エピソード1 後編

 四階で開いたエレベーターには誰も乗っていなかった。


「貸し切りだ」


 そう言ってはしゃぐたちばなの脇で、壁に寄り掛かる俺。

 ランジェリーショップでのダメージが尾を引いていた。


 一つ上の階――五階で停止して扉が開き、四人の男女が乗り込んできて俺たちとは反対の右寄りに立ち、ボタンを操作した。

 他人が乗ってきたことで大人しくなる橘。


 そのまた上――六階で停止した際には中年男性四人が中央付近にぞろぞろと乗り込んでくる。

 それを見た瞬間、俺は橘の腕を掴み、左の壁に寄せて俺と位置を入れ替えた。

 橘の隣に異性を立たせることがこの上なく嫌だったからだ。


 だが、その代償は大きく、すぐ隣の男性の汗臭さが俺の鼻を刺激していた。橘とは真逆の、不快なかおり。

 悲しいことに、これは男性特有の加齢臭であり、非難することなど断じてあってはならない。

 何故ならば、俺も数十年後、このお方とそっくりな臭いになっているだろうからだ。

 将来への不安から心が涙を流す。男って切ないな。


 目的の七階へ着き、客は先にぞろぞろと下りていく。

 最後に残り、開ボタンを押しながら先を譲ると「ありがと」と小さく呟いて橘は下りた。

 何故か橘の耳が赤かったのだが、開ボタンにそんな効果があるというのか。


「おおっ、大食堂ひろいねー」

「だが日曜は混んでるな」


 九割ほど席が埋まっているだろうか。皆が楽しそうに食事を摂っている。こういう光景を見ていると心が温まる感覚になる。


「どれにしよっか?」


 奥に並んだ店は全部で十。和洋折衷さまざまだ。


「橘の好きなもので良いぞ。奢ってやる」

「え!? なんで!?」

「まあ、その、ほら、日頃の感謝ってヤツだな」


 それを聞いた橘が悪い子になる。


「へー、感謝するほど気に入ってたんだ、お仕置き」

「いや、ちが……わないか。まあ確かに楽しかったことは認める。それに男が女の子にあんなことしたら普通は軽蔑されて逮捕される。だけど橘は誰にも告げず、俺の暴挙を許してくれている。その優しさへの感謝って感じかな」

「わたしも楽しんでたんだし、お礼なんていいって。だけどさ、別のひとだったら軽蔑、逮捕、豚箱入りだろうね」


 それは俺に気を許しているということなのだろうか。


「ちょっと待て! その言い草だと更生しろととがめられているのに楽しんでいたってことか?」

「へへー」

「へへーじゃない! ったく。だが、男としてケジメはつけさせてくれ。さあ、好きなものを選んでくれ」


 俺が店々を指差すと、渋々承諾した橘が左端からチェックしていく。


「その肉弁当なんかどうだ? うまそうだろ?」

「ちょっと待って。わたし全部見てから決めたい派だから」


 仕方なく橘の指示に従う。

 肉屋、天ぷら屋、中華料理屋、フランス料理屋、寿司屋などなどの店を通過する。

 一番右の店をチェックし終えた橘が、


「よし! 決まり!」


 言ってすぐ俺をくるりと反転させて背中を押しながら「戻ろー」と言ってくる。

 後ろからの圧力で前へ進む俺は一軒の店の前で停止する。

 それはうどん屋だった。


「わたし、これがいい」


 橘が選んだのは素うどん百八十円。具はネギだけのものだ。


「おい、一番安いからじゃないのか?」

「違う違う。まだ肌寒い季節にぴったりだし、わたし小食だから」


 例の部屋に持ち込んでいたお菓子は大量にあったはずだが。


「店員さん、素うどん一つ」

「あっ、じゃあ俺は天ぷらうどんで」


 急に頼みだした橘に焦った俺が咄嗟に選んだ天ぷらうどん。

 単純に天ぷらが好きだからだが、値段は驚きの六百円。


「委員長、ブルジョワー」


 野次られる中で会計を済ませる。「ドリンクは?」という俺の問いに「セルフがあるから」と言って水を取りに行く。ご丁寧に俺の分までだ。


 トレイに二品を載せて俺が運び、橘が空き席を物色する。

 見つけた先は角席の絶好のポジションだ。隣の席にはママさんふたりが会話を弾ませていた。


「本当にいいのか、それだけで?」

「いいの、いいの。奢ってくれてありがとね」


 両手を合わせてぺこりとお辞儀をしてくれた。

 勢いよく橘が食べだしてすぐのことだった。ぐぅ~っという間抜けな音が大きく響いたのは。


「あ」

「ほら見ろ、どこが小食なんだ。これをだな――」

「い、要らない要らない。大丈夫だって」


 天ぷらの品を箸でつまむと止められる。素うどんにダイブさせようとしていることに気づいたのだろう。

 男がここで止まってなどいられない。構わずダイブさせてやった。


「や、ちょっと! いいのに。天ぷら好きなんでしょ?」

「いや、嫌いだ」

「嘘ばっか。嫌いなの選ぶわけないじゃん」

「俺に食われるこいつらが嫌いなんだ。橘に食われるこいつらを見たいんだ。それで喜ぶ橘の顔が見たい」

「――――ッ!!」


 直後に響く軽い木の音。


「お、お箸落としちゃった。新しいのもらってくる」


 顔を隠すように後ろを向いて店の方へ走っていく橘の姿。ドジをしても絵になるヤツだな、まったく。


 ひとりになった瞬間聞こえてきたクスクス音に思わず隣を見れば、三十代ほどのママさんふたりが俺を見ていた。「かわいい」とか「学生の頃、旦那とあんな感じだった」とか言っていた。

 いやいや、ママさん。俺たちカップルじゃないんだ。仮なんだ、仮。

 いや、もうその設定は終わったのか。


「いやーお待たせ。まさか落とすなんてね、参った参った」

「なんでそんな汗かいてるんだ? うどんはこの季節にぴったりだなんて言ってた癖に」

「さっき走ったから。ほらお箸事件で」

「歩いてたじゃないか」

「……細かい男は嫌われるよ?」

「……そうだったな、すまん」


 ふたりうどんの続きを食べていく。

 俺がお裾分けしたエビと芋を喜んで食べる橘の姿があった。

 本来ならあちらへダイブしていたはずのカボチャと茄子は拒絶されて俺の口の中へ。残念だったな、お前ら。こんな小汚い方の口ですまん。そう謝りながら食べてやった。


「旨いか?」


 言われて顔をあげる橘。

 少しの間を開けて言ってきた。


「美味しいに決まってんじゃん」

「――ッ!」


 ニカっと白い歯を見せて笑った橘の可愛さと言ったら……。

 俺は思わず天を見上げた。


 その時、隣の席で「キャー」などと言って喜びながらトレイを持ち席を立つママさんふたりが見えた。


 熱々の顔を橘に向けると、橘は両手で顔を覆っていた。ママさんから野次られたことに恥じらいを覚えたのか耳まで真っ赤っかだ。

 俺たちふたり、ママさんの攻撃に敗北を期した。




 昼を食べ終えてデパートを後にすると、外は夕焼け色だった。

 こんなに早く過ぎる日曜は初めてだった。


「今日はありがとね、買い物付き合ってくれて」

「ああ、俺も楽しかったから問題ない」

「天ぷらうどん、ゴチでした」

「喜んでもらえてよかったよ」


 今日はヤケに素直だなと思っていたというのに、最後にされた耳打ち。


「今度はわたしが委員長を喜ばさないとね、コレで」


 俺から受け取った下着入り袋を見せつけてである。


「け、けしからんヤツだ。風紀は乱れまくりだ」

「よく言うよ。最後はいっつも委員長が攻めの癖に」

「…………」


 反論の余地はない。


「それじゃあね委員長、また明日」


 軽く手を振る橘を、見えなくなるまでずっと眺めるのだった。

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