第6話 約束
テーブルに週間漫画雑誌を置いて、左手だけを使いページを
背表紙に白い縦線が出来てしまうのは忍びないけど、基本的にベッドの上での生活を
物語が進行し過ぎて話がよくわからないが、日本一の発行部数を誇る山賊バトル漫画を閲読している。
「あれ? ここで合ってるの?」
「うん!」
僕はその声に気が付いて、既に開かれている扉の方角へと目を細めながら見守る。
そうしてすぐ、猫背気味の多江さんと、その背中に乗っかっているシズがゆっくり現れる。
「お邪魔します」
「あっ皆本ー、何読んでいるのー?」
シズが多江さんの背中から飛び降りて、僕のいる方へ駆け寄り、雑誌を覗き込む。
「えっと……どういう状態ですか?」
僕は腰を叩いている多江さんに訊ねる。
「途中でシズに捕まってね。
検査帰りで疲れたからおんぶして欲しいって言われて。でもまさか別館まで運ばされるとは思わなかったけど」
肩甲骨周りを解しながら、多江さんは自虐的に苦笑しつつシズを眺めている。
今日のシズは、襟首で結び分けたローツインテールにしている。
小さな背中にはナイロン製で淡い
「どうしたの、それ?」
シズが背負っているリュックサックを指摘しながら訊ねる。
「ああこれ? ずっと仕舞ってあって勿体ないから使ってるんだ。あとね、皆本——」
シズは身体を左右に揺らして、ついでに二つの尻尾もうねっている。
いつも以上にシズの心が弾んでいるのが伝わってくる。
「——これから、お庭に行きませんかっ?」
混じり気のない瞳で、シズは僕に提案してくれる。それは度々降りかかる僕の屈託を、洗浄してくれるような視線だった。
けれどすぐに了承は出来ない。
「うん。行ってはみたいんだけど、まず看護師さんに聞いてみないと。僕一人じゃ車椅子にも乗れないから」
「それなら大丈夫だよっ」
威勢よく背筋を張り伸ばしたシズが、両手を広げて言う。僕が首を傾げていると多江さんが補足してくれた。
「ここに来る前、シズと私が相談して許可も貰ったから。多分、もうすぐしたら看護師さん達が来てくれるよ」
「そうですか……」
「おんぶされながら交渉してきたよ!」
シズはテーブルに頬杖をついて、雑誌から目を離している僕の隣で
その束ねた髪が左手を撫でていて、少しだけくすぐったい。
「ほんと……シズがいると自然と色んな人が集まってくるからね。普段あんまり他人と喋らないから、ちょっと疲れた」
「大変ですね」
「これでも一応、慣れてきた方なんだけどね」
多江さんはそう言い残すと、僕の病室から足早に去ろうとする。
「帰っちゃうんですか?」
「うん。シズを連れてきただけで、元々ここに来る予定はなかったし。看護師さんが来ると私は邪魔になるだけだし。
それになりより、二人の輪に割り込むほど、私も野暮じゃないよ」
なにやら含みのある言動で、生暖かい視線を送っている。どことなく年長者の余裕ある雰囲気を
その後、多江さんはシズの格好を見て眉間に
「シズー? これから外へ行くのに寒くないの?」
多江さんがベージュのカーディガンの襟元を
「ん? 寒いよー。でも、走り回っていたら温もるから大丈夫」
「それじゃ体調崩すかもでしょ。
そもそも体力だって、まだ完全には戻ってないはずよね? あんまり無理しないの」
撫で肩をさらに
「カーディガン、貸そうか? 少しは暖かくなるはずだから」
「でもそれいつも着てるやつでしょ?」
「最近買った予備があるから別にいいよ。
そういえば、前にこれ着たがってたじゃん。
あの時は私が寒いから断ったけど……」
「多江ちゃんがいいなら、着たい!」
「はいはい」
シズはリュックサックを下ろしてから、大股三歩進んで多江さんの前まで行くと、その場で半回転している。
衣が擦れ落ちていく。
カーディガンを脱いだ多江さんは、一度だけ
覆い被さるそれに、シズは袖を通していく。
「おお……」
シズが感嘆を上げながら、余り袖をまるでパペットを扱うかのように揺らしている。
カーディガンに膝丈まで包まれていて、身体が温まりそうではあるけど、行動力は削がれてしまいそうだ。
「やっぱり大き過ぎるか」
「でも、このまま踊ったりしたらお祭りみたいだよ。ほら!」
両手を広げたまま煌びやかに回転する。
するとシズにとって余分な箇所が、遠心力によってウィングスパンが長くなり、その水平線が風を切ってうねる。
院内の踊り子は爪先立ちをして、
「ねっ!」
「た、確かに……」
「
まあ、気に入ってくれてるなら良かった」
「うん。多分、私がもう少し背が伸びたら似合うと思うんだけどなー」
「……なら、それあげようか?」
シズは目を丸くして、多江さんに聞き返す。
「なんで?」
「いや、なんでって言われてもね……。
新しく買ったこともあるけど……あまり着る頻度が少なくなりそうだからかな?
それなら将来的にかも知れないけど、シズに貰って、着てくれたほうが幸せかなって」
「あー……」
シズは何やら心当たりがあるみたいだ。
そうしてお互いに見つめ合い、そのアイコンタクトで再度確かめている。
「そーいうことなら、うん! 大切に保管するね!」
「いや着てよ。糸がほつれたり、縮こまるまでさ。あっでも、その方が今のシズには丁度いいのかもね?」
多江さんが悪戯な笑みを浮かべる。
シズもお返しと同様の表情をしている。
「……身長抜かされても知らないからね?
私、今が成長期なんだからっ」
そう言ってシズはその場で飛び跳ねている。
多江さんに追いつこうと、そして越そうとする意思がそこにあった。
「成長期か……。私的には今のちっちゃいシズでも可愛くて良いんだけどね。——笹伸くん的にはどうかな?」
「えっ僕?」
いきなり話を振られて、動揺しながら間抜けた声で返してしまう。
多江さんに倣い、シズも僕を見据える。
その儚げな仕草が僕の内心に
「その……。今も勿論良いですけど、個人的には大人になったシズも見てみたいなと思います」
僕が言い終えると、多江さんがシズの死角から両頬を押さえて揉み込んでいる。
「だって。良かったね、シズ」
「ふにょょもぉ」
上手く発声が出来ずじたばたしているシズを
「二人がこのままいけば……いや、それは高望みかな? まだ若いしね。でも……ね、うん」
多江さんはそう呟くとシズを解放して、弾むように後退する。
「もうっ! ほっぺたが紅くなるじゃん!」
「なってるよ?」
「えっ!?」
「うそ嘘、冗談だよ」
再び扉の方へと向かう多江さん。
頬を余り袖で押さえているシズが取り残されて、僕はその珍しいシズの姿を瞳に焼き付けていた。
「時間も経ったしそろそろ行くね?
あ、シズ。それ、まだ大きいだけで私は似合ってると思うよ」
「そう?」
「うん。お庭に行くと更に映えそうだしね。じゃあ、またあとでねシズ」
「ここまで運んでくれてありがとね」
シズが余る袖を振る。
微笑みながら多江さんもそれに応えた。
そうして僕にも視線を向けてくれる。
「笹伸くんも、シズのことよろしくね」
「は、はい」
「二人とも無茶して怪我をしないようにね」
「はいっ!」
「わかりました」
多江さんが病室を去った後も、シズは暫くその後ろ背を見送っていた。
扉から顔を覗かせてまでそうしていたから、僕が想定した以上に別れを惜しんでいるのかもしれない。
「シズ……?」
「えっ? あ、まだ看護師さんは来そうにないねー。忙しいのかな?」
シズはわざとらしくそう言い、再び僕の隣に寄る。
それから僕とシズは、一緒に漫画雑誌を眺めながら看護師さんが来るのを待機していた。
シズのお勧めは、心優しい
そして僕の隣で詠唱を語り、袖を
その数分後、看護師さん二人が来て僕は車椅子へと運ばれていく。
僕も念の為、羽織りのジャケットを用意した。
シズは地面に置いていたリュックサックを背負い、意気揚々としている。
冬季に差し掛かったこともあってか、突発的な向かい風を受けただけで身震いして、上体が収縮するように少し屈む。
整備された平面道路を広大な青草が引き立てていて、その道路を辿ると庭園の中央地点にある木製テーブルが二つ現れる。
シズは迷わず左側を選択する。
シズが四つ備えられている丸太椅子の一つに座り、僕はその椅子がない、木製テーブルの側面に配置してもらって停止する。
当然、シズが座る席に近い所だ。
周囲には他に
本来ならばここを散歩している患者さんも多くいるらしいけど、寒気を嫌ってか否か、通行している人すら稀な状態だ。
僕の代わりにここまで運転してくれた看護師さんは、他の患者さんに寄り添うため病棟へ戻っていった。
それは僕の経過が良好であるか、もしくは信頼を示している証かもしれない。
「ふっふっふっ! 私、ちょっぴり大人っぽくない?」
「うん。でも多江さんにはまだ劣るかな?」
「そうだよね。多江ちゃんが退院するまでに追い付きたいんだけどね」
「えっ? 退院するんだ?」
僕は驚きの声を上げた。
シズは頷くと、いつになく殊勝な赴きで話す。
「まだ正式にではないけど、ここ最近の症状を見れば大体はね。
皆本も感じたかもだけど、今の多江ちゃん、何で入院しているのかわからないくらい快方に進んでいるから」
「……そう、だね」
例えば今日、多江さんが入院着ではなかったとしたらきっと、患者さんだとは絶対に思わなかったはずだ。
「それ自体は凄く嬉しいことなんだよ。
でも、なかなか会うのは難しくなっちゃうんだよね」
「うん……」
それは同じ病院の入院患者という共通事項があるからこそ、成立する関係だ。
片方が退院すると、その切っ掛けが一つなくなってしまう。
僕とシズもいずれ、そうなるのかもしれない。
「ここに帰ってくることもあるけど、それを喜ぶのは違うじゃない?
帰ってくるのは大抵、そういうことだから」
「……」
僕は何も答えられず、ただ黙している。
そういうことというのは、病状が再度悪化することを指している。
当然、喜ばしく思うのは不謹慎だ。
そんな雰囲気を払拭するように、シズは左手を太陽に向け差し出している。
「だからね、退院する子にはまた逢おうねって伝えて、……帰ってきちゃった子にはまた一緒に遊べるねって言うの」
シズは晴天を仰ぎながら、快晴の肌寒い空気と日光を浴びている。
僕はその姿を恍惚と眺めていた。
すると、シズのお腹から空腹を告げる窮屈な音が聴こえて、戯けて僕も引き戻される。
「あはは。ちょっと早いかもだけどご飯にしようか?」
「うん……」
丁度僕の左隣に居るシズは、リュックサックを木製テーブルの上に置いて一息つく。
その後ジッパーを外して、烏龍茶が入ったペットボトルと紙コップ二つ、そして風呂敷に包まれた箱を手繰り出していた。
「ちょっと待って、先にお茶淹れるから」
「それくらいなら僕が——」
「——いい、今日は全部私に任せといてよ」
シズは二つの紙コップに烏龍茶を八分目までそれぞれ注ぎ、そのうち一つを僕の左手の前に差し出した。
そのあとに風呂敷の蝶結びを解くと、中から二段階層の弁当箱が露わになる。
その色に形状は僕が良く知る物だった。
「あの、もしかしてこれって——」
僕はその中身が何かおおよそ分かってはいたけど、敢えて口を噤んだ。
「……」
シズはサプライズが好きな子だ。
だから僕は、シズのそんな展開を楽しみに待つことにした。
「そう、お弁当箱です!
但し、これっくらいの何の変哲もないお弁当箱だけど、中身は変哲です……そういえば変哲ってなに? んー、まあいいや。
それじゃあ蓋を開けるまで三、二、一! ……はいっ!」
カウントダウンとは裏腹に、随分ともたつきながらシズは蓋を取り上げる。
その中身を、見なくても僕は良く知っている。
きっと、いつもよりも余分に卵を使用して、醤油とみりんがそれぞれ少々、牛乳も隠し味程度に入れて掻き混ぜたんだと想像する。
サラダ油を敷いて熱を帯びたフライパンに投入し、加熱強度を緩めて、焦げ付かないよう慎重に時間を使って作る。
大体はそれと並行して、お味噌汁の具材を切っていたり、漬け物を添えたりしているのをよく見ていた。
そのせいでごく稀に失敗する事もあるけど、それすらも僕の記憶に残っている。
欲しいものは何かと訊かれてそれを答えたのは、変わらない味で美味しいという感覚と、焦がしても顔を合わせて苦笑いをする両親が同時に、思い描けたせいかもしれない。
あと今回に限ってのそれは、僕と同い年の女の子が、なけなしの三百円を
「じゃーん! 皆本家特製の卵焼き!」
「おー、いつもよりも大きい……」
弁当箱の二階層が全て、
食べやすいようにする切り込みがあり、プラスチックの串が二本付属している。
「この前ね、皆本のお父さんとお母さんに会ったんだー。看護師さんにも確認して、待合室に座っているときに話し掛けてみたの。
最初はやっぱり『どこの子?』みたいな顔をされたけど、皆本のことを話したら信じてくれたよ!」
「……僕のこと?」
預かり知らない所で僕の話題になる姿があまり想像し
「うん! 食べ物の好き嫌いが殆どないとか、眠っているときの姿勢が綺麗だとか、入院生活に対する順応が早いとかね」
「自覚はないけど」
どちらかというと身動きが叶わなくて、諦めていただけな気がする。
「凄いことだよ! お父さんとお母さんがいないとホームシックになる子もいるんだよね。……私も最初はそうだったから」
シズが頬を
いつから通院、入院をしているかなんて僕が知る
「そうなんだ……。それで父さんと母さんはなんて言ってた?」
「『だろうな』って、にっこりしてた!」
「ああ、それはなんか目に浮かぶ……」
多分、父さんが言ったんだと確信する。
「それでね、皆本家の卵焼きを買いたいって私が言ったら戸惑ってたけど、皆本が食べたがってたって言い直したら、お母さんが今日ならいいよって。
それがこれ! 今日、皆本へのお見舞いの帰りにわざわざ小児科まで来てくれて渡してくれたの。あ、三百円も払ったから安心して」
シズが僕に出来事を語りながら、丸太椅子の周辺を歩き回っている。
きっと胸が弾んでいて、行動していないとシズの感情の起伏に追い付いてくれないのかもしれない。
「さあ皆本! たべて食べて!」
「それじゃあ——」
僕は左手でプラスチック製の串を摘んで、その卵焼きを持ち上げて、落としてしまわないように、自然と逆手を受け皿にしようとする。
そこで右腕が固定されていて微動しかしないことに僕は気が付く。
「あっ、はいっ!」
「……ごめん」
「いえいえ」
シズはそれを悟り、僕の右腕の代わりに平手を差し出してくれる。ついでにさりげなく弁当箱も近づけてくれてもいた。
その謝罪と言葉は、こんな僕に付き添ってくれたシズに対してのささやかなものだった。
「——いただきます」
僕は卵焼きを一口で頬張る。
ひとたび噛むと、その柔らかさを重ねた弾力から少しだけ未熟な卵が滴る。
そこに醤油の
家を離れてまだそれほど経過してはいないけれど、感慨無量な気持ちが体内を巡る。
「家の味だ……」
思わず溢れてしまった台詞だ。
そして喉元を過ぎていってしまうことがこの上なく惜しい。
僕の感情が色々と交錯していると、直ぐにシズが助け舟を出してくれる。
「皆本、まだまだあるよ!」
「……もう一個いいかな?」
「うん!」
天邪鬼な返答だったかもしれない。
でも僕は、ただ美味しいという感想だけじゃ表現として物足りない気がする。
こんなにも僕の思いが詰まっている卵焼きは、生まれて初めてだったからだ。
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