第35話 離陸失敗

斉藤が何かに押し潰されそうな、あるいは何かが溢れ出るような表情で、こちらを見ている。化粧を落とし、普段より血色の抜けた唇が、開きかけたまま止まっている。

「わかってます。『付き合って欲しい』なんて、言いません。」

以前、身体を寄せ合って眠ったベットの中で交わされた、「どちらかが男だったら付き合ったのに。」というやり取りが思い出された。少なくとも現時点では、斉藤にとって女性が恋愛対象になりきっていないことがわかる。ここで押せばどう転ぶかわからないが、春から一年休学し旅に出て、ゆくゆくは就職でこの地を離れる私が無責任に彼女を少数者の世界へ誘うのは憚られた。

「言う相手を選ぶような恋愛を、聖子さんにして欲しくないです。皆から、堂々と祝福される恋愛をして欲しいです。あなたが大切だから。」

「じゃあどうしろって言うの…。」

斉藤が力無く口にした。

「そうですね、次の恋愛に向かうまでのリハビリで良いです。私を上手く利用して元気になりましょう。」

「それって『都合の良い関係』ってことでしょ?そんなの…。」

「私は大歓迎ですよ。聖子さんの温もりを感じられて、聖子さんが幸せに暮らせるお手伝いができるなら。」

言いたいことは大方言えたような気がして自分のタバコに火を着けた。


「谷藤さんと、何かあったの?」

先程の会話が着地しないまま、話題が変えられた。斉藤の幸せを思うと、正直に話すことが正解か不正解かわからず、どう話すべきか煙を燻らせ思案していると、

「谷藤さんちで酔っ払って、口移しで水飲ませてもらった、それだけ?」

彼女がじっとこちらを窺う。その突き刺すような視線に、正解だろうと不正解だろうと正直に話さなければならないと思わされた。

「…それだけじゃないです。」

言葉が続かない。

「ヤッたの?」

「『ヤッた』のかと言われますと…。」

同性同士でセックスの経験がないだろう彼女にどのように伝えれば良いのか悩む私に業を煮やしたのか、彼女が質問を連投する。

「キスは?」

「多分しました。」

「舌入れた?」

「多分、はい。」

「身体は、触られた?」

「多分、多少は。」

「さっきから、『多分』って何?」

「記憶が曖昧で…ごめんなさい。」

はぁ、というため息が彼女から漏れた。

「まぁいいわ。で、指、入れられた?」

「多分そこまでは。」

「じゃあ、イッた?」

「そのような記憶があります。」

糾弾される政治家のように、全て「記憶にございません。」と回答できれば良かったのかもしれないが、当時の私はその術を持たなかった。

「どうやってイッたわけ?」

好きでもない同性にどのように果たさせられたのか説明をするなんて、何という羞恥プレイなのだろう。

「あの…下、触られて。」

「指、入れられてないって言ったじゃん。」

「入ってないんですけど、手前で…。」

あまりの辱めに、つい口籠もる。

「気持ち良かったの?イッたくらいだから、気持ち良かったんだろね。」

何も言えず黙る私。

「結局ヤッてんじゃん。別に恋人でもないんだから私がどうこう言う権利はないんだけどさ。たまたま妊娠のリスクがないから良かったものの、何されるかわかんないんだから、気を付けなよ。」


はい、という情けない返事がニュースを伝えるテレビの音声に、掻き消された。「都合の良い女で結構」宣言をしていたときの勢いは、皆無だった。


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