第5話 秘密
左手の捻挫《ねんざ》が完治して、食事の補助がなくなる。
そうして扱いきれなかった
看護師さんが寄り添うことが条件ではあったが、無地の内壁を眺めてばかりだと呆けてしまうので、すぐにそれを希望した。
幸いなことに、この病院の看護師さんで一番僕が認識している田宮さんも対応してくれるらしく、緊張が緩和される。
「あとは両脚をそれぞれ固定してっと……。
よしっ、準備できた。痛いところとかないかな?」
「……はい、大丈夫です」
上体を起こすだけでも
着実に治癒していることを実感する。
まだ両脚をどうすることもできないし、右腕もアームホルダーで固定していないといけない。
けれどそう思えることがなにより、心の安らぎになる。
「じゃあ小児科病棟へしゅっぱーつ!」
「シズ、他の方に迷惑でしょ。あとベッドを直してからね」
「はいっ! そうだ葵さん、室外の通路、特に異常ありません!」
「はいはい、了解しました隊員どの?」
突然の寸劇が始まる。
息を合わせたように開演したから、二人にとってそんなに珍しいことではないようだ。
「ちがうよ、ここは『ううむ、敵国は血迷ったか』って言うの」
「またドラマの影響? 前とはジャンルが違うみたいだけど」
田宮さんが僕のベッドの布団を整理しながら訊ねる。
「えっ? 前と同じドラマだよ?」
「嘘。どういう展開なのよ、ますます気になるんだけど。いつ放送してるの?」
「うーん夕方くらいにやってたけど、一昨日に終わっちゃったよ?」
今から視聴出来るかは不明だと首を傾げている。
「そっか。一応昔の新聞探してみるけど……タイトルとか、何か情報はない?」
「タイトルはなんか漢字がよくわからなかったけど……あっ、
「北見さん……ね。うん、覚えとく」
その人は確か、有名アイドルグループの一期生で、適当にテレビを
そんなよもやま話をしながら田宮さんは、ベッドを正し、ブレーキを外し、車椅子の手押しハンドルを持ちながら、僕に一言添える。
「笹伸くん、進むよ? 何か違和感があったら遠慮なく言ってね」
「わかりました」
「シズー。念のため私の後ろについてきて。伸ばしてる脚に当たると悪化するかもしれないから」
「はいっ!」
田宮さんがシズの動向を確認すると、車椅子が駆動していく。
僕が入院してからというもの、この一室から精密検査などの特別な用事でもないと、なかなか外出することが叶わなかった。
だからこうして、とりとめのない理由で病室とは異なる場所へ赴けることが、この上なく感慨無量だった。
これから僕らは、以前話題に上った小児科にある憩いの場へと向かう。
エレベーターで下降する以外は比較的平坦な道のりで、両脚や右腕への振動が少なく安堵する。
そんな最中、殆どの入院患者さんや先生が僕の後ろを歩いている黒髪ロングヘアーの少女となったシズに話しかけている。
「シズー、何処にいくのー?」
「小児科ー。みんなと遊んでくるー」
「おー、シズが髪伸ばしてるの珍しいね」
「そうなの。似合うでしょ」
「シズ、スキップなんてして嬉しそうだね」
「うん、身体もすこぶる良いから。
いまなら五十メートルを一秒で走れるかも」
行き交う人がシズと呼び、その全てに颯爽と応じている。
「シズ、凄い人気ですね」
「病室を抜け出しては色んな人と話しているみたいだからねー、下手をすると私よりも、患者さんや先生方のことを知ってるかもね」
周りの人の誰もが、シズの愛称で呼ぶ。
僕の病室へと遊びに来ているときも、扉が開いているとこうして、他の患者さんなどに話しかけられている所をよく目にする。
そうして僕も、自然とシズを愛称で呼ぶようになっていた。
正確にはシズではなくシヅなんだろうけど、呼び方が同じなことに加え、シズ本人もどちらでも良さそうなので、僕は最初に勘違いした方で押し通す。
それよりも、同級生に対して苗字以外を使ったのが久々で、初めてシズと呼んだときは知恵熱を出しそうなくらい脳内でシミュレーションを重ねながら
結局シズは、さも当たり前のようにそれを受け入れて、そのまま好きなアーティストやアイドルについて一方的に語っていた。
シズが僕のことを皆本と呼ぶから、なんだか僕の方が軽薄な人間になっている感覚があるけど、個人的にはこれで対等になれた気もしている。
耽りつつ僕が感心していると、車椅子の駆動が停止する。
訊ねようとする前にその理由がわかる。
「皆本ー、
「ちょっとシズ、うろうろしないの」
田宮さんが僕とシズに配慮して注意する、
「ごめんなさい。それでどう? いる?」
「えっ……と、迷惑にならないなら」
「じゃあはいっ! この中から好きな味を選んで」
ジズの両手には、個包装に入ったレモン飴や、双方が捻られた袋にあるいちご飴などで溢れていた。
主に果物系の飴が大半を占めているが、喉飴や金太郎飴もあり、よくみると飴ではないおかきもそこに混在している。
「……これ、かな?」
僕は身体に良さそうという理由で喉飴を選択した。たしか十種以上の成分を配合した製薬部門もある会社の商品だ。
「私は……の前に、葵さんは?」
「いやいや、私はいいよ勤務中だし」
「ふーん。ならいちご残しとくね」
シズは一時的に両手いっぱいの飴を、近くの座席に置いて、そのなかからいちご飴を摘んでポケットに仕舞う。
「あれ? 葵さんいちご好きだったよね? 仕事が終わったら渡すから」
「……好きだけど、そもそも子どもたちにって貰ったんじゃないの? 私が受け取ったら変だし悪いよ」
「じゃあ、私が貰った飴を葵さんにも食べてもらいたいの。だめ?」
「……」
散々遠慮を繰り返していた田宮さんだったけど、シズの言葉に折れてゆっくりと頷いた。
「良かったー。それじゃあ私はりんご飴ー」
シズは包装を開けてりんご飴を口に放ると、何故か天井に向けて拳を突き上げていた。
そして座席にある飴たちを両手で掬い取ると、僕と田宮さんを交互にみる。
「よし、行こう!」
「……それ
シズの手を俯瞰しながら田宮さんは憂う。
「大丈夫。ダメだったら私が全部食べるだけだから」
「大丈夫じゃないじゃん。落としたら言って、拾うから。そのときは車椅子を停めることになるから笹伸くんにも声掛けるね」
「はい……」
小児科病棟は現在地から直進して丁字路を左折すると、別館を繋ぐ風通しの良い通路が現れるので渡る。
そこから憩いの場までは一本道で、既にシズと田宮さんが小児科の子と思わしき人たちから声を掛けられており、シズが両手に敷き詰められた飴を見せびらかしていた。
「はーいみんなー! 靖子さんから飴ちゃん貰ったよー。
欲しい子は来てきて、でもまずは一人一個ね!」
シズがそう言うと、数人の子がその後ろを歩いて追っている様子だった。
そしてその場シズは立ち止まり、ひとり一人に飴を配って回っている。
「シズー、みんなに配るのは良いけど通路を塞がないようにねー」
「はーい!」
病棟の変哲のない通路が、ただの一声で瞬く間に微笑ましい
「振り返ることができないからわからないけど、とても盛り上がってますね」
「そうだね。先に憩いの場がどんなところかみにいこうか?」
「ですね」
僕と田宮さんはシズを置いて、一足先に憩いの場へと向かう。
途中、シズの元へと徒歩を進める子たちとすれ違う。
直線を抜けるとついに、僕は初めての憩いの場へと辿り着く。
「……へえ」
僕は思わず感嘆が漏れる。
ブロック積みや絵本などが散見されることから、ここに訪れる少し前まで、誰か遊んでいた形跡があると眺めてわかる。
「ここが憩いの場、主に小児科の子たちが集まって、遊んだり、対戦したり、観たり、寝転んでいたりしているスペース……なんだけど今は誰もいないね……」
僕の正面にはモニターがあって、そこに数年前に放送していた朝のドラマのロゴと太陽が映されたシーンで一時停止している。
そのモニターの左隣に本棚が並んであって、右隣にはおもちゃ箱が三つある。
中央にスポンジマットが敷かれていて、そこに先ほどのブロックや絵本の他に携帯ゲーム機や角に何も置かれていないリバーシなどが転がっている。
「これみんな戻ってくるよね? 取り敢えずそのままにしとこうか」
「なんか……僕が最近は
「部屋が綺麗なのは嫌なタイプ?」
「いえ。寧ろ整理整頓だけは良く出来ているって言われるくらいなので、そんなことはないと思います。
だから僕自身でも不思議な感情ですね」
僕はそれから、車椅子に座ったまま見渡せる範囲を捜索する。
田宮さんは誰も戻ってこないことを焦っているみたいだったけど、対人は緊張するからこれはこれで良い気もする。
すると僕の方へと近づく足音に勘付く。
スリッパが地面を叩き擦れる、乾燥したような音色だ。
「あれ? 葵さんと……その子だけ?」
僕の隣に、入院着にベージュのカーディガンを羽織り、その手に湯気が立ち上っているマグカップを持つ。朱色混ざる茶髪が太陽光の反射で際立つウルフカットの、僕からしたら一回り近く年上のお姉さんがそこにいる。
「みんな通路の方に行っちゃってね……」
「ああ……どうしてかじゃんけん大会をやってたけど、またシズがなんか始めたの?」
お姉さんはその一部を目撃したようで、マグカップを持たない手を開いたり閉じたりしている。
「もう……
「えーめんどくさいよ、これからドラマ観ようと思ってるのに。
葵さんが行けば良いじゃん。というか暫くしたら飽きて戻ってくるんじゃないの?」
「……じゃあシズたちを信じて待ってようか?」
「それがいいよ、怠いし」
多江と呼ばれた人はそう
「それより新しい子?」
僕をぼんやりと見下ろしながら訊ねる。
「ううん、整形外科の子だけどまだ九歳だから、私の所にも話がきてね。
それで、今日は折角だからここに連れてきてみたの。皆本 笹伸くんです」
僕は瞳を閉じながら会釈の代わりをする。
「皆本? ああ、シズがどっかに行ってここに帰ってきたらよく話題にしてくる子だ」
「そ、そうなんですか?」
「そうだよ。例えば……あ、こういうのは本人に言うのはよくないか。でもとても好意的で、微笑ましい内容だったから君のこと気になってたんだ」
「えっと……」
僕はどういうことかと困惑する。
「うん……言われても困るよね。
それにしてもこんなに小さい子だったんだ。てっきり私よりも年上の人だと思ってたんだけど」
そう言いながら、僕と目線を合わせるように屈んで、自嘲気味に口角が上がっている。
「笹伸くん、九歳って言ってたっけ? ならシズと同い年なのか……。ねえ葵さん、この子と私の部屋、変えた方がいいんじゃないの? 小児科の年齢層が若年化するし」
「そうだけど、多江の症状はここが最適だからねー」
多江さんの皮肉を田宮さんが
「でも私、もう十七だよ? 別の科に年下の子がいると流石に気にするよ」
「年齢制限はないっていつも言ってるのに。
……確かにそれを設けている病院もあるけど、小児特有の疾患なら、幾つになってもそれに対応するつもりなのがうちの病院だからね」
田宮さんなりの意見を述べると、僕の側で神妙に俯いているのがわかる。
高校生くらいの年齢で小児というのは、僕が思っている以上に違和感が生じるようだ。
「ただいまー!」
そこにシズが開口一番に通路から手を挙げながら出てきて、その後ろから十数人の子たちが
「あっ皆本ー……と、多江ちゃん?
何してるのー? 私もまぜて混ぜてー」
シズが多江さんの両肩に捕まり、張り付くようにして乗り掛かっている。
「シズ重いよ」
「だって成長期だもん」
「成長期にしてはまだまだ小さいね」
「ふっふっふっ。すぐに多江ちゃんを追い越して頭をポンポンしてあげるから」
二人が戯れていると、それを見ていた他の子たちも車椅子を包囲するようにして集まる。
そうして僕のことを窺う子たちを、田宮さんが一人ずつ紹介していく。
一通り子どもたちの名前を述べていき、最後に僕のことを端的に説明してくれた。
その後にこの小児科病棟のことを、掻い摘んで教えて貰う。
ここに居ない子も数えると、現在この小児科に入院している子は男の子が九人、女の子が七人で、ここ何年かは減少傾向にあると、どっち付かずの表情で話してくれる。
零歳から十七歳の子がおり、その中で僕と同い年なのはシズだけみたいだ。
そして小児科病棟を巡り、案内役を買ってでたシズが一室ずつ全て解説してくれる。
処置室、リネン室、倉庫、面談室、学習室、そして誰がどこの部屋なのか、事細かに上機嫌で教えてくれた。
最後にシズは自身の病室に僕を運ぶよう、田宮さんに要求した。
シズの病室は四○二号室で、そのベッドには僕の身長に匹敵するくらい、大きなぬいぐるみが身代わりのように横たわっていて、近くの物置きにはヘアスタイルの雑誌に漫画、ヘアゴムにスタンドミラー、DVD、額縁の中にシズの家族が公園のベンチで三人並んで撮られた写真が立て掛けられている。
「以上、衝撃!? 小児科の秘密でした!」
シズがまるで声援に応える演奏家のように深々と頭を下げている。
田宮さんの申し訳ない程度の拍手が室内に反響している。僕も左手で太腿を空叩きする。
「どうだった皆本、面白かった?」
「えーと。なんか、案内してくれるところが全部新鮮で、面白かったよ」
「それはよかったよ! でも……本当は皆本をいろんなところに連れ回したいんだけどその膝と脚じゃ、難しいね」
「まあ、当面は動かせないから仕方ないよ」
僕の膝はまだ当面、固定が必要だ。
「じゃあさ! 脚膝が良くなったら病院を探検しようね。絶対ね!」
「ああ、うん。でも程々におねがい」
僕がそう言うと、シズは左手の小指だけを立てて、僕の前に差し出す。
「約束だからね」
「うん、約束」
僕も左手の小指だけを立てて、シズの右手の小指と触れ支え逢う。
その状態のままシズが大袈裟に上下させる。
少し痛かったけど、シズが嬉しそうにしているから、僕からは何も言えなかった。
寧ろ僕は、微笑ましい感情に包まれていたまである。
「シズ、あんまり笹伸くんの身体を揺さぶらないの。響いたら大変でしょ」
「はーい」
シズは小指を重ねていない手を挙げる。
田宮さんが指摘した意図を察して、シズは小指を外す。
そして僕との約束を照らし合わせ、やがて思い出したように満面の笑みを浮かべている。
「あ、そうだ。いつになるかわからないけどちゃんと叶えられそうだから、それも楽しみにしといてね」
「う、うん」
「なんの話?」
田宮さんが疑問を呈する。
それは僕とシズの秘め事だから、田宮さんが思い当たらないのも仕方ない。
「内緒!」
シズは人差し指を唇に当てて片目を閉じた。
窓越しの後光と相まって、それはとても神秘的なワンフレームに収まる。
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