エピソード6 後編

 デパートを出て歩いて十五分。

 俺が訪れたことのないパーティー場所へやってきた。


 慣れた風に入館していくたちばなのあと、恐る恐る入る頼りない俺。


「学生ふたりで」


 受付の女性店員とやり取りをしている。


「時間どーする?」


 促されてメニュー表を見ると三十分刻みに設定できるらしい。


「三十分で」


 俺は危険を回避するため即答する。


「んじゃ二時間でお願いします」

「おいっ!」


 まったく聞き入れられないまま事が進んでいく。


 指定された部屋までの廊下で、


「おい! 三十分って言ったぞ!」

「そんなんじゃ足んないじゃん」


 そう言いながら俺の白ワイシャツをクネクネと指で押してくる。


「なあ、それって英語と化学の勉強のことだよな?」

「さあ? どーでしょー?」

「おいっ!」


 為す術なく部屋の中へ。

 思った以上に暗い部屋に何故か反応する息子。


「お昼って食べた?」

「いやまだだ。どっかで食べて帰ろうとは思ってたんだが」

「じゃあ、ここで食べよー?」

「食べ物まであるのか?」


 そうそう、と言いながら橘が差し出してきたメニューを見れば多くの品数に驚かされた。


「ほら、唐揚げとかポテトとか、ピザにラーメン、あとカレーなんかもあるよ?」

「凄いな」

「まあちょっと割高だけどね。誘ったのわたしだし払うから」

「ダメだ! 俺に奢らせろ」

「いや、全部だと高いよ?」

「いいんだ。お前に喜んでもらえれば。お前に食べさせてやりたいんだ」


 バタンと音を立ててソファーの背もたれ側を向いて横になる橘。

 その寝方だと背中しか見えないから辛い。こっちを向いて、天使様。


「歌わなくても酸欠になりそー」

「何を言ってるんだ? ほら、好きなの頼んでくれ」


 ゆっくりと起き上がってメニューを見ている。

 この天使、食べている姿が絶品なんだ。


 渋々ゆびを差してくれたのがポテトSサイズだけ。


「また最安値を選んで」

「わたし嫌なんだよね、奢ってもらうの。すっごい罪悪感があって」

「なら余計に奢らせてくれよ。割り勘だと俺が悲しむんだ」

「……じゃあ、ピザ食べたい」

「よし。あぁポテトはLにしよう。あとピラフも」


 俺は橘の白ニットを見て、汚れることを懸念してカレーとラーメンはやめた。


「頼み過ぎだって」

「大丈夫だ、二時間もあるんだ。そうだ、飲み物は?」


 ずらりと並んだメニュー表の飲み物欄。

 その中でひと際目を引いたのはメロンソーダ。最高値だった。


 だが、ちらちらとその品に橘の目が泳いでいたことに気づいた俺は、


「これ好きなんだろ?」

「ううん、嫌い。わたしは……そう、コレ、ミネラルウォーター」


 またも最安値のミネラルウォーターだ。


「これただの水じゃないか!」

「だって好きなんだもん。いいじゃん」

「嘘をつくな! ちらちら見てただろ、緑のコレを」


 靴を脱ぎ、体育座りをして膝で必死に顔を隠す橘。


「……それ、水の三倍だよ?」

「よし、コレにしよう。本音が漏れたな」

「……………………やさしすぎ」


 微かだが、そう聞こえた気がした。橘の声が小さかったことと隣の部屋がうるさいことで阻害されていたから。


 俺はすべての商品を電話で注文した。

 品が届くまで買ってきた参考書を眺めてみる。


 橘が、座っているソファー――俺の隣に腰掛けてきた。


「分かりますかな?」

「いやあ、この辺りがどうもな。一年の範囲からの続きだが、つまづいてて」

「あー、ここ結構難しいよね、わたしもお姉ちゃ――いや、姉に聞いたもん」


 何故いま丁寧語に言い直したのだろうか。

 別にお姉ちゃんと呼ぶことなど気にしなくてもいいだろうに。


 それは今までにも少し引っかかっていた部分でもあった。

 両親のことは父と母、姉妹のことは姉。

 確かに良いことではある。だが、日頃の話口調からギャップを覚えることも事実。

 それと、橘は普段は軽いノリの話口調を決める遊び人風なのだが、たまに丁寧語になる。「~なのだよ」とか「~なのです」と言った風に。

 実に不思議だ。


 次に英語を捲りだす。


「英語もなー。俺の家は古風だからなー」

「それ関係あんの?」

「父親がよく言うんだ。日本人に英語など要らんって」

「ふふふ、委員長って父親譲りじゃん」

「やめてくれ! 父親似ってのが一番傷つく」

「え? 嫌いなの?」

「ああ、あんまりな。俺のことを認めようとしないからな」


 そう言った時、少しだけ寂しそうな顔を見せた橘。


「んじゃ、次の英文を訳しなさい」

「なんだ!? 突然!?」

「Erotic chairman licked my tits.」

「え!? なんだって!?」


 ネイティブかと思えるほどに流暢だった。


「ほら、最近起こったことだよ? 二度ほど」

「二度ほど……。まさか! む、胸舐め事件か?」

「正解! 英語分かってんじゃん」

「いやいや、勘で言っただけだ。具体的な答えは?」

「エッチな委員長がわたしのおっぱいを舐めた、でした」

「なんて問題を……っ。元はと言えばだな」


 俺は立ちあがり言及する。


「あの時舐めてと頼んだのはそっちだろ! それに先っぽまで行きたかったのに……阻止されてっ!」


 ヒートアップしていたら橘が青ざめた顔で指を差していた。

 振り返った俺は絶句する。


「あ、あのぉ~、商品をお持ちしま……したが」


 俺の大声でノック音が遮られたのだろう。

 入ってきた女性店員が苦笑いを浮かべ、お盆を震わせている。


「は、はぃ……どうぞ」


 か細い声で座りながら俺が言うと、女性店員は無言で品を並べていく。ずっと笑顔なのがやはりプロだなと感心していた。

 隣には俺と全く同じように固まって座る橘がいた。


 店員が出ていってすぐ、


「もう委員長っ! 心臓飛び出そうなんだけど!」

「すまん! 気づかなかったんだ!」

「あの感じだとわたし痴女じゃん!」

「すまん! 今から弁解してくる! 嫌がる彼女を無理やり舐めました、と」


 立ち上がった俺の腕をめいいっぱい引っ張りながら橘が引き留める。


「ダメだって! そんな言い方したら逮捕されちゃうから!」


 我に返り、座り直す。


「……許してくれるか?」

「交換条件アリです」


 また丁寧語での提案事例。


「言ってくれ」

「キス我慢選手権……して」

「なんだそりゃ!?」


 ルールも分からぬまま橘が選手権なるものの準備に取り掛かる。

 メロンソーダのアイス、その上に乗った生クリームを軽く手ですくいあげて自らの口横につけてみせた。

 その位置は橘自身でも舐め取れるほどに唇に近い。


「舐め取って? 但し、絶対キスしちゃダメだよ?」

「ぐ……っ」


 そこまで近いんだったらキスしたい。熱いキスを交わしたい。

 この選手権がどれほどの罰なのか、今気づいた。


 真横に座っている橘に顔を近づけていく。


「んん……っ。ホントダメだからね?」


 徐々に減っていく生クリームだが、いつまでも舐めていたい衝動に駆られる。そのうえ、いやらしく照りだす口元にむしゃぶりつきたくなる。


「た、橘……っ。我慢……できない」

「待って! ホントダメっ」


 俺がスライドして奪い掛けた瞬間、俺の胸元を両手で押し返す橘。

 その行為に、キスをせずに耐え続ける俺。


「そうそう。委員長、いー子、いー子」


 頭を撫でられながら舐め進める。辛い、辛すぎる。


「よくできましたー! やったじゃん! セカンドステージ進出おめでとー!」

「なんだとっ!? まだあるのか!?」


 さっきの店員さんへの暴露事件にあまりのお冠なのだろう。

 今度は俺の口にポテトを咥えさせて、橘がソファーに仰向けになる。


「食べさせて? だけど、分かってるよね?」

「ぐ……っ」


 俺は橘に覆いかぶさるように両腕をソファーについて顔を近づけていく。さっきは口横だったが、今回は正面なので少しでも進めばキス完了である。


 反対側のポテトを橘が咥えた。


 ずっと目をそらさない橘に、鼻息が荒くなる俺。

 もう正直限界だった。


 全部を橘側に放り込み、目と鼻の先に互いの口がある、そんな場所でしばらく静止した。


「委員長、もう終わったよ?」

「なあ、俺のファーストキス受け取ってくれないか?」

「……失格になるよ?」

「もうどうだっていい! キスしたい! 橘と!」


 泣きそうになる俺をじっと真剣に見つめる橘。

 スッと目を閉じた橘が小さく言った。


「いいよ」


 やった、と心から喜んだ。

 これ以上の幸せがあるだろうか、と。


 承諾を得た俺はじっと待つ橘の唇に向かった。


<――コンコンッ>


「――――ッ!!」


 突然鳴ったノック音に、俺は身を離した。


「お客様ー、伝票を置き忘れ……」


 ドアの前で固まる女性店員。

 なにせ俺が仰向けの橘にまたがっているのだから。


「ち、違うんです! 目が痛いって言うので、ちょっと確認してただけで!」

「は、はぃ……わ、分かって……ます。あはは、目が……はい」


 苦笑いをしながら伝票を置き、高速で去っていく女性店員。

 扉が閉まり、橘の方を向くと、両腕で顔を覆っていた。


「橘、続きを――」

「できるかーーーー!」


 もうちょっとで捨てられた俺のファーストキスは、女性店員に阻止されて、さっきの恥ずかしさから、しばらく橘から生気が抜けるのだった。


 橘に生気が戻ってから、折角だからと少しばかり歌に興じてみるも、橘の美声のあとに俺が歌えば、一曲目にして「また今度にしよっか」と言われ悲しくなったことは内緒にしておこう。

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