第25話 予兆

 バス停留所のひさしの真下で、僕と武藤はお互いにペットボトルを片手に持ったまま待ち惚ける。僕がミネラルウォーター。武藤がスポーツ飲料だ。


 摂氏せっし二十にじゅう五度ごどを超える夏日。

 日差しをさえぎっているおかげで気休めにはなるけれど、やはり蒸し暑い。


 半袖シャツに七分丈パンツという身軽な私服姿は少し早いかもと僕は思っていたけど、寧ろ丁度良かったとその腕を撫でる。


 武藤はそんな格好に黒一色の薄いベストを着て、ワンアイテムでオシャレ具合の違いがこうも出るのかと僕は感心するしかない。


「皆本。ゴミ箱ってどこだっけ?」


 武藤が手の団扇うちわで仰ぎながら、逆手にある空にしたペットボトルを掲げている。


「あー、さっき購入したコンビニまで行けば絶対あると思う」

「了解。ちょっと行ってくる……の前に。皆本の分も一緒に持って行こうか?」

「え、ああ——」


 武藤が踏み出そうとした右足を止め、僕にたずねる。


 ペットボトルの中のミネラルウォーターは頑張れば二、三滴落ちてくるくらいで、ほぼ無い状態に等しい。それに気付いたようだ。


「——いや、武藤を使い走りにするのは嫌だから僕は遠慮しとくよ」


 すると何故か、武藤が苦笑している。

 可笑しなことを言ったつもりはない。


「なんだその理由? 遠慮無用、使い走り上等。俺に任せてくれ……よっと」

「あっちょっと……」


 僕の手からペットボトルを奪い取る。


「……やっぱ空じゃんか」

「いや悪いよ、せめて一緒に行こう?」

「それはダメだ。俺が皆本、どっちかがここで待ってないと、アイツが困るだろ?」

「あ……うん」


 結局僕が仕方なく頷いた後、武藤は軽快な足取りでコンビニの方へ向かう。


 高校生になってから、そろそろ折り返し地点に差し掛かっている。けれどその後ろ姿は昔と大差なく、どこか懐かしい。


 同時に少し距離があるから、次のバスが到着する頃には間に合わないかも所感した。


 それに乗っているか否かまでは定かではないけど、武藤が迎えてくれた方が嬉しいのではないかと、もどかしく思う。


「早く戻ってくれるのを祈るしかないか」


 そう呟き、僕は念のため自身の連絡用のスマホを開いて簡素なメッセージを送る。内容は、バス停前で待ってますと記した。


「……」


 しかし相手が閲覧した様子はない。

 僕は手持ち無沙汰でそこに立ち尽くす。


 薄汚れた時刻表の隣。

 他の乗客はおらず背後ろに歩行者もいない。直射を受けている鉄柵は、触れると潜熱を分け与えようとするだろう。残念ながら今は欲しくない。


 丁度ロードバイクが僕の眼前を横切る。

 自転車よりも快速で、時間差の小風が横髪と軽装を波のように打たせる。

 

 ついでに少し涼ませて貰う。気休めにはなっているけど、本音を言うとこちらはもっと欲しかった。


 そんなことを考えつつ、僕はスマホの時間と時刻表を照らし合わせる。


「あと一分か……」


 これから横断する訳でもなく、車道を右へ左へと交互に見渡す。


 その長針のたった一回りの間に何度瞬きをしたのか、気にし過ぎて逆に分からない。


「……あ、来た」


 僕は淡々と言う。

 年季で黄ばんだ車体のバスが、コンビニへと往復している武藤よりも先に右方向から現れ、徐々に減速していく。


 そうして僕が立つバス停前に着き、開閉扉が開かれると一人だけ降車しようとする。


「ありがとうございます」


 車掌さんへの挨拶を交わし、三段程の階段を降りて、僕の隣に立つ。


 シャツ、スカート共に白が基調の学生服を着ている。具体的に表すると、長袖シャツの上に少しクリーム色のセーターを着用していて、申し訳ない程度の紺線が二本あるだけのスカート。ハイソックスにローファー。


 周囲の学校では見ない配色の制服、その物珍しさに目移りする。


 何よりそれを着ているのが、髪型こそ僅かに伸ばしているけど、刺々しいと誤認される顔付きは相変わらずな、僕が良く知る同級生だからだ。


「久しぶり皆本」

「……うん、久しぶり」

「でもどうしてここで待ってるの? 現地集合だから受付だと思ってたんだけど」

「えっと……バス停で待ってるって、種川に連絡を入れた筈なんだけど——」

「——あっ……」


 心当たりがあると種川は、自身のスマホをスカートのポケットから取り出して、電源ボタンを一度押す。しかし起動する気配はなく、画面は真っ暗なままだ。


「ごめん電源切ってた」

「ああ……じゃあしょうがないね」

「うん、流石に付けたままだとダメな場所だと思ったから」

「いや、マナーモードくらいなら問題ないよ」


 僕が指摘すると、種川はスマホと睨んで思案したのち、電源ボタンを長押しする。

 県外から帰省したばかりの筈だから、色々と連絡の必要があるんだろうと思う。


「そういえば武藤は?」

「あー……一緒に居たけど今はコンビニに行ってる。多分もうすぐしたら、戻って来ると思うよ」


 ついでにトイレでも済ましているのか、ここから武藤の姿は未だ捉えられない。


「ふーん。じゃあ先に行こうか」

「あ、えっ、置いていくんだ?」

「冗談、待つ」

「……うん、良かった」


 安堵の一息を吐いて、僕と種川は雑談をしながら武藤を待つ。


 内容としては他愛もなくて、僕の高校には同じ中学の人が何人進学したとか、逆に寮生活はどんな感じなのかと訊ねたりした。


「おー」

「あ、おかえり」


 気長に寛いでいると、数分して悠々と闊歩しながら武藤が戻って来る。


「遅刻」

「はあ……ってかなんで制服?」

「別にいいでしょ、気分」

「しかもこんなクソ暑い日に長袖セーターとか、大丈夫かよ」


 僕は真横で、武藤と種川のやりとりを静観する。あまり二人の邪魔をしない方が良さそうだ。


「バスの中では快適だった」

「……今は?」

「苦行」

「そりゃそうなるだろ」


 お互いに異なる種類の苦笑をしている。

 種川は自身に対する皮肉を、武藤はそんな種川を労うような笑みだ。


「まあ、セーターくらいは脱いでもいんじゃね? ……どうせ楠木に見せようとか思ったんだろうけど」

「……」


 武藤が欠伸を噛み殺しながら指摘すると、種川が面倒くさそうに睨んでいる。


「最初から分かってるなら、なんで制服なのとか訊かないでくれる?」

「いやだって一応というか……なあ皆本」

「えっ僕?」

「というか。もう三人揃ったんだから、早く志津佳の所に行くよ」


 種川が急かすように告げると、そのまま一人でそそくさと先行している。


 僕と武藤もお互いを見合わせた後、諦めたように口角が吊り上がり、肌に染み付いた感覚に従い、不変のリーダーを追う。


 急にシズの名前が出てきた理由。それは僕たちがこれから、この病院前駅バス停の徒歩圏内にある、シズが入院している病棟に、三人でお見舞いに向かう予定だからだ。


 武藤と種川にとっては、闘病中のシズと逢うこと自体が初めてになる。


 二人はシズの病までは知らないけど、倒れて救急搬送され、そこから卒業式まで出席しなかったことで色々と察してはいると思う。


 実際。同じ高校に進学した武藤とシズの話をすることは、この一年近く皆無だった。


 でも昨日未明、種川が県外から一時帰省。

 そしてどうやらシズに逢いたがっていたらく、当日中に武藤へ連絡。


 その武藤は、僕が度々シズの面会に通っていることを、伝えられてはいないけど知っていて、種川も面会可能かどうか僕にメッセージをくれた。


 ここ最近の容態の安定。

 みんな一定の年齢に達していること。

 中学時代の数少ない理解者であること。

 昨日の段階だけど、病院側からの了承。

 そして、覚悟はしているであろうこと。


 それらを加味した上で僕は、メッセージを貰ってすぐシズに確認を取りに向かう。


 もし誰にも逢いたくない、見られたくないと答えるなら、僕は断るつもりだった。


 けれどシズはとても驚いた様子で、ちょっとした同窓会だねと、左右に揺れながら嬉しそうに答えていた。


 そうして意向を汲んだ僕と、面会を望んだ種川と、仲介役を担って事情を知る武藤も含め翌日、つまりは今日。その三人で現地集合。同時に県外の高校へ進学した種川と久しぶりの再開を果たしていた。


 その後、僕たち三人は小児科病棟へ向かい、受付で面会許可を賜り、シズが居る四◯二号室へと階段で経由する。


「随分と手慣れてるね?」

「うん。昔から来てるし、知り合いの看護師さんばかりだしね」

「確かに。受付の人、皆本のことを普通に下の名前で呼んでたな」


 僕が面会の手続きを武藤と種川に教えつつ、普通に看護師さん方とよもやま話をしていたことが気になったようだ。


「そっか……あ、この上の階かな?」

「うん」

「なんだ。受付で聴いてたのを、もう忘れたのか?」

「武藤うるさい、確認を取っただけでしょ」


 一年以上、直接逢っていなかったとは思えない掛け合いに僕は謎の安堵を感じている。


 一瞬だけ殊勝な表情をしている種川が映ったけど、武藤もいるお陰か否か、取り敢えずは肩肘を張らずに済んでいるようだ。


 どうやら二人は今でも連絡を取り合っているらしい。たまに教室で武藤から近況を聴かされるから間違いはないと思う。


 推測ではあるけど、武藤の方から一方的に絡んでいる。予定のない深夜にスタンプの連続投稿をしてきたりするから確率は十分高い。


 僕も一応は種川の連絡先を知っているけど、やりとりはほぼしていない。

 誕生日当日におめでとうと送られてきて、それに返信したくらいだ。


 普通の同級生なら、良好な部類だと個人的に感じる。ただ、武藤と種川がそれ以上の関係性だということだろう。


 人付き合いが浅くて、ちゃんとは分からないけど。


「あ、扉閉まってる」


 そうして僕たちは、シズの病室の前に到着する。扉が開いていないのは意外だった。


「ここ?」

「そう、ここ」

「……なんか緊張するな」

「……」


 武藤の台詞がそのまま種川にも伝播する。

 病室で逢うのが初めてなら、どうしてもかしこまってしまうものだと思う。

 ましてやこうして扉で隔てられると、それが加算されている気がする。


 となると二人の代わりに僕が、口火を切る必要がある。


 そう決心して扉の取手に手を掛け、騒音を立てないようにスライドさせた。


「シズ、起きて——」

「——るよー」


 僕が扉を開けた瞬間、シズが独り言の続きを話す。これは恐らくずっと扉の前に張り込んで待機していたようだ。


 もしかすると聴き耳も立てていたのかもしれない。そして呆気に取られている僕を他所よそに、昨日とは異なるウルフカットのシズは、強張った武藤と種川を笑顔で歓迎する。


「タネも武藤も入ってー……そうだ椅子と飲み物を用意しないと」

「あ、それなら僕も手伝うよ」

「場所分かるんだっけ?」

「変わって無ければ、うん」


 ふためくシズの後に僕は続く。


 シズは魔法瓶がある方へ向かっていったから、僕は椅子を三つ探そうとする。


「二人ともちょっと待っててね」

「……ああ」

「私と武藤、来て良かったのかな……」


 労いの言葉を掛ける間も無く、シズは離れていってしまう。


 そんなこんなでシズが飲み物を注ぎ、僕が別室から椅子を借りてきて並べると、武藤と種川はそこに隣り合わせで座る。


 僕は二人とベッドを跨いで、対面する形式で椅子を置く。


 シズが眠るベッドに備え付けられたテーブル上に藍色と黄緑色のマグカップ、そして紙コップが二つ並んでいる。因みに全員、麦茶を選択した。


 僕は迷わず黄緑色のマグカップのふちを掴む。二人の視線が突き刺さる。


「タネ、それ高校の制服だよね?」

「え、ああそうだよ」


 不意をつかれたように種川はシズを見る。


「真っ白なのいいねー、純真無垢だ」

「うん。汚れたら凄い目立つけど、かなりお気に入り。あとこの高校、お母さんの母校だから着てみたかったんだよね」

「へー。お母さん喜んでたでしょ?」

「んーどうだろう。恥ずかしそうにはしてたかな? 同じとこに進学するとは思ってなかったみたいだから」


 母娘で同じ学校に通うのは、どうやら少し複雑なようだ。それは決して悪い意味じゃなくて、嬉しさや感慨深さに混ざり双方の時代の錯誤があって、また共通するものもある。


 だからちょっと反応に戸惑いが生じて、赤面に変わるんだと思う。


「タネは先生になるんだもんね」

「うん。武藤や皆本の高校からでも良かったんだけど、実際お父さんはそうだし。でも、こっちの高校の方がちゃんと進路を決めてるのが伝わるから。ほら。両親二人とも教師だと、厳しさを知ってるから反対されがちかなって思ってね」


 種川は戯けて笑う。将来の会話に僕と武藤が横槍を入れる暇はなくて、黙々と聴く。


 先のことは、まだ明確に決まらないままだ。どうにも高校生のうちになんらかの行動も起こせそうもなく、進学か就職を選択してしまいそうだ。


 自覚もなくるように、大人にカテゴライズされてしまう気がする。


「……といっても、私もまだ決めてないことはあるんだよね」

「決めてないこと?」


 ベッドに腰掛けてるシズが種川に訊ねた。


「うん、どの教師になるか。国語とか数学とかそういうの」

「確かにそれ重要だね」

「……そうなんだよね。どうしようかなって」

「成績は満遍なくって感じだよな? 母親の影響で若干古典が強いくらいか?」

「……合ってるけど、なんで武藤が知ってるのよ?」


 そこでようやく武藤が介入する。種川の成績についてなら他の同級生も親御さんも周知の事実だ。当然僕も知っている。


 中学校のシステムは優秀者が掲示されるので、総合得点から大方の概算が可能だ。余談だけど種川が取り零したテストは一度も見たことが無い。


 ならば自ずと平均的に高得点だと分かる。


「そんなのどうでもいいだろ。それよりも、どの教科担当にしようかの相談がしたいんじゃねえの?」

「……ほんと武藤は余計なことしかしない」

「おいそれは酷くね」


 武藤はわざとらしく大袈裟に主張する。

 その口調だけで冗談だと伝わる。


 どうやら種川も分かっていて、こちらも怠そうに溜息を吐く。


「そういう武藤はどうなの? 元々ここに来る予定すらなかったじゃない?」

「えっ、そうだったの?」


 台詞を聴いて一番に、シズが驚いている。


「ああ。でもそれは俺が行っても楠木の邪魔になると思ったからであって——」

「——いつでも皆本と来て良かったよ?」


 間髪入れずにシズが言う。

 その意見に武藤は意味深に頷き、眼の前の麦茶を飲んで仕切り直し、逆に訊ねる。


「そうか? 皆本だけの方が楠木は良いと思ってたんだけど」

「な、なんでそう思うの?」

「……さあな。俺には分かんねえわ」


 両手を広げて、自分で考えてみろと試すように、やれやれと首を振る。


 その態度にシズが珍しくご立腹だ。いや怒っているというよりは、図星を突かれたように、ムキになってしまっていると表現したほうがいいかもしれない。


「……そんな意地悪だからタネに投げ飛ばされるんだよ」

「ちょ、おい誰だ。楠木はそれ知らない筈だろ?」


 武藤が僕と種川を交互に睨みを利かす。確かに二者択一だけど、残念ながら僕じゃない。


「ごめん私が中学生のときに教えちゃった」

「遊びに行ったとき、タネに伝授して貰ったから、いざとなったら繰り出せるよ」

「……マジ種川は余計なことしかしねえわ」

「なに? 事実を言ったまでなんだけど」


 思いのほか早く、三人とも軽口を叩き始めている。ここに来るまでのちょっと重い雰囲気が嘘みたいだ。


 まるでみんなが中学三年生に戻ったようだと感じる。


「今日は賑やかだねー」


 シズの病室の扉付近から嬉々として覗いている。それはとても聴き馴染みのある、安穏でときに厳しさも伏せ持つ看護師さんの声色が妙に落ち着かせてくれる。


 僕は振り返る必要もなくその人物が分かる。間違いなく、田宮さんだ。


「ごめん葵さん、騒がしかった?」

「ううん、このくらいなら問題ないよ。あ、笹伸は今日も来てくれたんだね」


 その声の方へ顔を向き合わせた後に、僕は一度会釈すると、田宮さんは弾むように僕たちの元へと歩いて来る。


 丁度僕とシズ。そして武藤と種川を一望出来る場所で立ち止まる。


「えっと、二人とは初めましてだね。この病棟の担当で看護師の田宮です。ここにいるシ……楠木さんの担当でもあって、皆本くんとも昔から面識があります」


 田宮さんは自身のネームプレートを掲げて、武藤と種川に自己紹介をする。

 二人も倣って会釈をしていた。


「武藤くんと種川さんだよね?」

「あ、はい」

「え……なんで知ってるんですか?」


 武藤がそう訊くと、田宮さんは微笑みながら台座の上にある写真立てを指差す。


 そこには僕たちの修学旅行で撮影した四人の写真が飾られている。


「あの写真を見ながら君たちのことを聴いていてね。私もちょっとだけ知ってるんだ」

「ああそういうことね……」

「武藤、言葉遣い」


 適当な敬語を種川が正す。


「ふふっ。私に気なんて使わなくていいよ。子どもたちは少し不躾なくらいが、素が出ていて良いと思ってるから」

「いえ、私たちはもう子どもという枠組みでは——」


 種川が訂正し切る前に、田宮さんがそれを上塗りする。


「——私からしたら、君たちはずっと子どもだよ」

「ですが……」

「……聴いていた通り、種川さんは真面目な子だね。シ……楠木さんと買い物や遊びに出掛けてたなんて信じられない、ねえ?」


 そう言って田宮さんは、視線で揶揄からかいながらシズに問い掛けている。


 そんなシズも田宮さんと同じような視線のまま苦笑して、お互いに理解し合って交差させる。


「なにさ葵さん。私とタネじゃ釣り合わないって言いたいのー?」

「ちがう違う。でも、真面目な子と仲良くするよねって、勝手に思っただけだよ」

「……タネと誰のこと言ってるのかな?」

「さあねー」


 白々しく田宮さんは会話を切り上げると、僕を一瞥。武藤種川と順番に眺めていき、座っている二人の目線に合わせて質問する。


「種川さんは教師を目指してるんだよね?」

「はい」


 返事は昔から決まっていると、迷いなく種川は肯定した。


「それで武藤くんはビッグになるんだね?」

「え……いや、はい! 勿論ですよ」

「適当……」


 心当たりがないと一瞬戸惑ったけど、すぐに根拠もなく豪語出来る辺りが武藤だと思う。


 因みにビッグになると吹聴したのは僕だ。半分は冗談だけど、本当にそうなってしまう気もするから、全部が嘘じゃない。


 武藤には鋭い直感力や推察力があり友人関係も容易に築ける包容力もある。


 僕の高校生活が上手く行っているのも、そんな武藤が側にいてくれるからだと勝手に思っている。


 だからもし実現したのなら、きっと僕自身のことのように嬉しい。


「そっか。じゃあ今のうちにサインでも貰っておこうかな?」

「あっ、私もー」


 すかさずシズも賛同を寄せる。

 当の武藤も満更ではないようだ。


「はい、是非!」

「……志津佳も田宮さんも、武藤を調子付かせないで下さい。本気にするので」


 名前と指を差して種川は制止させる。

 なんでだよと言わんばかりに武藤が両手を広げると、シズと田宮さんが二人を見て笑っていた。


 僕も多分微笑んでいたと思う。なんてことない一悶着から暫く経過する。


「そうだ種川さん。教師になろうとしていること、少し訊かせて貰っていいかな?」

「構いませんけど、どうしてですか?」


 田宮さんが再び、種川に質問している。


「私の妹が教師なんだよね、高校の」

「へー……高校」

「そう。進路調査とか散々ぐずってたのに、ある日いきなり先生になるって。種川さんとは大違いな感じだけど」

「いえいえそんな」


 それは初耳だと行く末を見守っているシズと、これは色々と都合が良さそうだと悪戯に笑う武藤が同時に映る。


「あの……妹さんの赴任先や科目とかって分かりますか?」


 種川が前のめりに訊くのは珍しい。


「赴任先はどうだったかな? 変わったって言ってたけど、妹か別の先生か分からないね。科目は歴史だよ。免許は地理歴史に公民と両方持ってた」

「歴史……ですか」


 種川がゆっくり頷き、その言葉を反芻しているようだ。そこに武藤が横槍を入れる。


「種川、本当は歴史教師になるかどうかで悩んでるんだよな? 今日はそれを皆本と楠木にも訊いて欲しかったんだっけ?」

「へえー」

「……そんなこと言ってないでしょ」


 ささやかな抵抗虚しく、武藤は続ける。


「それでなんで決まってるのに悩んでいるかというと、両親二人と異なる科目だから、何か違うか?」

「だから……そんなこと私は言ってない」


 反論はしているけど悩みの否定はしていない。やがて武藤が嘆息を吐いた後、種川の方を見据え、一言だけ付け加える。


「言ってねえけど、お前が悩むのは大体他人が絡むだろ?」

「……」


 そのまま押し黙ってしまう。

 少し、考える時間が必要みたいだ。


 これは両親の辿った道のりと異なる未知の領域だと、種川自身が分かっているからこその悩みだ。


 同い年だけど種川と、そして武藤は、僕よりも先を見据えた思考をしているらしい。


 少し、羨ましく思う。やがてさりげなく呼気をして、種川が隠すのを諦めたように話し始める。


「……母が古典教師で、父が生物もだけど、本職は地学の教師なんです。その二人の専門的な話を間で聴くのが私は好きで。昔噺と天文が別々のようで、神話や一節で繋がっているのも好きなんです。

 余談ですけど、対照的な両親が中学生の頃にそれで意気投合して結婚にまで至ったから、二人だけのものって感じがしていて。

 だからこそ両親どちらかの背中を追いたくなくて、私は私の専門知識が欲しくて、古典や地学や、それに他の科目ともどこかで関わりがあることを証明していつの日か、私が間で聴いてるだけしゃなくて、両親と三人で対等に話し合いたいんです」


 そう決意を表明した種川は、僕とシズがいる方を眺めると、戯けて苦笑した。


 僕もシズも武藤も田宮さんも、淑やかにその表情を見つめていた。


「それで歴史教師はどうかなと……志津佳と皆本に訊くつもりだったんだけど、私の中で答えは出てたね」

「……本当、面倒くさい性格してるわ」


 敢えて悪態をついている。それがこの武藤なりの、天邪鬼な敬意と含羞がんしゅうの裏返しだと僕は思わず微笑んでしまう。


「うるさい……って言いたいけど、これは私もそう思う」

「もうちょっと気楽に生きてりゃいいのに、融通が利かねんだよな」


 武藤がそう言うと種川が失笑しながら返す。


「……うるさい」

「ははっ、ひでー」


 お互いの非難する言葉とは裏腹に、武藤と種川の佇まいは穏やかだ。


 それはまるで決まり事のようで、この相手なら許されると理解して言い合っている。

 僕が二人に羨望を向ける一端だ。


「はいっ。私はタネが先生になって、生徒さんに教えている姿が観たい」


 シズは挙手しながら、率直な感想を述べている。逆に僕が心配になるくらい純粋だ。


「うん。そう言って貰えると嬉しい」

「じゃあ何度でも言うよ?」

「いやいや、一回で十分に伝わってるよ」

「そう? もっと伝えたいんだけど」


 そう言いながらシズは、挙げていた手を下げ、自身のベッドに僕の方を向いて横たわる。


「……」


 話の流れ的には駄々だだねるように映る。

 即座に僕は、田宮さんに目配せをした。

 すると一度だけ、神妙に頷いてくれる。


「ごめんねみんな。そろそろ定期検査の時間だから——」

「——あ、そうなんですか」

「うん、話の途中だけど——」

「——いえ、個人的にはいいお話をさせて貰いましたから」


 その場で起立して、種川は律儀にお辞儀をする。田宮さんもそれにならっている。


「それは私も。今度妹に教師のことについて話を聴いてみるよ。まあ、邪険にされそうだけどね」

「兄弟姉妹だと、改まって話すことないからそうなりがちですよね」


 武藤が同感だと素っ気なく挟む。


「だねー。武藤くんも兄弟がいるんだ?」

「姉と弟がいますね」

「そっか。じゃあ三人は一人っ子で、武藤くんだけ姉弟がいる感じか」

「はい」


 三人とは僕とシズと種川のことだ。そんな会話の最中に、僕たちは着々と帰宅の準備を進めていく。


「じゃあな楠木、また邪魔するわ」

「邪魔しちゃダメでしょ」

「いや。今日は思いっきりしてるだろ、俺も種川も」

「……」


 そう言いながら武藤は僕を見た。表情はどこか申し訳なさそうにしている。


「悪い。皆本、今日全然話せなかっただろ」

「あっ……」


 確かに僕は、全然話に入っていなかった。

 でも二人が気に病む必要はない。


「いや、今日はなんか……ちょっとした同窓会みたいで僕は楽しかった」


 紛れもない本心だった。ここにいるみんなが、そんな風に思えたなら尚更なおさら嬉しい。


「……そうか」

「うん」


 僕と武藤と種川の三人は、シズと田宮さんを残して病室を後にしようとする。


「またな」

「また逢おうね、志津佳」


 声に呼応して、シズはゆっくりと僕たちの方へ向き直る。


「うん、またね」


 そうして大袈裟に手を振る。

 田宮さんが最後まで見守っていた。


「また……来るよ」


 最後に僕がそう言い残して、三人は階段の方へと歩き出す。


「ここだったんだね……」

「ああ……」


 すぐに武藤と種川が何やら呟いている。なんのことが僕には分かりかねる。


「皆本」


 前を歩く二人が振り返る。


「今日はありがとね」

「うん」

「あと普段はシズって呼んでるんだね」

「えっ——」

「——入室のときに言ってたよ?」


 武藤と種川の微笑みが夢にも出てきそうだ。恥ずかしさも蘇って来そうだけど。

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