3-8 未熟者

「芽衣! お兄ちゃん!」


 現世うつしよに戻るなり、泣き顔の遥南はるなが駆け寄ってきた。

 先ほどからあまり時間は経っていないようだ。厚い雲の向こうで日が落ちかけているらしく、辺りはますます薄暗い。

 赤い世界から一転。頭の中までも、すぅっと冷えていく気がした。


「芽衣! 芽衣!」


 揺さぶられた芽衣さんが目を覚ます。


「は、遥南……」

「芽衣、良かったぁ」


 へたり込む妹をよそに、僕は未だ呆然としていた。

 今、何が起きた? どうやって狭間の世界からここに戻った?


「おかえりー」


 ひらひらと手を振るのは百花もかさんだ。

 黒の厚手の羽織から覗く、白黒ストライプ模様の着物。衿元には白のフリルブラウス。帯だけが鮮やかな紅色だ。

 身に馴染んだ独特の気配で、改めて心が緩む。僕は本当に助かったんだ、と。


皓志郎こうしろうのスマホ、鳴らんかったけど。どうやって帰ってきたの?」

「あぁ、ごめん。スマートウォッチ壊れたんだわ。服部少年が扉を繋いでくれた」

「服部くんが?」


 言われた僕が一番驚いた。


「えっ? やっぱり今の、僕がやったんですか?」

「他に誰がおるんだよ。そこの屋根神やねがみさまに力を借りたんだな」

「拝んだだけですけど」

「大事なことだよ。神さまは人間の信仰の心によって力を持つ。現世で拝んだ時の気と、狭間で拝んだ時の気が通じて、二つの階層が繋がったんだ。何の欲も持たずただ拝むだけってのは、簡単に見えて難しい。よぅやったな」

「はぁ……」

「だが」


 樹神こだま先生の声が硬度を増す。


「勝手に行動したことは感心しない。君ならば、この場所の危険な気配が分かったはずだ。一歩間違えたら取り返しの付かないことになるところだった。君だけじゃない。お嬢さんたちもな」


 正面から見据えられる。逸らしようもない、真剣な目。


「今後は何か気付いたら自分だけで判断せず、必ず俺に連絡するように」

「……はい、すいませんでした」


 胸の奥がぎりぎりと痛む。

 今回はたまたま運が良かっただけだ。

 先生が来てくれなければ、あのまま身体を乗っ取られていた。


「まぁまぁ。無事だったんだで、何よりだわ。邪悪な気配も綺麗にどっか行ったし、もっかい簡易結界作っとくわね。明日には御神体の新しい注連縄が届くみたいだで、大丈夫でしょ」

「そうだな。ちゃっと終わらして、神社の管理人に連絡入れようか」


 先生と百花さんが作業を始め、僕は何となく一人になる。

 半身を起こした芽衣さんと、不意に視線が合った。大丈夫かと訊ねる前に、顔を背けられてしまう。

 膝を抱え込んだ彼女が、くぐもった声で「ごめんなさい」と呟くのが聴こえた。続いて、押し殺したような啜り泣きも。


 僕はそれきり、声をかけることができなくなった。

 改めて自覚する。僕は彼女が最も隠しておきたかった部分に土足で踏み込んでしまったのだ。


 芽衣さんを助けたかった。自分に似ていると、自分ならば分かってあげられると思っていた。

 なんて傲慢だったのだろう。むしろ僕のせいで、彼女の心の闇が昏さを増したというのに。

 そんなふうに思うことすら、ひどい自惚れかもしれないけれど。


「ねぇ、芽衣、もう大丈夫だよ。戻ってこれて良かったね。怖かったよね」


 慰める遥南にも、芽衣さんは首を振るばかり。


 ——見下して、憐んで、わざわざ手を差し伸べて優越感に浸ってるのよ。友達ヅラして、ひっどい子ねぇ。


 あれは生霊の言葉だった。

 だけど、そもそも芽衣さんの心の裡に遥南への劣等感があったのも事実だ。


「もう、やだ……」


 苦しげな嗚咽の合間に漏れ出た声。

 芽衣さんの感情が流れ込んでこようとするのを、僕はきっちりシャットアウトした。

 二度と不用意に触れるべきじゃない。十分、分かってしまったから。


「もう、死んじゃいたい……」


 ずっと見えていた生首は、芽衣さん自身の顔だった。

 自分の死に顔を、見ていたのだ。


「芽衣……」


 遥南の表情が苦しげに歪む。

 誰にも、どうにもできない。そんな空気が漂い始めたころ。

 颯爽と二人に近づく人物がいた。百花さんだ。彼女は流れるような動作で着物の裾を整えながら、すっと身を屈めた。


「あらぁ、えらいこんがらがった匂いがするねぇ。これはちょっと厄介だわ」


 芽衣さんが、ちらりと顔を上げた。


「あ、あの……?」

「こんにちは。あたしは調香師の百花。お嬢さんたちに、いいものあげる」

「いいもの?」


 百花さんが、御守りらしきものを二つ差し出す。

 綺麗な和柄の布でできた、五角形のような変わった形をしたものだ。鮮やかな色の飾り紐で結わえられ、その端にはきらきら光る天然石があしらわれている。

 それを目にした途端、二人の少女は感嘆の声を漏らした。


「わぁ、可愛い……」

「うん、綺麗」

「これは訶梨勒かりろく。魔除けの匂い袋だよ。一年くらい保つから、匂いがなくなったら中身を交換したげる」


 遥南が問う。


「私も、もらっていいんですか?」

「いいのいいの。お揃いで持ちゃあよ。これがあれば、変な霊にちょっかい出されることもなくなる。あたし、依頼受けてここの調査をしとってね。これはその一貫みたいなもんだで、何も気にしんでいいよ」


 手のひらに乗せた訶梨勒をじっと見つめていた芽衣さんは、やがて解けるようにぼろぼろ涙をこぼし始めた。


「あ、あたし……ここの建物、壊しました……神さまの、お社なのに……ごめんなさい」


 何度も繰り返される「ごめんなさい」の声が、洟をすする音に紛れ込む。


「うん、そのことは大丈夫。正直に言ってくれてありがとね。まったく、こんな優しい子をそそのかすなんて、ひどい奴がおるもんだわ」


 百花さんは柔らかい口調で続ける。


「芽衣ちゃん、だっけ」

「あ……はい」

「匂い袋一つで解決できるようなことなんか、ほんとは大した問題じゃないんだよ。実害あろうがなかろうが、視えてまうもんはしょうがないしね」

「……はい」

「一人で抱え込んだらいかんよ。自分の状態を説明して、ちゃんと受け止めてもらうこと。誰か相談できる大人の人は身近におる?」


 芽衣さんは軽く俯いて、口をつぐんだ。何度か躊躇ためらうような間の後、ほんの小さな声で言う。


「保健室の、先生が……でも」


 そしてまた黙り込んでしまう。

 よく分かる。視えない人に、視えることを説明するのは怖い。

 信じてもらえなかったら。嘘吐きだと馬鹿にされたら。

 親に告げ口されたら。

 もう、どこにも逃げ場がなくなってしまう。


 沈黙を破ったのは遥南だった。


「芽衣、今度一緒に保健室行こ。私も先生に芽衣のこと説明する」

「えっ……」

「芽衣に視えるもの、私には全然視えんけど、私はいっつも芽衣と一緒におるもん。さっき芽衣とお兄ちゃんが消えるのも見た。何か怖いものが芽衣を困らせとるんだって、ちゃんと分かった」


 その声は、震えていた。


「私は芽衣を信じる。、私は芽衣の友達でいたい」


 意思の強い瞳が濡れている。

 遥南はしっかり者で、強い。僕はそう思っていたし、芽衣さんもそうだろう。

 だけど。


 ——大人なんて、だぁれも話なんか聞いてくれんし。みんな同じだよ。

 ——ねぇ、お兄ちゃん。叔父さんち、楽しい?


 遥南もきっと、必死に何かと戦っている。


 また泣き始めた女子二人を遠巻きに眺めながら、先生がしみじみ言った。


「やっぱ百花さんに来てもらって良かったわ」

「……先生、わざわざ百花さん連れてきてくれたんですよね。僕が、芽衣さんとの約束で事務所行くの遅れるって言ったから」

「いや、そもそも今日は、この件で君も交えて百花さんと打ち合わせの予定でな。妹さんから連絡もらった時、百花さんも事務所におったんだわ。ここまで一緒にタクシー乗ってきたよ」


 改めて、罪悪感と羞恥ばかりが湧いてくる。

 せっかく気を回してもらっていたのに、なぜ僕は一人で突っ走ってしまったのか。


「ありがとうございました。僕一人じゃ、何もできんかったんで」

「何もできんってことはないでしょ。前より能力をコントロールできるようになった」

「でも、結局同じことですよ。誰も助けられんかったし」

「初めから何もかもできる奴なんかおらんよ」

「でも、先生にも迷惑かけました」

「別に迷惑とは思っとらんて」

「でも……」


 でも。でも。でも。

 否定せずにはいられない。


「君があの子を助けようとしたのは事実だろ。それが一番大事なんじゃないの。上手いやり方なんてのは、訓練次第でどうにでも身に付けられる。でも、誰かを助けたいって気持ちだけは、得ようと思って得られるもんじゃない」


 でも、とまた口を突いて出そうになって、どうにか飲み込む。

 ちょうどその時、ぽつんと頬に一つ、冷たい雫が落ちた。それを皮切りにして、つぎつぎ水滴が降ってくる。


「あっ、雨!」

「傘持ってないんだった」

「駅まで急ごっか」


 いつの間にか和気藹々としていた女性陣が、ぱたぱた駆けていった。


「俺らも行こう」

「……はい」


 少し遅れて、先生と走り出す。


 ——ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。


 冷たい雨は、誰にも等しく降り注ぐ。


 駅で遥南や芽衣さんと別れ、事務所へ向かう地下鉄の中。

 僕は先生の夕飯の誘いをどう断ろうかと、そればかりを考えていた。

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