第32話 動かぬ足、地下道、改札前

(やっぱり、あの夜のアレは…夢じゃなかったんだ。)

右耳に残る生暖かい感触、舌先で上顎をなぞられ、部屋に響く自分の吐息。塞がれた口、指を求めて動く腰、そしてそのまま真っ白になった頭。それらがフラッシュ暗算さながらのスピードで脳内を流れて行く。

私は谷藤の陣地となりかけた太腿を死守すべく足を組み直した。斉藤の顔は見ることができない。それからの話は、来月から拠点に新しく配属される社員の話とかそういった内容だったと思うがほとんど頭に入ってこなかった。

21時を回った頃、谷藤の夫が迎えに来たとのことでお開きとなった。次行く?と誘われたものの、私は続けて酒を飲む気分にならず、岡・斉藤も今日は帰るとのことで解散となった。


店を出ると、谷藤が皆を送って行くとのことだったがあいにく1名が定員オーバーとなり、電車通勤の斉藤が先に駅へと歩き出した。その後ろ姿を無言で見送る私。強力な接着剤でも付いているのかというくらい、両足が地面にべったり張り付いて動かない。でも、今、何か言わなきゃ!何を?あんなに話したかったんじゃないのか?

「イッシー、早く乗ってー。」

振り返ると、私以外のメンバーは全員谷藤のRV車に乗っていた。助手席の谷藤と目が合う。私の中で、何かが爆ぜる音がした。


「すみません!私、聖子さんと話したいことあるんで、皆さん先に帰って下さい!今日はありがとうございました!!」

後でどうなろうと知ったことか。後部座席のドアを閉めると、見送りもせずに走り出した。



ハァ、ハァ、ハァ、ハァ。

駅へと続く地下道で、私は斉藤の腕を掴んでいた。

「…何?」

彼女が私を一瞥する。

「あの、ちょっと、話しませんか。」

息も絶え絶えに彼女の顔を見上げる。

「何を?」

彼女は私の手を静かに振り払い、再び歩き出す。自分の呼吸音と彼女のヒールの音が、ところどころ蛍光灯の切れた地下道に反響する。

「今日までのことを。」

「私は特に話すことないんだけど。」

「話したくないってことですか?」

彼女は何も言わない。

「じゃあ、今日、どうして冷たいんですか?」

「別に普通でしょ。」

「普通じゃないですよ。会社でも、さっきの店でも。目すら合わせてくれなかったじゃないですか。」

返答はない。

「怒ってるんですか?」

改札が近づき、彼女がカバンの中から慣れた手つきで定期入れを出しながら歩き続ける。

「ねぇ!!」

改札手前で彼女の手首を掴み、静止する。振り返る彼女は驚きの表情だ。それもそうだろう。私の両目から、涙が筋となって流れていたのだから。

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