エピソード7

 次の日の朝。

 母が寝坊をして弁当を作り忘れるハプニングに見舞われたうえ、出くわしたたちばなには「お口はダメだよ」と言わんばかりの仕草を、両指のバッテンで示される始末。

 あのとき店員さえ乱入しなければ、と後悔ばかりの念が募る。


 そんな昼休み。

 俺は久しぶりに食堂に足を運んだ。

 律儀に毎日弁当を作ってくれる母のおかげで、この混雑を経験せずに来られたのだが、ついに逃げられない日が訪れてしまった。


 券売機に並ぶ大行列の仲間入りをして周りを見る。「あ、委員長だ。珍しー」と声を掛けてくれる男子たちがいた。

 スムーズにボタンを押していく生徒たちを見て焦りだす。

 何を食べようか決まらない……。


 吊るされた広告には『オススメ! スペシャルランチ!』などと書かれているが、生憎本日のメニューはカキフライ、俺の苦手なものだった。

 幼少のころを思い出す。

 家族四人で出掛けた海の町。

 妹が言ったのだ。「あー、これプルンプルンしてて美味しそー」と。橘のおっぱいの方がもっとプルンプルンだぞ……今のは失言だったが、その頃の俺は得体の知れないその貝を拒否した。

 しかし、他の家族全員の賛成により食べることとなる。

 そして起きたのだ、宿泊した民宿で……絶望の下痢祭が。

 平然としている三人の横で死を予感した。「退治したげるー」と言って馬鹿な妹が腹を何度もチョップしていたことが懐かしい。叩かれる度に洗面器に吐いていたな……。

 それ以来、二度と食べないと誓ったのだ。


 そんな馬鹿な過去録に思いを馳せていると順が回ってきた。

 ふと目についた天ぷらうどん、懐かしい。

 忌々しいあの過去とは違う、こちらはとても美しい懐かしさだ。

 自然と指はそれを押していた。


 どこで食べようかトレイを手に悩んでいると、一番隅っこで天使様が座っていた。後ろ姿でも分かる美しい金髪、あれがヴィーナスというのだろう。


「横、いいか?」

「――ッ!」


 しかし、俺が腰を下ろすなり空いた隣の席に身を寄せる橘。


「おい! なんで離れ――」


 俺の言葉を遮るように「黙って」と言わんばかりに人差し指を自分の唇にあてがっていた橘が少し遠くに見える。


「昨日の……怒ってるのか?」

「違う」


 橘側のトレイに載った素うどんを見て運命を感じた。

 あの時と同じ状況に、エビと芋をダイブさせてやろうと立ち上がる。


「やめて」


 すると今まで見たこともない鋭い瞳を向けられ、気負いした俺は座り直した。


 黙って食べる俺と橘。

 理由が分からない、何を怒っているんだろう……?


 そんな時だった――。


 後ろを通った女子から聞こえたのだ。「うわ、橘さんだ」とか「委員長、可哀そー、さっさと更生してあげりゃあいいのに」とかヒソヒソと。


 当然橘にも聞こえていただろうが、平然と食べ進めている。

 この食堂で、ポカンと橘の周りだけが消えているようだった。


 だが男子は違った。


「ねえ橘さん、ちょっといい?」

「…………」


 隣に座って話し掛けた男子を、まるで見えない幽霊かのようにあしらう橘。男子の声はしっかり俺にも聞こえていた。


「あのさ、いっかいヤらせてくんない?」


 聞き間違えじゃないかと思えるほど卑猥な言葉。

 規律にうるさく皆一様に品行方正であると思っていたが、それは俺のまえでだけ演じられた姿だというのか。

 普段の本学の生徒たちはこんなにも……。


 その男子は橘に夢中で、近くに俺がいることに気づいていない。俺が食堂にいること自体滅多にないからだ。


「なあいいじゃん、そんな恰好してんだしさ」

「…………」


 表情ひとつ変えない橘だったが、俺が立ちあがろうとした時だけ男子に見えないように眉間にしわを寄せて「やめろ」と言った顔を向けてきた。


「なあ、コレ持ってるから」


 ポケットから男子が取り出したのは避妊具。


「おい、こっち向けって!」

「――消えて」


 男子の方を向いて静かに言い放ったその言葉に男子が身じろぐ。俺からは橘の後頭部しか見えず、どんな顔をしていたのか知る由は無かった。


「ちっ! 調子乗んなよ! ビッチが!」


 キレた男子が離れていった。

 そこへ置き忘れられた避妊具を、めいいっぱい壁に投げつけて、また食べ始めた橘の手は震えていた。




 放課後、委員会の仕事をしていてもあのことばかり考えてしまう。

 早く橘に会いたい、その一心だった。


 そして来たる、お仕置きの時間。


「やあやあ委員長、やってきましたな。今日はごめんねー」


 いつもと変わらぬ明るい橘がそこにいた。

 そういえば橘はいつもそうだった。ここでは明るいはずの橘が、ここ以外の場所では妙に暗い。最低限の微笑みしか示さない。


「なあイジメられているのか?」

「全然。警戒されてるだけ」


 鞄を置いて椅子に座る。


「食堂じゃあいつもあんななのか?」

「ううん、今日久しぶりに利用した。ちょっと寝坊しちゃって作れなくて」

「弁当自分で作ってるのか?」

「そーだよ。あれれ、料理なんてできない、とか思ってた?」

「そんなことは」


 笑いながらゲーム機のスイッチを入れる橘。


「今日は何しよっかー? 昨日は惜しかったねー、委員長の唇ちゃん泣いてましたか?」

「橘、悩みがあるんだったら相談してくれ」

「にゃんにゃんさんはひとり旅を満喫しております。放っておくがよろし」

「けどな!――」


 バタンと音を立てて立ち上がった橘が鞄を肩から提げる。


「この話つづけるんだったら帰るけど?」


 その目は本気だった。生気を失ったような鋭い瞳に、


「わかった、別の話にしよう」

「えらいねー、委員長ー」


 すぐに生気を取り戻し、両手で俺の頬を挟んで笑顔で言ってきた。

 だが、未だに納得していない俺の目を察したのだろう、スッと橘の顔が変わる。


「じゃあ勝負しよっか?」

「…………」

「ババ抜き」


 荷物の中から取り出したトランプをこちらへ見せて言ってくる。


「委員長が勝ったら、にゃんにゃんさんの秘密ちょっとだけ教えてあげる」

「ホントか!?」

「但し、委員長が負けたら……好きなひとの名前、おしえて?」


 そんなの目の前にいるあなたしかいないだろうに。


「いいだろう、望むところだ」


 神経衰弱などだったら記憶力の勝る橘が圧倒的に有利だが、ババ抜きは完全に運だ。それに、俺が負けてもデメリットはない。


 丁寧に橘がシャッフルさせてカードを配る。

 手札が揃って試合開始となる。


 最初はスムーズに進んでいく。当たり前だ。


 そして終盤。俺が二枚、橘が三枚だ。俺側にはジョーカーがない。


「さあ、どれかなー?」


 ニヤニヤしながら三枚を遊ばせる橘。真ん中のカードだけ少し飛び出ていた。


「ひっかけのつもりか?」

「さあ?」


 才女である橘の思考が読めない。真ん中を選んでいいのか?

 意を決して真ん中を取ってみる。裏をかいたつもりだった。


「ぐ……っ」


 手元にババがやってきた。


「くふふふ、残念」


 その後、手札が三枚になったばかりの俺側を、レーダーでもついているのかと思えるほどに避けて抜き取っていった橘。

 俺の敗北が決まった。


「終わったねー、ワトソンくん」

「もう少しだったのに……っ」


 二枚の手札を掲げながら悔しがっていると、


「じゃあ、わたしが連続で引いたげるよ」

「え!?」


 俺に橘側の最後の手札を引かせれば勝てるのに情けを掛けられた。


「いいのか?」

「んーー、どっちですかなーー?」


 二枚の手札をじーっと眺めてくる橘。

 その時、もうすでに俺が負けていることに気づいた。

 なにせ、橘側からババを引いたあと、間髪入れずに橘が引いてきたものだからシャッフルなどしておらずに今に至っている。どちらがジョーカーか、知っているはずだ。


 案の定、ジョーカーである左側を避けて右側に手を伸ばす橘。


「そりゃ」

「え」


 橘が抜き取ったのは……ジョーカーの方だった。抜き取る寸前に違う方へ変更したのだ。


「ありゃりゃ」


 その後、無事に俺がハートのクイーンを取って試合終了。


「なんでだ?」

「何が?」

「ジョーカーの場所、知ってたよな?」

「さあ? なんのこと?」


 驚くでもない顔を見れば、わざと負けてくれたらしい。


「真っ直ぐなワンワンさんを前に、にゃんにゃんさんはしゃべっちゃおうかなーって思ったようです」

「じゃあ相談、してくれるんだよな?」

「いいや」

「はあ!?」

「言ったじゃん、ちょっとだけって」


 そんな約束だったな、と観念する俺。


「じゃあ話してくれ」

「……にゃんにゃんさんの一人旅は小学校から始まりました」

「すごい長さだな」

「変な身体で生まれたにゃんにゃんさんは、男の子にしか見えないユーレイさんだったのです」

「いや、さっき食堂で……」


 女子が、と言いそうになったタイミングで「水を差すな」という顔をされる。


「以上です」

「はあ!? 全然話が――」

「途中で話を挟んだからです。諦めてください」

「く……っ」

「最後に、にゃんにゃんさんの住む世界を教えましょー」


 悔しがると、また情けを掛けられる。

 このにゃんにゃんさん、甘すぎる。


「…………蟻地獄。はい! おしまい!」


 パンと柏手を打って笑う橘。

 蟻地獄……。

 嫌なイメージしか浮かばないその世界を、俺はずっと頭で考えるのだった。

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