第24話 羞恥
久々にシズとの面会が許された。僕はその嬉しさよりも、ここまで謝絶する必要があった容態に、不安で足取りが重苦になる。
懐かしみの階段を上る。高校の制服を着用して訪れるのは初めてだ。つまりシズは、僕が高校生になった証を直接見ていない。
入学年から越年して、不安定な寒暖差が連日世間の装いを悩ませる玄冬。父さんのお下がりである、身の丈に合わないコートを羽織っても今日は寒気を感じる。
流石の子どもたちもベッドに
「……」
僕は階段の途中で止まる。
別段休みたかった訳じゃない。
「誰か、待ち構えてる?」
先程からずっと、上階からの気配を感じていた。
しかし僕が仰ぐとそこに人は居なくて、その場所まで歩き上ると、やはり誰もいない。けれどさらに上階から、同様の気配を浴びせられる。
いたちごっこを続ける。
誰かは分からないけど、寒さが少し紛れるし、なにより面白いから悪い気はしない。
僕は普段よりゆっくり一段を重ねる。
そうしてシズの病室がある階に辿り着く。
最後に確認のため、僕は再度覗き仰ぐ。
しかしその頃にはもう飽きてしまったのか、はたまた無事にミッションを完遂したか、とかくに遊びは終わりのようだ。
「楽しかったよ」
誰に伝えるでもなく呟いた僕は、身震いしながら縮こまりつつ通路を歩く。
「ふー……」
急かされた脈拍が僕の呼吸を荒くする。
歓喜と悪寒が入り乱れていて、どっちが僕を窮屈にさせるのかまるで分からない。
可能であるなら喜びだけであって欲しいけど、なんでも白黒で解決してくれるような、そんな綺麗事は存在しないと思う。
けれどきっと、適度な塩梅があるはずだ。
何はともあれと僕は大袈裟に息を吐いて、シズの病室内を覗き見る。
「……居た」
内心に秘めた高揚が漏出しそうになる。
口元を押さえながら僕はシズを見据えた。
シズはベッドから起き上がっていて、物置きにあったであろうスタンドミラーを手に、ブルネット主色のストレートロングヘアーのウィッグを微調整している。
入院着にカーディガンを羽織り、鼻唄を奏で、ポップな音楽を聴いているかのように揺れていた。
僕はもう少し眺めていたかったけど、このままだと
シズはウィッグを直し終え、仕上げの笑みを作っていた。
「シズ」
「はーい? ああっ、皆本ー元気だった?」
「え……うん」
シズがスタンドミラーを持っていない手を挙げ振り、何事もなく歓迎してくれる。
その台詞はどちらかというと僕が訊ねる方な気がするけど、あえて突っ込まない。
だって今のシズの姿を見たら、答えなんて言わずもがなだからだ。
室内は僕の体感ではとても温暖で、コートを着ていると暑いため、さりげなく脱ぐ。
「……皆本、高校の制服着てる」
「ああ、うん。まだシズに見せたことなかったなって……こんな感じだね」
僕はコートを右腕に干したまま、両手を広げ、制服姿を強調する。柄にもない事で、どうにも照れくさい。
それをよそにシズは、僕の格好の節々を見渡し、果ては後ろ背までくまなく焼き付けてくれた後にグッドサインを魅せる。
「ブレザーも良いね。凄く大人っぽくなってるよ」
「そう?」
「うん。あっでも、その首元が締め付けられてるのは大丈夫?」
シズが僕に近付いて指差す。
「んー大丈夫だけど、ちょっと苦しくはあるかな?」
「やっぱり」
「でも校則だからね。武藤とかよく外して注意されてるし」
「……そっか。なら、私といるときは楽にして良いんじゃないかな。それ外しちゃお」
そう言いながらシズは僕のコートを受け取り、ハンガーに着せて壁掛けに掲げる。
僕は校内の束縛を解く。喉元が緩やかになり、堰き止められず外気を吸える。心無しかいつもより透き通っている気がする。
「……」
なんだかこうしていると、僕の両親を想起させる。
それは確か、父さんが出張で外泊しないといけない前日。母さんもその支度を手伝っていたときの出来事だ。
取引先に見合うスーツを選んだ後、少々散らかした衣服を片付けようとする父さんを、母さんが明日は早いんだから任せて寝なさいと、まず父さんが試着していたスーツを受け取る、そんな他愛のない皆本家の日常。
なんでこんなことを回顧したのか、分からない。とにかく僕は、そのときの両親をとても微笑ましく見守っていたのは間違いない。
「皆本が悪になっちゃってる」
「シズが言ったからでしょ」
それは正しく久しぶりの再開だった。
だけど僕とシズの距離は相変わらず過ぎて、先ほどまでの切羽詰まる感覚はなんだったんだと、呆れたような苦笑が漏れる。
全くの拍子抜けだ。
「そうだ皆本。今日はボードゲームあるけどやる?」
「へー。色々種類あるけど、どれかな?」
「マイライフゲームです」
シズがこれ見よがしと、まるで印籠を眼に入れようとするように、僕に披露する。
ただ本格的なサイズのものではなくて、千円くらいで販売している簡易版だ。
コマやお金の管理が小粒で手間の掛かる、ボードのマスが読みにくいなどを除けば安価で団欒と楽しめる。正真正銘のマイライフゲームには相違ない。
あとは個人的な理由だけど、僕はパーティゲームの部類を遊んだ経験が少ないから、こうしてキッカケを貰えるのは素直に嬉しい。
「……それ、二人でやるの?」
「うん。他の子呼んでも今日は来ないよ」
僕が受付から歩いてここに来るまで誰もいなかった。いや正確には一人いたけど、今どうしているかまでは知る由もない。
「シズっ、私もやるー」
「おおっ!?」
それは丁度、僕の足下。
シズが身体を休める為のベッドの隙間から、小学生くらいのショートボブが愛くるしい女の子が、モグラのように顔だけ見せる。
「……」
僕は何処かで会ったと直感する。
「……
「そのつもりだったけど、シズがそわそわしてたから見守らないとって思った」
シズが塔子と呼ぶ女の子が、潜り込んでいたベッド下から這い、僕とシズの間で入院着を手で払いながら立ち上がる。
清掃が行き届いているのか、汚れや埃はそんなに見受けられない。
「さっき? そわそわ?」
「あ、いや……」
僕が少し気になって訊いただけなのに、何故かしどろもどろとするシズ。
こういうときは
「……どうしたの?」
「んー……どう説明していいやら——」
「——えっとね、私が受付に行ったらシズの相棒がいてね。今日はシズ元気だったから報告しにいった」
答えあぐねるシズの代わりに、僕がどう名前を呼んだらいいか分からないけど、一先ず塔子が、一連の流れを説明してくれる。
それにしても相棒とは。恐らく僕を指しているんだろうけど、言い得て妙だと思う。
となると、階段で僕を見下ろしていたのは多分ここにいる塔子ということになる。
あくまで確率が高いだけにはなるけど、他の人よりは納得もいくし、アクティブなこの子ならやりかねないという想像もつく。
「なんだ、それならすぐ言ってくれたらいいのに——」
「——そしたらねシズ、急に飛び起きて『皆本、ああ皆本』って慌ててたよ?」
「もう塔子!」
「凄く可愛いかったよ!」
当時の状況を塔子が実演してくれる。それをあからさまに赤面するシズが、抱きしめるように塔子を制止させる。
すると塔子もシズを抱き返し、僕の眼前で二人仲良く抱擁していた。はたから眺めると歳の離れた姉妹みたいだ。
「シズー、暖かい」
「……身体が熱くなってるからね」
しゃがんでいるシズが上目遣いで僕を眺めている。
「……」
僕は視線を逸らす。とても感じの悪いタイミングでそうしてしまったから、あえてそのまま逸らし続けた。
どうしても偶然を装いたかったからだ。
「あれ? この服も暖かい」
「カーディガン?」
「うん、よく見たら模様も綺麗。いいなー」
塔子が羨ましく模様をなぞる。
「……塔子、着てみる?」
「ほんとー?」
塔子はシズから離れると嬉々として両手を広げ、シズがベージュのカーディガンを脱ぎ、自ら塔子に羽織らせている。
そうしてすぐ袖を通す。
膝丈を優に超えるカーディガンに、塔子は満面の笑みを振り撒きながら回転する。
「おおー」
「似合うけど、やっぱりまだ大きいよね」
それはなんだか、シズの実体験からくる感想だと僕は思った。
僕とシズが出逢って初めての冬季。
当時十七歳の多江さんから、同じくカーディガンを譲り受けた小学生のシズもこんな風に小躍りしていたと懐かしむ。
流石にそれと同じカーディガンではないけど、シズはあれ以来、同種のものを必ず二着保持している。
そういえばもう、そのときの多江さんの年齢に僕とシズは追い付きつつある。
けれどどうにも実感がない。
大きなお姉さんという印象の多江さんを、精神的にも身体的にも超えている感覚がまるでないからだ。
月日はあっという暇もなく過ぎる。
されど僕は、童心を捨てていない。
「シズ、起きて……あ、笹伸ー久しぶり!」
「お久しぶりです」
シズの病室を訪問するや否や、僕に気付いて声を掛けてくれたのは看護師の田宮さんだ。最近はあまり逢う機会がなかったけど、相変わらずの朗らかさで僕は安堵する。
「……そっか、もう高校生なんだね」
「はい」
「でも笹伸の場合はやっと身体が追い付いたって感じするね。子ども離れした口調とかもそんなに変わらないし」
「そうですかね?」
「そういう所が、だよ」
田宮さんが慈しむように微笑む。
そしてシズにしがみつく塔子を見つけて、ゆっくりと歩み寄り視線を合わせている。
「塔子、やっぱりここに居た」
「検査はもう終わってるよ?」
「うん知ってる。でも、帰り道でいきなり何処かへ行かれると心配になるから、次からは一緒に一度、部屋に戻ろうね」
「……はい」
素直に返事をした塔子の頭頂から、田宮さんが髪の毛に添って撫でる。気持ちがいいのか、もっとしてと言わんばかりに、塔子が田宮さんに頭を寄せている。
「シズも随分と懐かれたものだね」
「別に、普通じゃないかな?」
シズは謙遜して返す。
変わらず塔子はシズを離さない。
「……なんだろうな。元々、シズが私とかに引っ付き回ってたから、成長したなって思っちゃった」
「うーん、まだまだ子どもだけどね?」
大人になろうと必死だったシズが、まだその幼さを自認している姿に、僕は揺さぶられる。こんな些細な変化がきっと、成長と言うのかもしれない。
「そうね。小学生相手に手加減なしで、リバーシで全戦全勝してたもんね?」
「いやあれはね。闇雲に置いても勝てないよっていう、ゲームの厳しさを教えてて——」
「——その割には、一番はしゃいでるように見えたけど?」
「うっ……」
どうやら図星のようだ。
シズは昔からゲームが強い。というよりは、何かとそつなくこなす柔軟な思考を持っていると思う。
身体能力に恵まれているとは到底言えないけど、智略を駆使して体育の授業で活躍する勇姿を観覧していたことがある。
計算の仕方が分からないけど、知能指数は高水準を記録するんじゃないだろうか。
「うう……だって、勝ったら嬉しいものじゃん。あと葵さんも私をゲームでボコボコにしたことあったよ。はい、子どもー」
「あれは私のお膳立てを、むきになって全部無視したせいでしょ? 可愛げなかったな」
「まあ、今の私なら余裕で勝てるけどね」
「へえー。そこまで言うなら久々に同じのやってみる?」
田宮さんの安い挑発にシズは簡単に乗る。
「いいよ。でも今日は皆本とマイライフゲームをするから、葵さんの都合がつく時——」
「——私もやるって言ったよー」
忘れないでと塔子が唇を尖らせる。
「訂正、皆本と塔子とするから」
「うん、今度ね。そうなると……もしかして十年ぶりくらい?」
「多分。私まだ小学生じゃなかったし」
シズと田宮さんの関係は僕以上に長い。きっと二人にしか存在しない信頼も数多くあるんだと思う。
シズには幼少の頃からの持病があることを、比較的最近になって知った。具体的な病名までは聞かされていない。それは成長につれて沈静化していくらしく、僕と出逢ったときの病とは別物だそうだ。
恐らく田宮さんは、その持病で入院していた頃のシズから面倒を見ていたんだと思う。
親子でもなければ当然姉妹でもない。しかし、それらを凌駕してしまうほどの絆が二人の間にはある。
「私生まれてないよー?」
「あっ、そっか。十年前だと塔子は……そうなるよね」
そして田宮さんはゆっくりと立ち上がり、しみじみとシズを見据える。
二人の背丈は、若干ながら田宮さんに軍配が上がるけど、それほど差はない。
大人になってからの十年と子どもの十年の違いが、如実に現れている。
「シズ。スケジュールが空いたから、明後日の検査を明日に変更してもいいかな?」
「うん。早く終わってくれる方が助かるし」
「分かった。じゃあ私は先生に伝えてくるから、あんまりはしゃがないように」
「はーい」
「あと検査前に居なくなったりしないこと」
「毎回それ言ってくるよね。ここ最近は時間守ってるよ?」
「シズには前科が幾つもあるからねー。それで私が病院中を駆け巡って捜さなきゃいけなかったんだから。ねえ、笹伸」
「はい、そうですね……」
僕の入院部屋に来るときの何回かはそうだった。それで田宮さんと一緒に退室していく流れをベッドからよく見ていた。
思えば僕と初めて逢ったときもだ。
でもそのお陰でこの関係は続いている。
「皆本の裏切り者」
「ごめん、事実だから」
僕が釈明するとシズは仕方ないと微笑む。
「ほんと手を焼かされたんだから」
「もう。ほらほら葵さん。看護師長にまた、怒られるよ?」
「子どもたちに干渉し過ぎだ、ってね? 分かってる。じゃあみんな、寝てる子もいるから大人しくね」
田宮さんがそう忠告すると、無言で僕が頷いてシズと塔子は手を挙げている。
「そういえば塔子。今日はおしゃれさんだね」
「うん!」
最後にそう言い残して、田宮さんはシズの病室を後にする。
シズごマイライフゲームの準備を着々と進めている最中、僕は塔子に一つ質問した。
「あの……」
「なに?」
僕の小声に塔子も合わせてくれる。
「なんで僕、相棒って呼ばれてるの?」
「あーそれはね——」
そう言って塔子は、シズの物置きにある写真立ての一つを指差す。
渡月橋を背景にしたそれは、右からシズ、僕、
僕の部屋にも同じ写真が飾られてある。
武藤が引っ張ってきたせいだけど、珍しく僕が真ん中に映っているから、母さんが驚いていた。思い返しても、本当に変な顔だった。
「——あの写真がどうしたの?」
僕がそう訊ねると、塔子が手招きする。どうやら耳を貸して欲しいと言っている。
僕はしゃがんで耳を傾ける。一瞥して塔子がシズに悟られないように口元を隠して、その理由を教えてくれる。
「——写真を見せて貰ってねー、私がシズの恋人が居るって他の子に言いふらしたらほっぺを揉みもみされたんだー」
「あ、うん……」
きっと否定したくて、いわれのないことを吹聴された照れ隠しでそうしたんだと思う。
「じゃあどういう関係なのって言ったら、夕方のテレビ観ながら相棒だって」
「それって……」
有名なドラマシリーズの再放送でも放映されていたんだと分かる。苦し紛れにしたって、流石に安直過ぎると苦笑する。
「絶対嘘だよね。でもシズがそう言うからとりあえず相棒ね」
「うん……」
経緯はともかく、そこまで間違ってはいない表現ではある。
「ふんふんふん……」
ゲームのお金をセットしているシズ。僕が訊きたいことは終えたけど、塔子はまだその耳打ちを辞めない。
「相棒、シズにプロポーズしてたもんね」
「……え?」
そんな心当たりはない。あと脈絡もない。
プロポーズはともかく、いずれはいままでの僕の気持ちを伝えたいとは常々思ってはいるけど、度胸もない。だからそれはないと返そうとするよりも先に、塔子が続ける。
「相棒が花束を渡してシズが嬉しいって言ってたの、私は全部見てたんだから」
「花……」
塔子が得意気にしている最中、考える。
僕がシズに花を手渡したのは一度しかない。
しかもそんなに都合よく、その場面を目撃する人物なんて……いや一人だけいた。
「あの小さな女の子か」
印象的なピンクの髪型と表情。中学生の頃に病室ですれ違い、確か珍しく僕から声を掛けた女の子だ。
「……」
大きくなっていてすぐに分からなかった。
子どもの成長とはやはりとてつもない。
「それでさー相棒はシズのこと好き?」
これが聞きたかったんだと声を弾ませて、塔子が僕に囁く。答えにならない答えがすぐに浮かんだ。
「恥ずかしいから、今は言いたくない」
「むぅー……ほおほお」
塔子がそれをどのように受け取ったかは不明だけど、どこか満足げだった。そのあとすぐシズが準備完了を告げ、塔子はそちらに興味を傾けたため、話はそこで終わった。
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