4-3 足手纏い
大正時代、大須観音など五箇所のエリアにあった歓楽街『旭廓』の移転によって、新たに作られた『中村遊廓』。
当時、周辺には田畑しかなく、遊廓の建設用地の整備のために大量の土砂が掘り起こされた。そうしてできたのが『
「池で自殺したり遺棄されたりした女の子たちの霊を慰めるために、弁財天を守護神として祀るお寺さんが建った。名古屋の名所の一つにもなったんだけど、昭和十年ごろに池は埋め立てられた。その跡地に病院ができたの」
「すごいところに病院建てましたね」
「うん、ほんとにねぇ」
とんでもない立地だ。そこまで曰くのある病院だったとは知らなかった。
「実際、遊女の霊を見たって話もよく聞くよ。地縛霊も多いだろうね」
先生は深い一口目を大きく一息に吐くと、百花さんの話に補足をした。
「ちなみに、寺は中村区内の別の場所に移転して、病院には弁財天の分身が残された。だがその分身も、平成半ばにあった病院の建て替えで寺の一時預かりになった。そして現在に至るまで戻って来てない」
「じゃあ、今は守護神不在ってことですか?」
「そうなるね。一応、病院の敷地内に慰霊碑はある。でも、さすがにそれだけじゃあ護りの力が弱い。これが、他の病院より『場』になりやすい理由だよ」
慰霊碑。病院内のどこかで見たことがあっただろうか。どうにも記憶が曖昧だ。
「昔、祖母のお見舞いであの病院に行っとった時、しょっちゅう
「あそこにはいろんな『念』が集まるだろうでな。建て替えたおかげで見た目だけは綺麗だけどね」
あれ? まただ。やっぱり何かを忘れているような気がする。
病院でゾッとした理由は、他にちゃんとあったような。
僕が『引き込まれ』に遭う数ヶ月前まで、毎週のようにあの病院へ行っていた。
祖母の退院後、しばらく家の中が荒れた状態だった。僕がひどく情緒不安定だったのも原因の一つだ。
母親からよく言われた。「あんたがおかしいせいで、こっちの調子も狂うんだわ」と。
今ならば分かる。僕は母親の感情の嵐に当てられていたのだ。それがまた母親の神経に障って、悪循環を繰り返していた。
呪いのような言葉が、不意に蘇ってくる。
——あんたなんか産んだのが間違いだったわ。
「服部少年、何か思い出した?」
「えっ? ……あぁ、いえ」
先生に声をかけられ、びくりとしたのを誤魔化す。
「うーん、やっぱりよく覚えてないです。何かを忘れとるような気はするんですけど」
忘れてしまいたい記憶がある。それに連なるようにして、思い出せない何かがあったと思う。
それゆえ、迂闊に近寄ることができない。
「あの時の君、まだ十歳だったでな。『引き込まれ』のショックもあっただろうし、まぁ仕方ないわ」
「十歳かぁ。可愛かっただろうねぇ、服部くん。今も可愛いもんねぇ」
うふふ、と軽やかな笑みを
正直、反応に困る。嫌な感じはしないけれど、高二男子としてその評価はどうなんだろうか。
「何にせよ、大きな手がかりだ。現地に行ってみるのが手っ取り早いな。俺の懐中時計が修理から戻ってくるのが今週末だもんで、来週以降で頼むわ」
「分かった。あたしはいつでもいいよ。なるべく早い方がいいかな。これ以上の被害が出んうちに」
「あ、僕も来週は部活が休みなんで大丈夫です」
「……いや」
先生が、まだ長い煙草を灰皿で押し潰した。ふぅっと吐き出された最後の煙が、空気中に散って見えなくなる。
「服部少年、今回は来なくていい」
「え、何でですか?」
「君はこの前、危ない目に遭っただろう」
一瞬、言葉に詰まる。
「……いえ、僕も行きますよ。先生の助手なんですから」
「君はまだ子供だ。俺の恩師でもある君の叔父上から君のことを預かっている以上、わざわざ危険に晒すような真似はできない。大事な君を無傷で守り通せるかと問われると、残念ながら難しいんだよ」
どうにも
なぜなら、僕は自衛の手段を持っていないに等しいのだ。
僕の心中を知ってか知らずか、先生は誠実そのものみたいな表情を作る。
「我々二人で行けば大丈夫だ。君にはもっと安全な仕事を手伝ってもらおうと思っているんでね」
みしりと、心の奥が軋んだ気がした。
百花さんが先生と僕とを見比べた後、控えめに言う。
「えっと、何か分かったら、ちゃんと報告するでね。情報くれて助かったわ、ありがとね」
二人から諭されては、反論のしようもない。
もやもやした気持ち悪いものが腹の中で渦を巻く。僕はせめて、感覚の回線だけはきっちりシャットアウトした。
「……やっぱり僕じゃ、役に立たんどころか足手纏いですもんね」
「いや、そんなことは言ってないだろ」
「お二人に迷惑かけるわけにはいきませんし」
「だから迷惑とか、そういう話じゃない。俺は君の身を……」
「いえ、もういいです。自分でよく分かってますから」
窓から西日が差し込んでいる。外はまもなく暗くなるはずだ。
僕はリュックを背負い、平坦に告げる。
「すいません、僕、そろそろ帰ります」
先生から、夕飯に誘われる前に。
「……そうか、気を付けて帰りなさい」
「はい、失礼します」
僕は二人の顔を見ることもせずにぺこりと頭を下げて、玄関を出た。
コンクリート打ちっぱなしのビルの共用部分に、階段を降りる僕の足音が鳴り響く。
一人分の靴の音だ。いつもと違って。
建物から出た途端、風が首元をすり抜けていった。春先の夕方。空気はまだ冷たい。
無用に長く伸びた影を、踏んでも踏んでも踏み越せず、苛立ちばかりが募りゆく。
——君はまだ子供だ。
確かに、僕にできることは少ない。
でもあんなふうに、あからさまに邪魔者扱いされるなんて。
『助手』という肩書きを与えられても、結局のところ子供のごっこ遊びと変わらないのだ。
分かっていたはずなのに、ショックだった。
胸の
少しだけ頭が冷える。
ひどい態度を取ってしまった。卑屈にも程がある。未熟な子供だと、自ら証明したようなものだ。
せっかく自分の居場所だと思えたのに。
一人で勝手に臍を曲げて、背を向けた。
ちゃんと納得すべきなのに。
地面に横たわった僕の影が情けなく項垂れている。
僕は心底、自分が嫌いだ。
その時、背後から独特の気配が接近してくるのに気付いた。続いて、ぱたぱたと小走りの足音。ふわっといい匂いがしたかと思ったら、くいと腕を引かれる。
「服部くん! 良かったぁ、追い付いて」
柔らかくて心地よい、アルトの声。
「えっ……も、百花さん……?」
長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳とふっくらした唇が、すぐ眼前にある。なよやかな白い手に腕を絡め取られ、振り
というか、何か、腕に当たっ——
「ね、お腹空かん? あたしは空いた。何か食べに行こうよ」
「えっ、でも」
「ほら、さっきヨネダの話しとったでしょ。あたしクロノワール食べたい」
「あの」
「行こ」
異論を挟む余地もなく、僕は金山総合駅近くのヨネダ珈琲店へと連行された。
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