第28話 結実

 飼育員さんの合図と同時に、洗練されたイルカが水飛沫を弾けさせ、空中で半回転。照り鮮やかな円弧を描いて着水する。


 それがショーイベントのラストプログラムだと気付くのに、随分と時間が掛かった。


「おおーっ」


 いつの間にか、僕の隣に戻って来ていたシズが喝采の拍手を送る。


 周囲のお客さんからも黄色い歓声が反響し、飼育員さんが応えるように両手を振る最中、僕は心ここに有らずと言うべきか、先程の経緯を反芻させていた。


 僕とシズがこのまま、結婚というか一緒に居続けたい宣言をしたあとのシズの返事だ。


『それじゃ、皆本が幸せになれないよ』


 言葉の通りに受け取ると、シズに断られたということになると思う。なのに僕はまだ食い下がろうとしている。


「……っ」


 単純に僕が相手だと頼りなくて好感も無くてそんな風に見たくない嫌だ、そう言うのなら納得も出来た。


 でもこの返事だと僕のことばかりで、シズの気持ちが全く反映されていない。


 裏を返せば。シズの幸せを自ら、蔑ろにしている気がしてならなかった。


「……」


 僕は田宮さんと、シズのことで言い争ったときと同様の感情が湧き上がっている。

 なんと表現したものか、難しい。


「……皆本?」

「……えっ、なに?」


 思考回路に囚われていた僕は、シズの呼び声で現実に引き戻される。


「みんな移動してるけど——」

「——うん。じゃあ、どうしようか?」


 僕は不意に辺りを見渡す。石段が人々の雑踏に打たれて、小刻みに精気が篭る乾いた音々が聴こえる。


 着席しているのは僕とシズと、ストローで美味しそうにジュースを飲む可愛らしい、多分男の子くらいだ。それを両親と思わしき二人が立ち尽くし見守っている。


「可愛いねあの子」

「……そうだね」


 シズも僕と同じ子を見ていたようで、優しく儚く囁いた。


「ズズッ……シュー……、よいしょー」


 その子は空気と共に最後の数滴を吸い終わると、父親と母親の間に立ち、双方の腕を掴む。施設内に家族が戻って行く様を、人知れず僕とシズは眺める。


「……皆本はさ、実は子ども好きだよね?」

「……どう、なのかな?」


 はっきりとした答えが浮かばない。

 性格に難ありの僕を大きく育ててくれた両親や、入院時に歳下の子どもたちの相手をしていたシズや、十数年も小児科の子に接している田宮さんには敵わない気がしたからだ。


 それにまだ尚早というか、好き嫌いで語って許される人間じゃないと思ってしまう。


「……皆本が直ぐに答えられないってことはね、子どもたちのことを考え過ぎてるからだと、私は思うよ」

「えっ……」


 僕がシズの方へと向き直ると、見事な微笑みで返されてしまう。


「それは、好きってことなんじゃない?」

「……うーん」

「皆本に子どもが出来たらさ、その子はきっと幸せだね」

「……どうかな。僕の背中を見て大人になりたいと思わせられない気がするよ」


 すると唐突にシズが立ち上がり、両手を梅雨前線の影響を微塵も感じない快晴へと伸ばして、窮屈な身体をほぐす。


「んー……はあー」


 動き出す準備。それは今にも僕をさらってしまいそうな雰囲気が漂っている。


「皆本」

「なに?」

「……いや、次は淡水魚が観たいなって」

「ああ。うん、分かったよ」


 シズとの今後も大事だけど、この水族館観覧も同じように大事だから、ひとまず魚たちを一緒に触れ合うことを優先した。


 そのあと僕とシズは、淡水魚エリアでまったりとトサキンなどを中心に眺め、遅めの昼食では、ここで魚を食べたくないというシズに倣いサラダとチキンを注文。


 近くのお土産コーナーで悩みに悩んだ末に、シズはサメのキーホルダーとぬいぐるみ、ワッフルクッキーを購入していた。

 僕は同様のキーホルダーにボールペン、家族用に魚型のサブレを購入する。


 最後にショーイベントの会場と繋がる一階の水槽へと赴き、再びイルカたちと対面し、余すことなく堪能し尽くした。


 けれど日替わりで異なるショーイベントや体調不良で展示されていない小魚、これから増設予定のエリアなど、別日だと違った魅力に出逢えるらしく、また訪れたくなってなる。


「あっという間だったね」

「……うん」


 火照る夕空の下のコンクリート。

 大袈裟に翻る人影ともう一つ。僕の足裏から伸びる、木偶でくぼうでしかない分身。


 入館ゲートは段々と遠退とおのいて行き、待ち合わせの樹木に心の中で手を振る。

 そうして平坦な歩道を辿り、僕とシズ、それぞれの家の中間地点にまで着く。

 お互いに殆ど話せずじまいだった。


「分かれ道だね」

「あ……」


 そう言ってシズは、自身が住むマンションの方角へ一歩踏み出し、僕に断りを入れる。往来おうらいが皆無の細い丁字路。なんてことのない、歩道の延長線上にある順路。


「……私が家まで帰れないと思ってる?」

「えっ?」

「流石にここからの道のりくらい私分かるよ。大丈夫」

「いや、そうじゃなくて——」


 僕の身勝手な決意は結局、有耶無耶うやむやになったままだ。


 シズは敢えて聞かなかったフリをしているかのようにも思える。その方が、今後のことを憂慮しても平和的だろう。


「——皆本も早く帰ってそのお土産、お父さんとお母さんに渡してあげなよ」

「……うん」


 まだ、未練が残る。建前でシズと精神的な距離を置かれている気がしてならない。


「「…………」」


 否定したかったのならもっと、僕を拒絶して欲しいと思ってしまった。 


 小学生の頃から付きまとう寄生虫。

 面白い事もろくに言えない馬鹿。

 実は一緒にいて、ちっとも楽しくなかった。


 それらに近いことを言われても仕方ない。

 これら全て、思い当たる節しかない。

 シズが僕といるメリットなんて、最初から何も無かったんだから。


「……」


 シズは沈黙したままに、歩き出してしまう。茜さす背格好は、毛先と紙袋を左右に揺らしながら帰路へと向かい去って行く。


 退院明けだから送ると言えば良かったかも知れない。口実としては、異論ない。


 でもシズが僕に気を遣われることを後ろめたく感じてしまいそうで、このまま黙って見送ろうとした……確かにそのつもりだった。


「……皆本? いきなり手を掴まれると私、ビックリするよ」

「……ごめんシズ。でも、もう少し話したかったから……いや、ごめん」


 僕はシズを見送らずに、後ろから反射的に手を掴んで止めてしまった。


 名前を呼んで止めようとしたら、声が出なかったり吃ったりしそうな気がした。

 だから驚かせるつもりは微塵もなかった。

 一つの行動で二回も誤ってしまう。


 でも。僕がそうしたのは、シズがこのまま逢ってくれなくなるような妄想が過ぎった。理由は単純明快、シズが黙って帰って行こうとしたこと。


 そう、黙ってだ。

『またね』と、シズは言ってくれなかった。


「……私の手、冷たいでしょ?」

「えっ……」

「冷え性で誤魔化してきたけど、まるでもう、死んじゃったみたいな手。血流が上手く活動してくれないんだよね」

「そんな……」


 シズは振り返らず、ゆっくりと言葉を紡いで、僕に伝えてくれている。


「皆本はいつの間にか察しが良くなって来てたね。昔は全然気付きもしなかったのに」

「そう、かな?」

「うん。今日だって悟らせるつもりなかったのに、嘘まで吐いてさ。もうとっくに膝は痛くないよね?」

「……ううん、寒い時期だとまだ痺れるから、全部がぜんぶ嘘じゃないよ」


 シズの頭部が一瞬、前のめりになる。

 多分苦笑いをした反動だと思う。


「私が退院する時。いつものお医者さんと、お父さんお母さん、看護師長が迎えてくれたんだよね」

「……うん」

「……その時点で違和感はあったよ。どうしてかいつも、支度を手伝ってくれる葵さんがいないんだもん」

「あ……」


 田宮さんがいない理由を知っている。

 というより、その原因が僕のせいだから、知らないで済まされるはずがない。


「私が別の看護師さんに訊いても誰も教えてくれなくて、代わりに他の子に訊いてみたら休職中らしいんだ」

「うん」


 それは一応、僕にも看護師長の佐藤さんから伝え聴いている。この裁決は僕と田宮さんを責めるものじゃ無いと。


 ただ。図らずも騒ぎを大きくしたこと、田宮さんが一人の患者さんに干渉し過ぎる傾向に昔からあったこと。それらを加味した上での一時休暇、すぐに看護師さんとして復帰も出来る処置らしい。


「……それってさ。葵さんの休職に私が関わってるってことにならないかな?」

「……」

「察しが良くなった皆本は、何か知ってるんじゃないの?」

「いや、その——」


 僕は正直に答えようか迷っていると、シズが言葉を重ねて遮る。


「——そもそも。その退院自体が私の想定と全然違う……普通ならもっと時間が掛かるはずなんだよ」

「……」

「昔さ、皆本にも言ったことあるよね?」

「うん」


 僕がこうして立ち歩けるようになったときに、小学生のシズが神妙に豪語していた。


「私は退院時期が判るんだよ。おおよその理由まで含めて、ね」

「……そう」

「私自身のことなんて尚更、間違える訳が無いんだよ」

「……」


 刹那の静寂は不穏の前触れ。


「ねえ……私にはあと何日残ってる?」

「あ……」

「誰も教えてくれないからさ、ずっと答え合わせが出来ないんだよね……」

「……」


 シズは多分、眩むような顔色をする。

 やはりもう、全てを把握している。


 僕が思わず俯こうとしたそのとき、シズが振り返り、張り付いた笑みが無情に映った。


「……まあいいか、いずれ分かるだろうし。

 それよりも皆本。私に言ってくれたこと、いつか他の子に伝えてあげたらどうかな?」

「他の子——」

「——うん。綺麗事じゃなくて、気持ちが凄く込められてるから。あっでも全く同じはダメだよ」


 シズの言いたいことは、多分正論だ。

 僕なんかの幸せな将来を考え、もしもの災いを憂いて、お墨付きまで貰い受ける。

 こんなに見通してくれる人は、今後現れることはないと思う、でも——。


「——僕は、シズじゃないと嫌だよ」

「……」


 その未来には、シズがどこにもいない。

 僕が一番側に居たい人が、右を向いても、左を向いても、振り返っても、しばらく探し回っても、きっと胸の内にもいない。


 それは子どもの頃から追い焦がれて、最後まで共に連れ添うと誓った人を裏切り、諦めた世界線だ——。


 ——これで僕が、幸せになれるらしい。


「……っ」


 だとしたら冗談じゃない。願い下げだ。

 シズの犠牲で手に入る幸せなんて、僕は要らない、欲しくない。


「……僕の勘違いかも知れないけど……今日このまま別れると、ダメな気がして——」

「……」


 シズは何も言ってくれない。


「——あとさっき言った誰か。やっぱり僕はシズしか考えられないんだけど……」

「……」


 シズが何も言ってくれない。


「せめて。何で僕が幸せになれないか、シズから教えてくれないと納得出来ない——」

「……」


 だんまりを決め込むシズの左手を強く握ってしまう。すぐに加減を緩めたけど、赤みを帯びているかもしれない。


 でも同時に、シズが僕の手を振り解く気が全くないことも分かってしまう。指先が触れ合っているだけで、逃げようと思えばいつでもそう出来る……なのに、しない。


「——シズの気持ちが知りたいんだ」

「……」


 ただただ純粋に、いつも思う。


「僕が嫌なら、気持ち悪いなら、付き纏って欲しくないとかなら仕方ない……でもあの言い方だと、諦め切れないよ。なんで僕のことを誰よりも慮ってくれるのに、優しく離れようとするの……」

「……」


 もう僕がシズに駄々だだねているだけだ。


「正直、結婚しなくてもいい。恋人じゃなくてもいい。友達じゃなくてもいい。僕は……シズと今日、明日、またいつか、少しでも多く一緒に連れ添う時間が欲しい。

 そのための言い訳を探し続けてる……今も、昔もそうかも」


 僕のみっともない言葉が、シズにどれくらい伝わっているか分からない。表情が読み取れないくらい、視界が滲み霞んでいる。


「だから、嫌いならそう言って欲しい」

「……」

「いくら僕の察しが良くなっても、シズが拒む大体の心当たりがあったとしても……シズから聴けないと、僕から離れる理由が何もなくて……困るよ」

「……」


 出任せの単語を繋いだだけで、整合性が取れているかも不明だ。珍しく喋り過ぎて、喉元の筋肉が悲鳴を上げて渇いている。


 乱反射の向こうに佇むシズを、逆に困らせてしまっているかもしれない。でも……つまらないかもだけど、あと一言だけ。


「……一方的に話すのって、かなり疲れるね。僕はシズに助けられて、ばかりだよ」

「……」


 平然とシズがやってのけるから、もっと簡単なことだと思っていた。記憶を呼び起こせば楽しそうに話すシズの姿が脳裏に写る。


 彩られた日常風景。

 僕にはもう、身に余る幸せが過去にある。


「……私は——」


 シズが重い口を開く。


「——皆本を助けたつもりはないよ」

「……うん」

「普通にお喋りしてただけだもん」

「……特別だったよ」


 相変わらず気の利いたことを言えない。

 そんな僕と長話をしてくれる人なんて、限られる。


「一方的に話してた自覚は、あんまりないんだよね」

「そう……」

「うん。なんか自然とそうなってる」

「……」


 胸が騒ついている。

 この高揚をシズには隠しておきたい。


「……私が皆本を嫌ってる訳が無いよ。もう無我夢中だもん」

「うん」


 シズの答えを、一瞬だけ噛み締める。


「だからこそ、距離を置こうと思った」

「……」

「皆本の誕生日を最後に、家に引き籠ろうかなって——」

「——なんで、そうなるの」


 食い気味に被せてしまう。そんなことを、少なくとも僕は望んでいない。


 だんだんと冷静さを取り戻せてきた。

 シズの表情がゆっくりと捉えられる。


「……それが一番、誰も傷付かないから」

「いや——」


 否定しようとすると、遮られてしまう。痩せ我慢な笑みを浮かべる、優しいシズに。


「——私が皆本と一緒に居ちゃうと……この身体を受け入れられなくなる」

「……っ」

「……幸せにしようと想った大切な人をさ、私の手で、苦しめたくない」

「……」


 夕暮れ前に起こる不可思議な暗転。

 旅客機か飛行船か、宇宙を彷徨う破片か星屑かは不明。なんらかの原因で陽光が遮られ、僕とシズがいる歩道路に影を落とす。


「その……——」


 シズには悪いけど、タイミングが良い。

 それらを踏まえた上で、日陰者の僕なりの考えを伝えやすくなった。


「——いいよ、苦しめても」

「……えっ?」


 一時の影隠れが無くなり、その暖色の反動に瞳孔が追い付かず、双眸を細める。

 僕は多分、おかしなことを言っている。


「傷付けられたって構わないよ」

「なにを言ってるの?」

「あと。シズの身体は予想外の動きをするから、出来れば見続けていたい……かな」

「そんな……——」


 シズが掠れた声を整え直し、首を振る。


「——皆本、変だよ。こんな誤魔化してばかりの身体なんて、誰も見たくないのに」

「……そんなことを言ったら、僕とシズが初めて逢ったときなんてどうするの? 両親以外の面会者はみんな目を背けたくらいの重傷なのに、シズは隣に居てくれたよ」


 思い返せば、医療関係者の人たちを除くと、平然と接してくれたのはシズくらいだ。


 両親も最初は、突然の出来事で憔悴していた気がする。当時はよく分かってなかった。


「だって皆本はちゃんと治ってるから——」

「——神経麻痺が残るかもしれないって言われたときだよ。つまりはあのまま歩けなくなってもおかしくないとき、寝そべるだけの僕に、シズが生きる意味を教えてくれた」


 無気力に天井を眺める僕は、将来を悲観することしか出来ずにいた。


 ただでさえ人付き合いと勉強が苦手なのに学校にも通えず、両親に辛い思いをさせて、沢山の人たちに迷惑を掛ける。


 毎日、胸が痛くて仕方が無かった。

 けれど僕には、一時的に忘れさせてくれる存在、シズが脈絡もなく現れる。


 他愛のない会話が心地良くて。

 突拍子のない行動が鮮烈で。

 同い年の女の子だとは信じられなくて。

 幾つ年齢を重ねても色褪せなくて。

 今日もまた、想像の斜め上を行く。


「……僕はシズに、抱えきれない幸せを貰ってるよ。返せなくてどうしようかなってくらい」

「……」


 苦笑いをしながらも、きっと僕は、シズという一人の人間に惹かれているんだと思う。


「だからシズさえ良ければこれからも一緒に居て、少しずつお返ししたいし、積み重ねられてもっと困るのも、それはそれで良い。

 あっ、もちろんシズの家族時間の方を優先した上で、だけど……」

「……皆本——」


 僕のシズへの想いはこれで全部じゃない。

 言葉にならない感情が必ずある。

 伝え忘れていることだってある。

 遠回しになってしまう意中もある。


 そんな堂々巡りの中、シズは僕を捉えた。

 冷んやりとした手の平が伝わってくる。


「——私と関わると不幸になるよ?」

「シズのいない幸せより、ずっといいよ」

「皆本の将来を壊しちゃうよ?」

「……もうシズのおかげで無茶苦茶だよ」


 否定的な意味じゃなくて、劇的に好転したということなんだけど、伝わってないかも。


「……おかげ?」

「うん。それだけ僕ら、長い付き合いをして来たってこと」

「なんか。良い意味に聴こえるね、それ」

「良い意味で言ってるから……シズが僕のこれからを掻き乱したところで、今までとそんなに変わらないよ」


 多分。苦しんだり傷付け合ったりを受け入れることだって、安易な幸福にも勝る信頼の証だと思う。


「……」


 シズの表情が柔らかくなった気がする。まるで、僕へ考慮することを辞めるように。


「私、結構わがままだよ?」

「……わがままなシズが良いんだよ」


 ようやく、手と手が通じあった。

 そのまま僕を掴んで、振り回して、どこへでも連れて行って欲しい。


 シズと誘えるための脚腰はこの年月で身に付けてきたつもりだから、大丈夫。


「……分かったっじゃあ、そうするっ!」

「うん」


 この笑顔は一生飽きない自信がある。

 子どもの頃からお馴染みの、屈託がないシズの微笑み。


「無理して皆本と離れようとしないよっ。じゃあ明日はあの辺にあるファミレスで、お昼ご飯を食べに行きたい」

「……随分と急だね」

「何気に行ったことなくて」

「そう……分かった。寝て起きてすぐ、十時半ぐらいには迎えに行くよ」


 二つの家を繋ぐ道のり。

 未知のトンネル。

 到達不可能の山頂。

 シズが指し示す場所ならどこでもいい。


 楽しいことばかりじゃないと思う。

 怒られたら、一緒に謝ろう。

 もし譲れないのなら、僕も加勢する。

 これまでのよしみ、付き添う準備なんていつでも出来ている。


「あっその……結婚とかも言ってたよね?」

「……えっと。本当にするかどうかじゃなくて、僕から離れるつもりはないってことをシズに知って欲しかったというか、証明したくなったというか——」


 掘り返されて、たじろいでしまう。

 こういう肝心な所で、言い訳がましくなるのが悔やまれる。早口なのもマイナスだ。


 素直に誰よりも心惹かれる人だと。

 そう口が滑ってしまえばいいのに。

 もっと直接的な表現があるはずなのに。

 どうしてか自制が働く。


「——どんな理由だとしても、私は嬉しかったよ。だってそれ、言いたくても簡単に言えないことだと思うし」

「嬉しい……」

「もちろんっ! 皆本からだもん……先越されたって思っちゃった」

「え、先……——」


 僕がそう言い淀むと、シズは照れくさそうに頰を指先で撫でている。


「——シズ?」

「……んーだって私には、他にいないし」


 シズがぼんやりと呟く。


「いやいや。結構色んな人と仲良く出来るから、そんなことはないんじゃ——」

「——あとは入院中、わざわざ逢いに来てくれる皆本に、私が惹かれない訳がないでしょ……悶々とするんだよ?」

「……」


 閑寂の街灯が点滅する。

 微風が毛先と衣服を撫でる。

 粛々と夜の帳が下りようとしていた。


「皆本が変な顔してる」

「……灯りのせいじゃない?」

「ふーん……」

「……」


 僕は、今の僕を巧く把握していない。

 後から振り返れば分かることだけど、きっと動揺していて、どうにかなっていた。


「念の為に確認だけどさ、お互いの気持ちは同じってことで良いよね?」

「うん」


 シズがそう訊ねて、僕は反射的に頷く。


「若いうちだと批判されるかもしれないけど、いい?」

「……そんなことをする知り合いが少ないから、問題ないよ」

「しかも、病人とだし」

「病人じゃなくてシズと、だね」


 同情なんかじゃないことを、他人に伝えるのは難しい。それでも僕はシズと居たいと言い続けるつもりだ。


「将来的な再婚も難しくなるかも」

「そんな相手いないよ」

「……私の身体的に子どもはほぼ無理だよ」

「……うん」


 シズが生き続ける為の選択をした副産物。

 そんな悲しい表情で告げることなんて、何一つない。


「私が奇跡的に長生きしちゃったとしても、皆本に負担を強いることになる」

「……長生きは素直に嬉しく思うよ」

「……いつでも私を見捨てていいからね?」

「……」


 僕は何も言わずに首を振る。

 返事なんてせずとも、もう明らかだ。

 そんなことをする訳がない。


「そっか、そっか——」


 どうやらシズも、慮ってくれたみたいだ。


「——あっえっちょっと……」


 刹那。繋がっていた手と手が大きく波打つように、上下に揺さぶられる。

 僕が何もしていないから、眼前で見据えてくるシズが行なっている。


「え……?」

「契約交渉成立」

「なんか急に凄い堅苦しいけど……」

「……ごめん皆本。なんか私、今止まっていられない……一生叶わないと思ってたことが叶うと、こうなっちゃうみたいっ!」


 シズは僕の手を激しく揺さぶり続けた。もう時期十八歳を迎える女の子とは思えないくらいあどけない、最上級の笑みと踊る。


 落ち着くまで暫く掛かりそうだ。でも、このまま振り回されるのも悪くない。


「そうだっ! 皆本家に許可を取りに行こうか、今から」

「ああ……え、今から?」

「うん。私のせいで反対されると思うけど、こればかりは押し切ってみせる」

「……分かった、僕もやる」


 結婚という形式にこだわっていなかったのは本当だ。これからもシズと居たいが為の口実のようなものだった。


 でも今は違う。シズの願いの一つを叶えることに変わったから。


 そして僕自身が密かに思い描いていた。六月の僕の誕生日に告げ、同じく六月で少し後のシズの誕生日に実を結びたいという理想を本気で叶えようとした瞬間にも変わる。


 ジューンブライドにも影響されたかもしれないけど、それも奇縁。

 あとは単純に、シズを花嫁にしたい。


「ほらほら、早く行こう」

「うん」


 薄暗い通路を急ぎ足で進んでいく。

 そういえば、シズが僕の家にくるのも久々だ。いや敢えて子供っぽい表現をしよう。


 これからシズが、僕の家に遊びに来る。


         ▽


 シズの誕生日の前日。僕はファイルを手に、小児科病棟の玄関口付近の木陰に居る。


 現在。シズは退院しているからいないし、定期検査に付き添い待っている訳でもない。多分今頃、両親との大切な一時を過ごしている。


「……笹伸」

「……っ」


 その声を聴くとすぐ、僕は頭を下げる。

 弁解の余地も無いと一言も発さず。


「……笹伸が謝らなくてもいい。今回のことは全面的に私の方に非があるから、ごめんなさい」


 僕以上に深々頭を下げているのが伝わる。


「……」


 少し上向いてその姿を見据える。

 そこには看護職に無事復帰したばかり田宮さんが、申し訳なさそうにしている。


「止めてください田宮さん……忠告して頂いたのに、結局僕は言う事を聴いていません」

「……」


 それから暫くして、田宮さんと対面する。

 痩せ細ったり、やつれた様子がない相変わらずな姿に僕は胸を撫で下ろす。


「……私は笹伸の気持ち、そしてシズ気持ちを考えずに引き離そうとしたんだよ?」

「それは違います。僕とシズの事を誰よりも慮ってくれたからです——」


 頭が冷えた今なら、少し分かる。

 もし田宮さんが突き付けてくれなかったら、きっと何かに目を背けたままその時を迎え、僕は一生苛まれ続けていたと思う。


「——改めて、シズと一緒に過ごしていく覚悟が出来ました」

「……そう」

「シズは……いや僕もですね。良い看護師さんに恵まれたと思います」

「……私はまだ未熟だよ。そんなことを言われる資格もない」


 田宮さんは謙遜するけど、僕の感謝の気持ちは今後変わらない。


 色々話したいことが山ほどあるけど、勤務中の休憩時間を割いて来てくれているから、手短に伝えよう。


「それで一つ、田宮さんにお願いしたいんですけど——」

「——お願い?」


 僕はファイルの中にある一枚の紙を差し出す。


「これ……」

「はい、婚姻届です」


 僕とシズ。そして双方の両親の同意を得て、必要事項が殆ど記された届出。

 

 でも一箇所だけ、埋まっていない。


「嘘……いや、なんで私に?」


 当然の疑問だ。結婚がしたいだけなら、渡す必要はない。でも僕とシズにはある。


「それ、証人の欄が空白なんです」

「うん」

「田宮さんさえ良ければ、証人になって貰えませんか?」

「なんで、私なの?」


 僕を見据え、動じながら訊ねる。こうしようと思った理由は、割とありふれたものかもしれない。だからこそ、田宮さんが良い。


「僕とシズを最初に惹き合わせたのは、田宮さんです」

「……っ!」

「……おかげで僕は、大切な人シズに出逢えました」


 再び僕は頭を下げる。今度は、子どもの頃からの感謝を含めて。

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