共感応トワイライト 〜なごや幻影奇想ファイル〜

陽澄すずめ

#1 かくれんぼ

1-1 夕暮れ色に沈む

 ——もういいかい。

 ——まぁだだよ。


 子供の声が聴こえた気がして、俺は足を止めた。


 予備校からの帰り。東海道新幹線高架下の、駅へと続く道。

 時刻は午後四時半すぎだ。まだ日はあるのに、陰になっているせいか何となく薄暗くて辛気臭い。


 中部地方の中核を担う名古屋駅の、西側エリア。

 百貨店や商業ビルの並ぶ東側とは違って、この辺りは昼夜問わず人通りがまばらだ。今は時間帯が時間帯だけに、誰の姿もなかった。

 当然、声の主らしき子供の姿も。


 気のせいか。

 俺はつまらない気持ちで、再び歩き始めた。


 ひどく疲れていた。

 むしろ吐きそうな気分だった。


 カァ、とカラスが一声鳴いた。

 真上の線路を、長い列車がけたたましい音を立てて加速しながら駆けていく。その勢いに煽られるように、風が荒れ狂う。すっかり冷えた空気が、頬や耳を鋭く殴り付ける。

 騒音と突風は俺を置き去りにして、呆気なく行ってしまった。


 太陽が傾きつつある。足が重い。無駄に伸びた自分の影すらも。


 数日前、父親から小言をもらった。


『勉強、しっかりやっとるんだろうな。お前にはうちの病院を継いでまわなかんでな。ただでさえ一年の浪人で足踏みしとるんだで』


 いつものことだと流したつもりでいたはずだったのに、今さらぶり返してくる。

 試しに大きく息を吐いてみた。しかし、腹の中にあるわだかまりの濃度が増しただけだった。


 たすき掛けした帆布バッグの端で、姉のくれた合格祈願の御守が揺れている。

 あぁ、今日は姉から頼まれごとがあったんだった。だが、それどころではなくなってしまった。


 とぼとぼと、足音までもが情けない。

 行き交う車のタイヤのしけた擦過音。カッコウ、カッコウと鳴く歩行者信号。意識をどこかへ飛ばしたまま、信号を渡った。

 巨大な家電量販店の裏手の道は、ちょっと進めばキャバクラ街がある。

 それを避けるのにいつも使っている、地下街の出入り口に辿り着こうかという時だった。


 ——もういいかい。

 ——まぁだだよ。


 また、あの声だ。

 二度目となれば、気のせいだと思う方が難しい。まさかこんな場所で、子供がかくれんぼでもしているのだろうか。


 声は西から聴こえてくる。

 俺は足の向きを変えた。

 少しだけ、行ってみよう。何でもいいから気を紛らわせたかった。

 どうせ今は、まっすぐ家に帰る気にもなれないのだから。


 声を頼りにしばらく行くと、商店街に入った。『駅裏通商店街』と書かれたダサいデザインのゲートから続く、やたら寂れた通りだ。

 ごちゃごちゃとすし詰めに建つ店舗や雑居ビル。黄色や青など、あちこちの軒先に張り出された原色のテントは、黒っぽい汚れがついたり破れて垂れ下がったりしている。シャッターが下りている店も多く、全体的に古臭くて垢抜けない。


 のったりと進む先、建物の陰から夕日が覗く。漏れ出た陽光が眩しくて、俺は自然と顔をしかめた。


 この商店街に買い物客が存在するのかどうかも怪しい。通りの先に一人二人の姿はあるが、ただの通行人に違いない。

 名古屋駅からさほどもない距離なのに、この場末感は何なのか。


 ふと、一軒の店が目に入る。


「駄菓子屋か……」


 ここならば、もしかしたら子供がいるかもしれない。

 こぢんまりした古い店だった。軒先に並んでいる商品はどれも色褪せており、埃を被っているようにも見える。

 試しにちらりと中を覗いてみたが、骸骨みたいな爺さんが置き物よろしく座っているだけだ。


 子供なんて、どこにもいない。


 俺は何をしているんだろう。

 だんだん気が滅入ってきた。もう帰ろうか。


 だが、きびすを返そうとした途端、耳を掠めていく。


 ——もういいかい。


 その問いかけの言葉に、今度は答えがない。

 心臓がざわめいた。喉の奥が苦しくなるような、嫌なざわめき方だった。


 子供たちはよほど上手く隠れているのだろうか。

 それとも、受験のストレスでとうとう幻聴が聞こえ始めたか。


 カァ、カァと、カラスが小馬鹿にしたように騒いでいる。

 まったく、何だというのか。どうしようもない徒労感で、抱えた荷物の重さを思い出す。

 時間と体力を無駄にした。こんな寄り道ばかりしているから、俺は上手く前に進めないのだ。


 周りはどんどん先へ行ってしまうのに。

 俺だけが置いてけぼりのままだ。


 今度こそ引き返す。投げやりな足取りで、来た道を戻っていく。

 『止まれ』の文字を逆から踏んだところで、また問いかけの声。


 ——もういいかい。


 あぁ、くそ。


「もう、いいよ、どうだって」


 そう吐き捨てた瞬間。

 突然、背後から強烈な光に襲われた。

 驚いて振り返り、また驚いた。


 なんと、太陽が膨れ上がっていたのだ。

 それはたちまち破裂するように拡がり、一瞬にして視界を灼き尽くす。


 俺は咄嗟に両手で顔を覆った。

 網膜に残光が焼き付いている。何が起きた?

 恐る恐る瞼を開け、思わず息を呑む。


 なぜなら、見渡す限りの何もかもが、真っ赤に染め抜かれていたからだ。


 空一面、燃えるような茜色だった。

 道の両脇に立ち並ぶ店も、端から端まで赤く照らされている。


 先ほどは確かにあった人影は見当たらない。

 あれほど煩かったカラスの鳴き声も聴こえない。

 風も、なくなっていた。それどころか空気の動きすら微塵も感じられない。

 この時間帯ならどこかから漂ってきてもいいはずの夕飯の支度の匂いや、全身に浴びる陽光の温度もなく、五感という五感がすっかり抜け落ちてしまっている。

 まるで、趣味の悪いジオラマの中に放り込まれたみたいだ。


 俺は白昼夢でも見ているのか。夕焼けに丸ごと呑み込まれたかのような、奇妙な夢を。

 この場合であっても『白夢』で良いのだろうかと、どうでもいいことを考えたりもした。


 ——もういいかい。


 『声』が、聴こえる。

 思考回路が停止したまま、俺はふらふらと歩き出す。

 呼ばれている。そんな気がした。


 不自然に赤い空。天をぐるりと見渡しても、太陽の姿がどこにもないことに気付く。

 全てのものが、ただただ夕暮れの色に沈んでいた。宵闇が追ってくる一歩手前の、意味もなく不安になるような翳りを伴った色に。


 孤りだった。

 それでも、これはどうせ夢なのだからと、俺はあまり深く考えずに足を進めた。

 不安もあったが、奇妙な高揚感もあった。

 夢ならば、何が起きたっていい。

 これは現実じゃない。あのクソみたいな現実なんかじゃない。


 ——もういいかい。


 呼び声に引かれて、前へと進む。こうして誰かが導いてくれるのは楽でいい。

 傾きかけたタイル壁の家も、錆び付いたシャッターも、少し奥まったところにある変な風呂屋の残骸も、全て等しく赤い。

 きっと俺自身も、同じ色に染まっているに違いない。


 やがて商店街の端に行き着く。

 そこに、小さな神社があった。

 鬱蒼と繁った木の枝、赤く色付いた葉に隠れるように、石造りの貧相な鳥居が見える。


 ——もういいかい。


 一つ、まばたきをした。

 そのわずかな隙に。

 いつの間にか、鳥居の向こうに小さな女の子が立っていた。


 ——もういいかい。


 あの子だ、と思った。

 あの子が俺を呼んでいる。


 ぼうっと頭の芯が痺れていた。ふわふわした心地のまま、吸い寄せられていく。


 そうして俺は、鳥居をくぐった。

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