部屋と唐揚げと俺

小泉毬藻

部屋と唐揚げと俺

幼なじみと結婚したのは、お互いが28になった年だった。

 結婚から5年後に病気が発覚し、たくさんの病院を回ったけれど呆気なく妻は死んだ。

 それからずっと、命日には妻が好きだった唐揚げを遺影に供えた。5回目から出来合いから手作りになった。これをあいつが食べたら、どんな風な文句を言うのかな。なんて思いながら。


20回目の命日、唐揚げを揚げているとインターホンが鳴った。ドアを開けると見慣れない作業着姿の、背の高い男が立っていた。

「久しぶり」

 男は無精ひげの奥の汚い歯並びを見せて笑った。俺が思わずドアを閉めようとすると、男は体を隙間にねじ込み、薄汚れた顔の中で、異様に光っている大きな双眸をぎらりと見開いて言った。

「ねえ、わからないの?」

「え?」

「あたし、ユッコ」

「はぁ?」

「……思い出した?あっくん」

 男が口にした名前は、俺だけが使っていた妻のあだ名と、妻だけが使っていた俺のあだ名だった。


詮索好きな隣人がエレベーターを降りる気配を感じた俺は、やむを得ず目の前の怪しい男を招き入れた。

 室内に入れてみると、男の臭いがはっきり襲ってきた。むせかえるほどの汗と、ガソリンやら重油やらの臭いで眩暈がする。俺は一メートルくらい離れて口と鼻を覆った。

「色々ごめんね。貴方がここに居るのはちょっと前から知ってたんだけど……今の仕事が忙しくって。今日も来るだけで精いっぱいで、何も準備できなかったの」

 図々しく上がり込みながら男はよくわからない言い訳をした。俺はとりあえずこいつを清潔にしなくてはならないと思った。男はきょろきょろあたりを見回し、バスルームを覗いている。

「洗濯乾燥機、結局買ったんだね。あんなに要らないって言ってたのに。なんだかんだいって便利でしょ?」

「……とりあえずお前、風呂に入れ。なんでも使っていいから」

「えー、いきなりお風呂?なんか恥ずかしいな」

 無駄にもじもじしている男をバスルームに押し込み、消臭剤を大量に噴霧してから、俺は残りの唐揚げを完成させることに集中した。

 

ちょうどすべての唐揚げが揚がったところで男がバスルームから出てきた。

 汚れとヒゲを落とした男は思いのほか若かった。せいぜい20歳くらいだろうか。あぐらをかいた鼻で唇が厚く、美形と言うわけではないが愛嬌のある顔だ。俺より二回りは痩せているせいで、提供してやったTシャツもズボンも盛大にぶかついている。

「はぁー、生き返った気分だよー。ありがと、あっくん」

 ざらついた低い声と甘ったれた口調で呼びかけられると、悪寒のようなものが背筋を這いあがり、俺は油から引きあげた最後の一つを油に落してしまった。

 跳ね上がった熱いしぶきが手にかかり、思わず悲鳴を上げる。同時に男が素早く駆け寄り手首をつかんだ。

「大丈夫?すぐ冷やさないと」

「やめろよ気持ち悪い!」

 ぞっとして振りほどくと、男は驚いたような悲しそうな顔で俺を見た。

「……ごめん」

 ほぼ同時に俺と男は言った。


その時、妻ともこんな風に言いたい事が被ることがよくあったな、と思い出した。

 相手も同じことを考えていたのだろうか。上げた視線がぶつかる。

「懐かしい」

「うん。しょっちゅうだったよね」

「……ええと、他者とずっと一緒にいると無意識化でナンタラカンタラが開通して……」

「共感トンネル、ね」

「あーそうそう。共感トンネルが開通して通じ合う事ができるんだっけ。あたしたち、通じ合ってる!とか。言ってたよな。ユッコ」

 名前を呼ぶと、相手ははにかみながら笑った。

 懐かしい笑顔だ。

「やめてよ!それ、黒歴史だから」


唐揚げをつまみ、缶ビールをあけながら、俺と妻は20年分の話をした。話せば話すほど、見つめれば見つめるほど、相手の一挙一動が妻を思い出させた。全然似ていないというのに。これが輪廻転生というものか。とぼんやりした頭で俺は思った。

「なんでお前、俺に会いに来たの?」

 大方の思い出を語ってしまって、なんとなく会話が途切れたとき俺は聞いた。

「会ったところで、どうこうできるわけでもないのに」

 妻は酔いで潤んだ目を俺からそらし、もう冷めかけている唐揚げを見つめた。

「めちゃくちゃ悩んだよ。貴方の事、思い出してから。でも会わなくちゃって思って」

「なんで?」

「きっと、こんな風に、あたしの事をずっと思い続けてるんだろうな、って思ったから」

 俺は無言で温くなったビールを啜った。なんとなくさっきの火傷が疼くような感じがした。

「もっと早く思い出せればよかったのにね」

 再び潤んだ目が俺を捉える。透き通った黒色がやけに冷たく、遠く感じる。

「そうすれば、こんな無駄な事してないで、あたしを忘れて他の人と暮らしなよ、って言ってあげれたのに」

「そんな事言うな」

 残りのビールを呷ってテーブルにパン、と缶を置き、俺は語気荒く言った。

「最近じゃ職場でリクエストされるんだぜ。俺の唐揚げ」

 大きな双眸が瞬き、夜の猫の目のように丸くなった。

「一回弁当に入れてってさ。同僚に食わせたら大好評で」

「……20年も作ってきた甲斐があったね」

「正確には15年な。それに、揚げ物ができる男はモテるっていうだろ。いくつになっても」

「そうなの?知らない」

 妻は笑って、唐揚げを口に放り込んだ。見覚えがないけれど見慣れた、滑らかで剃り残しがある顎が小気味よく肉塊を噛み砕き、細い喉の尖った出っ張りが上下してそれを飲み込むのを、俺はじっと眺めていた。


唐揚げとビールをすっかり平らげ、たわいもない話を続けた後、妻は時計を見て、終電がもうすぐだから、と腰を上げた。俺もよろめきながら立ち上がった。昔は俺の方が彼女よりも頭一つ分くらい高かったが、今は逆だ。

「また……また食べに来いよ。連絡くれれば作っておくから」

 玄関まで見送りながら言うと、妻は悲しそうに笑って首を振った。

「ごめん、無理」

「なんでだよ」

「あのね、前世の記憶を保ち続けるのって、めちゃくちゃ消耗するの」

 俺は必死で手を伸ばし、出ていこうとしている妻の手をつかんだ。

 厚い皮と太い骨の大きな手だ。その細胞が内包している、かつて愛撫し、包み込んで誓った手の感触を思い出そうと、きつく握りしめた。妻はこちらに向き直って、同じように痺れるほど強く握った。

 ずっと見下ろしていた、懐かしい顔を見上げるのは妙な気持ちだ。頭上の照明を背後にした顔は薄暗く、来た時と同じように大きな目が光っている。

「じゃ、さよなら。あっくん」

 砂浜を濡らした波が還っていくように手が離れる。

「……さよなら……ユッコ……」

 妻だった男がゆっくりと出ていき、金属の軋みと共にドアが閉じた。少し引きずるような靴音が、廊下に響きながら遠ざかっていく。

 俺は、伸ばした手を戻すことも出来ずに立ち尽くしていた。




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