追加エピソード
エピソード1 前編
お仕置き初日から過ぎること三日。
いつもは足取り軽い土曜の朝、俺の足は重かった。
それが一体何なのか、いまだに理解できていないわけだが、恐らくはこそばゆい感覚が絶頂に達したときに起こる生理現象か何かだろう。笑い死ぬ寸前の悪あがきのようなものだと推測している。
帰り際、一度目と同じように少しふらついて歩く橘に言われたのが「毎日はやっぱムリ。しばらく休憩で」だった。
だから昨日はお仕置きのない平凡な一日を過ごして今日に至っている。
これでいいはずなんだ。これが正常な俺の学園ライフのはずだ。
なのに、何故だろう。
こんなお預けを食らった犬のような気持ちになるのは……。
「おっ、いたいた」
そんな声に顔をあげると、控えめに言って天使のような橘が小走りで近づいてくるのが見えた。
「すっかり忘れてたが、二度も敗北しておきながら更生する気はないんだな?」
「してもいいけど、清楚ちゃんのわたしで満足できんの?」
「……………………」
頭の中で黒髪の橘を想像してみる。
どんな恰好をしても似合うだろうが、どうもしっくりこない。
そう思った瞬間、俺は悟った。
もう今の姿の橘に毒されているのだと。
「それはさておき、何か用事か?」
「明日ってヒマ?」
「明日? 何も用事はないが」
「んじゃ買い物付き合ってよ」
いつものように棒付きキャンディーを咥えながら上目遣いに頼む橘に断る理由なんてなかった。
「俺は構わんが、いいのか? こんな俺とふたりで買い物なんて。変な噂が立っても知らんぞ?」
「あー、新聞部に取り上げられるかもね。『皆が知らぬ風紀委員長の姿! 休日は乱れまくりであった!』的な」
「やめろ! 生々しいわ!」
「まあ委員長とどんな噂されよーが、わたしは気にしないけど」
少し後ろに引いてじっと俺を見つめる橘。返事を待つ姿に耐えかね、
「わかった」
「よし。それじゃあ明日、駅前に十時で」
それだけ言い残して歩いていく橘だったが、途中で
「何か元気ないね?」
「そんなことはない。いつもと同じテンションだ」
図星を指されて声が上ずってしまった。すぐに察知した橘がいたずらに口角を上げて、
「まるでお預け食らったワンちゃんみたいじゃん」
「何を馬鹿なことを!」
「残念だけど、今日もお預けです」
「当たり前だ。あんなこと好きでやっているわけじゃない」
途中、一度だけ振り返って「ごめんね」と言いながら左手で謝りの仕草を見せた橘があまりに可愛すぎたことは心に秘めておこう。
※※※
来たる日曜。
十五分前に駅前に着く。
委員会の仕事では五分前行動を心掛けているが、何故こんなに早く来てしまったのか……。
決してワクワクしているからではないと心に誓い、拳を握り締めた。
「あれ? 委員長、早くない?」
木を囲うように設置されたベンチから見た先に破壊神がいた。
薄いグリーンのボタンシャツにキャメル色の短パンを合わせた読モのような存在がゆっくり歩いてくる。
周囲の男たちの視線が手に取るようにわかる。
「橘こそ早いじゃないか」
「待たせるの悪いなーと思ったから。だけど、待つ楽しみ奪っちゃった感じ?」
少し屈み気味に不敵に笑ってみせた橘に、
「まさか! 楽しみだからじゃない。いつも十五分前行動を心掛けているんだ」
「ふーん。生徒会長が集合かけた時は五分前っぽいけど?」
何故そのことを知っているんだ?
俺を逐一観察しているとでも言うのか。
「そんなことより買い物なんだろ? 行こうじゃないか」
「待ってよ」
立ち上がりかけて止められた。
「どうよ、このコーデ?」
そう言いながらくるりと愛らしく一周させてみせる橘。
どんだけ足が長いんだよと思うとともに、視線は足より胸に吸い寄せられる。たすき掛けにされた赤バッグの紐のせいで更なる強調を見せていたからだ。
「やっぱ足よりお胸ですか?」
「いや、見てないっ。今はその、全体像を確認したんだ。とてもいいと思う。うん、そう思うぞ」
「ホントに?」
間近くまで身を寄せて、くいと紐を引っ張って胸を揺らしてくる。
「さあ行こう」
「あ、逃げた」
俺にはこの術しか残されてはいなかった。
隣に追いついた橘が言う。
「まだ何買うか言ってないんだけど?」
「何を買うんだ?」
「ナイショ」
「おちょくっているのかっ」
「違う違う。着いてからのお楽しみってこと」
俺よりも少しだけ前を歩いて先導してくれた。
俺は素直についていく、この道が地獄への経路だとも知らずに……。
駅前から歩いて十分ほどにあるデパートの、四階婦人服売り場の最奥。
「到着ー」
「お、お前……っ。下着屋じゃないか……」
「違う違う、ランジェリーショップ」
「同じだっ」
店内に客は多いが全て女性。当然、店員もだ。
青ざめているだろう俺を嬉しそうに見つめる悪魔がひとり。
「さあ、帰るか」
「いや、ちょっと! 話聞いてよ」
この店に来る意味があるのだとでも言いたいのだろうが、入りたくない、そう俺の中で答えは出ていた。
それでも一応の礼儀として聞いてみる。
「言ってみろ」
「マンネリの防止。前に委員長も言ってたじゃん。足から首へシフトした時」
「ちょっと意味がわからんのだが」
「二度目のお仕置きで、わたしは気づいてしまったのです。同じブラにガッカリしている委員長に」
そんなことはないはずだ。
二度目のご対面でも同じような興奮を示したはずだ。
だが、それと同時にピンク以外も似合うんだろうなと思ったことも事実。
「そんな配慮はいらん。ピンクでいい。あのままでいい」
「それはどうかなー? 例えばほら、あれなんかどう?」
橘の指先には純白のブラ。
天使のような橘だったら清廉潔白を表すようなあの白き下着も似合うこと間違いなしだ。
「さあ? わからんな」
「んじゃ、あれは?」
白のふたつ隣には真逆の色である黒が下がっていた。
小悪魔っぽい行動を取る橘ならこちらも捨てがたい。フリル付きなのもなおいい。
「いやあ、そんなすぐには」
「と思ったので、連れてきてじっくり選んでもらおうと思ったのです。いざ店内へ」
「ち、ちょっと待て……っ」
腕組みをして引きずり込もうとする橘。
何事かと店員が現れた。
「お客様っ、どうなさいましたか?」
「彼氏が恥ずかしいって言うんで」
彼氏っ!!
橘が暴走し始める。嘘までついて俺に選ばせようとしている。
「大丈夫ですよお客様。最近はカップルでの入店も多いですから。お気になさらず」
「ですよねー。ほら彼氏くん……っ、行くよ……っ」
「……はぃ」
選択肢などなかった。
だが入ってみると意外や意外、奇異の目を向けられることはなく、いつの間にやら馴染んできた。
まあ、隣に仮の彼女がいるからなのだろうが。
「この……水色は?」
慣れて調子に乗った俺が選び始める。
馬鹿の典型とは俺のことだ。
「ちょっと見せて」
取りつけられたタグを確認する橘。
「あー、これはDまでだからダメだね。わたしEだから」
「Eっ!!」
声が裏返ってしまう。
やはり調子になど乗るもんじゃないと反省したところで、踊り出した息子を止める術などなく。
女性だけに囲まれた中で何をやっているんだ俺は。
前科者になってしまう。
「さっきの白と黒ならサイズあるみたい。試着してみよっか?」
「じゃあ俺は店外で待ってるから」
「なに言ってんの? 一緒に入るんだってば」
「はあ!? ふざけるな! 逮捕されるわ!」
「カップルで入って逮捕なんてあるわけないじゃん」
いやあ、と叫びながら仮カノに引きずられるモブ眼鏡。
ものの数秒で試着室の中である。
「お前っ、恥ずかしくないのか?」
靴を脱いで上がった先、胡坐をかきながら見上げた先で、立ってボタンを外す後ろ姿の橘に尋ねる。
「……恥ずかしいに決まってんじゃん」
ああああああ、なんでそんな顔をするんだ、橘ああああ!
ちらりと覗かせる橘の横顔は赤く困った表情だった。それがまた堪らなく愛らしかったのだ。
「じゃあなんで一緒に入ったんだっ」
「だって、委員長に見てもらう時、カーテンの隙間から他のひとに見られたら嫌なんだもん」
確かに俺が外で待っていれば、カーテンを開けて確認しなければならない。
それはいい。正しいと判断しよう。
だが、何故そこまで頑なに同性にまで見せたくない姿を容易く俺に見せるんだっ? それもお仕置きの度に。
「いや待て! 普段制服を着崩してるせいで下着が見えているじゃないか。あれは平気なのか?」
「服着て見える谷間と上半身ブラだけと全然違うから」
全く理解できない。どこが違うというのか。
もう考えることを諦めるとしよう。
「わかった。目を瞑るから終わったら呼んでくれ」
「りょーかい」
静かな試着ルームの中、シュルシュルと解かれていく何かの音。
上着や下着であることは分かるが、これはまさに耳の拷問。
耳を塞げば回避できるのに塞ぎたくない衝動に駆られる。
俺はこれほどまでに変態だったのか?
「もーいーよ」
かくれんぼの鬼への呼びかけにも似た返事を受けて目を開ける。
「――――ッ!」
白のブラを装着した神が降臨した。
「どう、かな?」
「これにしよう」
「え!?」
俺のあまりの即答に、不安な顔から一転して驚きに満ちる橘。
黒を試着せずとも分かる、これを超えるものはないと。
「黒はいいの?」
「いい。白がいい」
「そんなに!? 委員長ってそんなキャラだった!?」
「こんな神のような姿を有しているのは、この世で橘、お前だけだ」
「――ッ!」
高速スピンかと思うほどの速さで後ろを向く橘。しきりに手で顔を仰いでいた。
上半身下着姿で何故そんなに汗をかく?
「じゃあ、これにしよっかな」
震える声で橘はそう言った。
レジで会計を済ませた際に渡された商品袋を俺が持ち、隣を橘が歩く。
「委員長、テンション爆上がりだったね」
「どこがっ! ダダ下がりだったぞ」
「まだ時間あるよね? ご飯食べない?」
「そうだな」
俺たちは七階レストラン街へのエレベーターを目指した。
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