3-6 虚言癖

 『狭間の世界』へは、これまで何度も訪れたことがあった。いずれの時も、樹神こだま先生の容喙声音インタヴィンボイスで扉を開いて能動的に階層を渡った。

 よもやこんなふうに、強制的に引き込まれてしまうなんて。

 何より、いつもなら必ず隣に先生がいたのに。


 試しに鳥居をくぐって外へ出ようとしたら、見えない壁に阻まれて身体ごと弾き返された。

 つまり、僕と芽衣さんは閉じ込められてしまったらしい。もはや神域とは言えない、この境内の中に。


 芽衣さんが両耳を塞いで首を左右に振り始めた。


「違う……違う……やめて、違うの……」


 何か聴こえているようだ。感情の波が空気を伝って、肌をぴりつかせる。

 只ならぬ気配は、現世うつしよにいた時よりもずっと濃い。しかし発信者の姿は視認できない。

 先ほど御身体の上にいた霊は、僕を認めて姿を消した。恐らく今も僕からは視えないようにしているのだ。それだけ力の強い亡霊ということだろう。


 恐怖、焦燥、害意……いろんなものがない混ぜとなり、僕の中へ雪崩れ込もうとしてくる。今にも心が乱れそうだ。

 一つ深呼吸し、自分自身に言い聞かせる。

 回線を閉じろ。自我の主導権を手放すな。

 よし。


 僕は芽衣さんの正面に回り、肩を掴んで顔を覗き込んだ。


「芽衣さん! 毛受めんじょう 芽衣さん!」


 ——名前というのは、当人を当人たらしめる、混じり気のない唯一の言葉だ。正気を取り戻させるのに、最もシンプルで効果的な言葉でもあるんだよ。


 いつか先生に聞いた話を思い出す。特別な声を持たない僕でも、多少の効果はあるはずだ。

 何度目かの呼びかけで、芽衣さんと目の焦点が合った。

 

「は、はじめ、さん……?」

「落ち着いて、さっきみたいに息をしよう。大丈夫、僕もここにおるよ」

「は、はいっ……」


 芽衣さんはどうにか息をついた後、気まずそうに視線を泳がせた。

 ハッとした。至近距離だ。


「あ、あの……」

「ごっ……ごめん!」


 慌てて身体を離す。さっきとは別の意味で変な雰囲気になってしまった。

 全てのものが夕暮れ色に染まった世界。多少赤面したとしても、分からないに違いない。


 しかし、幸か不幸か、それも束の間。

 芽衣さんがびくりと身を震わせた。


「違うってば、やめて……!」


 やはり何かと会話している。くだんの生首の霊なのだろうか。


「もう嫌ぁ! やめてよ、お願いだから!」


 目の前で芽衣さんが苦しんでいる。

 こんなことになったのも、僕がこの神社の様子を見たいと言ったせいだ。

 幽世かくりよに近い世界。この時間が長引けば長引くほど、きっと芽衣さんの魂は危ない。


 僕に祓う力があれば良かった。それどころか、現世に帰る手段も助けを呼ぶ方法も知らない。

 僕ができることと言ったら、共感応エンパスで芽衣さんと感覚を同期して、霊の声を聴くことだけだ。そうすれば相手が何者かくらいは分かるかもしれない。

 でも、上手くできるだろうか。

 失敗して、いつもみたいに意識を乗っ取られてしまったら……


「もう許して……お願い……」


 芽衣さんの頬を、一筋の涙が伝った。


 いや、迷うな。今ここには僕しかいない。やれることはやるべきだ。

 芽衣さんを苛むものの正体を見極める。それが現状を打開するヒントになるはずだ。


「芽衣さんごめん、感覚を借りるよ」


 。再び固く決意して、回線を開いた。

 途端、一気に流れ込んでくる。さまざまな記憶の断片と共に、激しい感情の揺らぎが——




 ——あめあめ ふれふれ 母さんが 蛇の目でお迎え うれしいな。ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。


 ——かけましょ鞄を 母さんの 後から こ行こ 鐘が鳴る。ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。


 小さいころから、お母さんはあたしに過干渉だった。

 ああしなさい、こうしなさい。そんなことは辞めなさい。あんたはこうすべきなの。

 お母さんの言う通りにしようとした。だけど、上手くできないことがほとんどだった。

 褒められた記憶は、あんまりない。

 あたしが愚図で、馬鹿だから。


「これも、あんたのためなんだよ」


 あたしのため。

 だったら、悪いのはお母さんの言うことを聞けないあたしなんだ。


 頭の中では、いつも何かの歌が流れていた。誰かがお喋りしていた。

 視界には、時々ちょっと変わったものが映った。

 そうしてすぐ、目の前の『大事なこと』からふわっと気持ちが逸れてしまう。授業中でも、叱られている時でも。


 聞こえるはずのない声を聴き。

 見えるはずのないものを視る。

 あたしは普通じゃない、みっともない子だ。


『ねぇお嬢さん、お歌がとっても上手なのね』


 ——あらあら あの子は ずぶ濡れだ、柳の根方で 泣いている。ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。


 生首がこっちを見ている。女の子の生首が。

 ますます頭がおかしくなったみたい。


 こんなあたしと仲良くしてくれる遥南はるなは、しっかり者で面倒見が良くて、成績もいい。

 あたしも遥南みたいだったら良かったのに。

 羨ましい。妬ましい。

 きっと遥南だって、何もできないあたしを心の中で馬鹿にしているに違いない。


 ——母さん 僕のを貸しましょか、きみきみ この傘 さしたまえ。ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。


『見下して、憐んで、わざわざ手を差し伸べて優越感に浸ってるのよ。友達ヅラして、ひっどい子ねぇ』


 学校では、生首がずっとあたしのことを見つめている。

 ストレスはいつものことだ。生首なんかいなくたって、家でもお母さんに監視されているから。


 遥南がお兄さんを紹介してくれた。怪奇現象を調べる探偵事務所で助手をしているらしい。


「心配なことがあったら連絡してくれていいよ。話くらいなら僕でも聞けるでさ」


 朔さんは、あたしの話を信じてくれた。

 あたしのことをちゃんと分かった上で気にかけてくれる人は、初めてだった。


「気持ちが不安定だと、霊的なものにつけ込まれやすくなるみたいだよ」


 LIMEの画面に並んだ【服部 朔】の文字。それを目にしただけで、胸の奥があったかくなる。

 生首なんて、本当はもう大して怖くない。すっかり見慣れてしまった。げんなりした気分にはなるけど。


 でも。

 

「やっちゃいました。また授業中に変な声出しちゃった。今、保健室で休んでます」


 このくらいの嘘、どうってことない。朔さんにメッセージを送る口実だ。

 保健室なんて、あれから行っていなかった。また養護の先生に何か訊かれたら面倒だから。


「大丈夫? あんまり気にしない方がいいよ。遥南にも協力してもらいなよ」


 遥南。

 もやもやした気持ちが湧いてくる。それがどんどん溜まって、ちりちりした苛立ちに変わる。


 ——僕なら いいんだ、母さんの 大きな蛇の目に 入ってく。ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン。


『あの子、あなたの欲しいもの全部持ってるのね。本当に嫌な子』


 ほんとにね。真面目な優等生で、その上あんなに優しいお兄さんまでいるなんて。


 朔さんにハンカチを返す約束をしたら、うちの学校まで来てくれた。

 校門の前であたしを待っている朔さんの姿を見たら、胸が高鳴ってびっくりした。


「芽衣さん、生首あれが視えるのは学校の敷地内だけ?」

「さ、最近は、家の中とかでも視えることがあります。ずっと誰かに見られとるみたいで……」


 嘘。

 本当は、やっぱり学校にいる時にしか視えない。が聴こえるのも、学校だけ。

 声のことは、朔さんには言っていない。

 本当は自分の中で別の自分が喋っているだけかもしれないし、どんな内容か訊かれたとしても答えられない。遥南への醜い思いを知られるわけにはいかないから。


 それに、いつしか気付いていた。あの生首の顔が、

 馬鹿みたい。都市伝説や幽霊なんかのわけがない。結局、全部あたしの妄想が生み出したものに違いないんだ。


 視えないふり。聴こえないふり。……視えるふり。

 本当のことはあたししか知らない。嘘を吐くのは慣れている。

 これで朔さんに心配してもらえるんだから、儲けものだ。


 三人で駅近くの神社にやってきた。

 ぞっとするような異様な気配に驚く。何となく分かった。生首も声も、ここに関係している。

 と、言うよりも。


『良かった、また来てくれたのね』


 境内へ足を踏み入れた瞬間、耳元で何かがぱちんと弾けた。すごい勢いで突風が駆け抜けていく。


 はっきり思い出した。

 遥南に悩みを打ち明けるより少し前、あたしは一人でここへ来た。



 ——ねぇお嬢さん、神社にお参りしましょうよ。


 あの時の誘い声は、あたし自身のものじゃなかったらしい。

 境内の中にある『白龍社』でお参りした後にも、同じ声に話しかけられたんだ。


 ——ねぇお嬢さん。助けてほしいなら、言う通りにして。


 それからあたしは一人で神社の奥へと進んで、とんでもないことをしてしまった。

 社務所の横に立てかけてあったシャベルを手にして、本殿の戸を叩き壊した。

 中にあった御神体の注連縄を引き千切った。

 まるで自分じゃないみたいに、すごい力だった。



『お友達も連れてきてくれたのね』


 今も話しかけてくる妙な声に、無視を決め込んだ。

 お願いだから、朔さんがいる前で変なことを言わないでほしい。彼には聴こえていないみたいなので、ひとまずホッとする。


 だけど。

 朔さんが本殿を見に行った直後、それは現れた。

 あたしの方へ戻ってきた遥南の肩越しに覗く生首——

 いや、違う。

 これまで首しかなかったものから、にょきりと蛇にも似た身体が生えていた。


『あなたがここへ来てくれたから、あの使の簡易結界が破れたわ。これで白龍の力をちゃんと使える』


 境内に入った時のぱちんという音は、結界の破れた音だったようだ。

 あたしがめちゃくちゃにした神さまの住処を、誰かが護ろうとしてくれていたのに、あたしはそれも壊してしまったんだ。


 透けた両腕が、遥南の華奢な上半身をぬたりと這う。


「いやぁぁぁぁ!」

『ねぇ、結局この子と一緒にいるの? 馬鹿みたい』

「来ないで!」

「芽衣? どうしたの? 大丈夫?」

『あの男の子が本当のことを知ったら、どう思うかしらね。あなたが彼の気を引くために吐いた嘘、全部バラしちゃおうか。私、彼の前に姿を見せてもいいのよ』

「うるさい! あっち行ってよ!」


 力いっぱい叫んだところで、そいつはニタニタと嫌な笑みを浮かべている。


「芽衣さん、しっかりして! 大丈夫だ、僕もここにいる」


 朔さんの顔を見たら、パニックの心が一気に急降下して、変に冷静になった。

 嘘を吐いたことを、本殿を壊したことを、バレないようにしなくちゃ、と。

 大丈夫。黙っておけば、あたしが何をしたかなんて誰にも分からない。


 だけど神社を出ようとした瞬間、想像も及ばないことが起きた。

 突然、視界が真っ赤に染まった。神社の外へ出ることができなくなった。


『嘘吐き。嘘吐き。お前は悪い子だ。逃がすものか』


 閉ざされた世界で響く声。

 違う。違う。お願い、やめて。

 だけど化け物の言葉は止まらない。


『お前は悪い子だ。お前は悪い子だ。お前は悪い子だ』


 やめて、やめて、お願いだからやめて——




 激しい情動の奔流から、無理やり意識を引き剥がす。

 。今回は呑み込まれずに自分をコントロールできた。だけどまだ心臓がばくばく言っている。


 まさか、あの注連縄を切ったのが芽衣さんだったなんて。

 というか。

 芽衣さんが、僕のことを……?


 気付けば、芽衣さんは呆然とした表情で僕を見つめていた。


「あ、あの……朔さん、今の……?」

「あっ、ご、ごめん、僕、その……」

「う、嘘……」


 羞恥と絶望が、波紋のように拡がった。

 ふるふると、二つ結びの髪が力なく揺れる。赤い景色の中でなお、蒼白と分かる頬。

 今にも泣き出しそうに顔を歪めた芽衣さんは、そのまま気を失って倒れた。


 ほぼ同時に。


「うわぁ、すごーく美味しい負の感情だったわねぇ」


 背後から声。僕は振り返る。


「必死に隠そうとしてたのに結局何もかも覗かれちゃうなんて、笑えるくらいお気の毒だわ」


 芽衣さんをそそのかして責め立てた化け物が、今、僕の目の前にいる。


「あなた、なかなかの能力者だったのね。姿を隠して損しちゃったぁ」


 蛇のような胴体。不自然に伸びた腕。そして、首から上は……

 恐らく、芽衣さんが見ていた生首もこうだったのだろう。


「『器』にするなら、あなたの方が良さそう。この女の子の顔、可愛くて結構気に入ってたんだけど」


 そいつはで、歪んだ笑みを浮かべた。

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