思考が逃げていく。


「……こういったケースは極めて稀。世界中の症例を掻き集めても両手の指で足りる程度だと思う。それで……——」


 田宮さんが湧き上がる怨嗟を噛み殺すように、僕に告げる。


「——今の医療技術じゃ、シズをどうにかする術はない。どちらかから対処しようにも、シズの身体がとてもじゃないけど耐えられない。そもそも、片方ずつだと病の進行具合からしてどちらも間に合わない。

 なら両方同時に治療薬を投与して治せ、なんて……私個人の意見だけど、それは殺人行為と変わらない。良薬にも相性と適量がある。

 そんな都合の良い特効薬があるなら、誰も病に侵されて死んだりしない……私みたいな末端の看護師なんて存在しないよ」

「……」

「……もう、私が何を言いたいか分かるよね、笹伸」


 不意に田宮さんが立ち上がって、僕は助けを求めるように仰いだ。

 けれど田宮さんは、シズが居るであろう小児科病棟を眺めていて、僕の視線に気付いていない。


 何が言いたいのか、僕は分かりたくない。——分かりたくないけど、シズの母親の姿を見たときから、薄々そうじゃないかと過ぎっていた。


「——本当に、どうすることも出来ないんですか?」

「シズのご両親も訊かれてた。何もかも全てを失っても、自分たちの命を差し出してでも、シズに生きて欲しいって」


 黄昏時、田宮さんがさらに上向いて答える。


「そんな方法があるなら、私が知りたいよ。

 シズがご両親と一緒に暮らせて、笹伸と並んで歩いて、沢山の人を惹きつけるシズの未来が手に入るなら……私が、犠牲になる」

「……」


 それは、看護師としてはあるまじき台詞だ。

 患者さんには等しく接する必要がある。


 普段の田宮さんなら、そう考えると思う。

 だけどその気持ちを、言葉を、一人の人間として、とても責められない。


「ごめん……私にも誰にも、シズをどうすることは出来ない」

「……」

「……お医者さんは一年持てばいい方だって言ってた。今回の退院は、家族との時間に充てるための、前向きなものだよ」

「一年……前向き……」


 上手く言葉が飲み込めない。

 それが長いのか短いのか、本当に前向きな決断なのか、判断しかねる。

 この是非は、僕じゃなくてシズだけが持つべきものだと思う。


「笹伸」

「……はい」


 田宮さんがベンチに着席したままの僕を見下みおろしながら呼ぶ。

 それは先程感じ取った、案じるようで、どこか僕を突き離させようとする雰囲気だ。


「……もう、シズと逢うのは辞めなさい」

「……っ——」


 一瞬だけ、田宮さんの正気を疑う。そんな物言いを、まさか田宮さんから告げられたことが信じられなかった。


「——な、なにを言ってるんですか」


 僕は反射的に立ち上がり、田宮さんと相対しながら反論する。


 簡単に応じる訳にはいかないと、心の中に刻み込んだ僕が言う。


「……笹伸がシズのことをどう想っているか、私は少しだけ解ってるつもりだよ」

「だったら——」

「——でも、幸いにも笹伸は部外者。だからこそ、これ以上シズと一緒に居続けるのは、笹伸のためにならない」


 田宮さんが僕に言いたいのは、つまりはこういうことだろう。


「僕に、シズを見捨てろと言うんですか?」

「そうじゃないっ——」


 慣れない暴言に頭痛が生じる。


「——先のないヤツとは距離を置いて、僕にのうのうとやり過ごせと言うんですね」

「そんなこと言ってない!」

「そうなるんですよ!」

「違うっ!」


 ここまで僕自身の感情論に任せて話したことは、両親にもないかもしれない。


「じゃあ、なんだって言うんですか……」

「はぁ……冷静に訊きなさい。笹伸、あなたには将来があるの。まだ十七歳、これから受験がある、今の同級生と最後の高校生活を送る、そして新生活が始まる、大人になる。

 笹伸を取り巻く環境は絶え間無く続くの。

 でもシズは……必ずその途中で終わる」


 平然を装いつつ続けている。


「このタイミングを逃せば、笹伸は何があろうと、シズと最後まで連れ添う選択をするしか無くなる。永く仲が良いのも、退院しても家で遊んでるのも聴いてるし知ってる。

 それでも笹伸とシズは他人なの。だからシズと離れて、自分の人生を歩んだとしても、誰も文句は言わない。

 私は……いや。一人の看護師として、笹伸が最期までシズの側にいない方がいい。

 このまま精神的負担にしかなりかねない状況を、みすみす見過ごす訳にはいかない……今しかないんだよ」


 毅然とした田宮さんの視線が刺さる。


 意見としては、悔しいけど納得は出来るし、正論ではある。これから目紛しく変化する僕の生活を、人生を、田宮さんは考慮した上で憎まれ役を買って出ている。


 理屈を挙げれば、その方が幸せなののかもしれない。僕の日々を新しく謳歌することが叶うのかもしれない。


 でも。どんな建前があろうとも、シズと離れるというこの一点だけは受け取れない。


「それって——」


 そして、堂々と言ってくれる田宮さんに対しても、強く当たってしまう。


「——シズを見殺しにするのと、何が違うんですかね?」

「ちょっとなに——」

「——教えてください」

「……っ」


 僕がこんな暴論に出るとは想ってもみなかったと、田宮さんは険しい表情になる。


「なんでそういう結論になるの。私はただ笹伸の先のことを——」

「——だとしたら余計なお世話です。僕のことは僕が決めます。田宮さんにどうこう言われる筋合いはないでしょう」


 すると、田宮さんが自責の念に駆られているかのように俯く。しかしすぐに向き直って僕を睨み付ける。


 きっと知らずしらず僕が挑発的に睨んでいるせいもあると思う。けれど、それだけではない感覚も混在している気がする。


「……あるよ。私がいなければ、二人は同じ病院で入院しているだけで、きっと逢わなかっただろうから。だから二人を引き離すのが、私の役目だと思う」

「やっぱり、最初から僕とシズを離したいだけなんじゃないですか」


 違う。こんなことを吐きたいんじゃない。

 ただ普通に、認めて欲しいだけだ。


「……このままだと笹伸が苦しむんだよ」

「……」

「残される方の気持ちを、今の笹伸が知る必要はない。罪悪感はあるかもしれないけど、切り替えはしやすくなる。だから——」


 職業柄。僕の知らないところで、そう言った経験を幾つも超えて、この仕事をやってきているんだと思う。


 だからこそ田宮さんは僕を気遣い、僕にとって最良の歩み方を教えてくれている。


「——田宮さんの身勝手を、僕に押し付けないで下さい」


 それでも、シズだけは絶対に譲らない。譲りたく無い。ただ側に居て欲しい。


「押し付けてない」

「じゃあ何も言わないで下さい」

「それは笹伸が自分で分かってないか——」

「——もう、田宮さんの意見は聴けません」


 そう言って僕は田宮さんから視線を切る。

 これ以上面と向かって話すとほだされそうで、シズを裏切ってしまうのが嫌で、多分僕なりの必死の抵抗だった。


「訊きなさい」

「……」


 田宮さんの淡々と僕を諭そうとする。

 乾いていく外気がそれを誇張するようだ。


「訊きなさい!」

「……聴けません」


 今度は怒りが加わった田宮さんの不安定な声が、僕の耳をつんざく。思わず僕も反論してかぶりを振った。


「なんでわかってくれないの」

「……」

「私は笹伸とシズが大切だからこそ……」

「……聴け——」

「——笹伸っっっ!!!」


 それはもう。ここが病院であるとか、そんなことなどお構いなしの叫声で僕を責め立てながら遮った。


「……」


 僕は驚いて再度、田宮さんを見る。


「……」


 赤面のまま荒い呼吸をして、両手を強く握り、髪の毛が珍しく乱れている。


 それは一見粗暴に映るけど、僕とシズのことを誰よりも寄り添ってくれたからこその姿だと今更、冷静になって知る。


 けれどこの日。それ以上、田宮さんと話すことはなかった。


「今の大声はなんなの……田宮っ!」

「……」


 先程の声を聴いて駆け付けた看護師長の佐藤さんが、僕に謝罪をしたのち、田宮さんを連行してしまった。


 僕も、別の看護師さんからもう夜遅いと促されて、病院の敷地内を出ていた。結局数々の罵詈雑言を、田宮さんに謝れないまま帰路に着く。


 そしてもう一つ謝らなければならないのは、僕は田宮さんの忠告を袖にして、退院したばかりのシズと約束を立てたことだ。


 シズと一緒に居たい。でも、他人でしか無い僕に何が出来るんだろう。


 うつろな夜分。覚束おぼつかない足取りで僕自身がどうしたいのか、どうなりたいのかを考える。

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