第31話 撒いた種、発芽
白い玉砂利が敷かれた個室のトイレ。備え付けの鏡に顔を近づけ、一応、という形で顎を上げる。良かった、あった、と胸を撫で下ろす。いや、良くはない。鼻くそが付いているのは人としてダメだ。また大人の階段を転げ落ちてしまったことを、岡か熊澤に揶揄われるだろう。ただ今回は、窮地を脱する苦肉の策だ。肉を切らせて骨は断たれずに済んだのだ、と自分に言い聞かせながら席に戻る。
席に戻ると案の定、「お、鼻くそ大王。」と正面の2人がニヤニヤしながら迎えてくれた。極めて遺憾であるが、「変なあだ名付けないで下さいよぉ。」と平和的解決を図った。
「『明日は我が身』なんですよ。バカにしちゃいけません。」
冷めた揚げ出し豆腐を口に入れながら訴える。
「例え鼻くその存在に気付いても、わざわざ言って出て行かないわ。私なら黙って行くね。ガキンチョめ。」
ぐうの音も出ない。ぐう。聖子さんの話はどうなったんだ。気になって仕方ない。
「ところで何の話をしてたんですか?」
そう尋ねると、岡が携帯の写真を見せながら言った。
「この前のローストポーク会の話だよー。」
谷藤宅のレトリーバーに寄り添い、寝ている私の写真だ。聖子さんの話はどうなったんだ。
その体制のまま、▷ボタンを押す岡。
私の顔が、画面いっぱいに写し出された。
何も言わず、△ボタンをカチカチカチカチと押していく。
「半目じゃないすか。誰だこのブス。」
お前だよ!というツッコミを待たずに、通りがかった店員を呼び止めて追加のドリンクを注文した。
不名誉なあだ名をつけられ、半目の寝顔を晒され、隣からは睨みを効かされ、聖子さんの話は聞けないままの今の状況は、圧倒的に分が悪い。おまけに話の流れは谷藤と疑惑の一夜を過ごしたあの日ときた。今のところ、岡の彼氏にローストポークを振る舞った時の反応で持ちきりだ。これ以上話が広がるのを避けるべく、私も気付かれない程度にオーバーなリアクションをし、場を盛り上げた。そして断っておくと、以降の展開について岡が悪い点は微塵もない。
「朝のサラダにかかってたドレッシングも美味しかったです!あれ、どこで売ってるんですか?」
「あれは作ったの、簡単よ?」
ウフフ、と谷藤が笑う。
そうなんですね、今度作り方教えて下さい、と岡が答えたところで、
「イッシー二日酔いで食べられなかったもんね、もったいない。」
そんなに酔ってたんだ、と熊澤が岡の顔を見る。背中に汗が滲むのを感じた。精一杯の愛想笑いを振りまくことしかできない。よりによって、あの日の記憶が曖昧なのが辛い。
「重かったんだぞ、ベットまで運ぶの。」
岡は笑い話をしているのだろう。ただ、私は汗が噴き出して止まらない。
「谷藤さん、水、飲ませてくれたんだよ。それも口移しで。感謝しなよー。」
口移し!?嘘でしょ!?
錆びついたブリキのロボットさながらに、ギギギ、と左隣を確認する。気品と慈愛溢れる笑顔の谷藤と目が合う。
「そうだったんですか、ありがとうございます…。」
いいえ、と穏やかな声で彼女が答えると、テーブル下の太腿に、そろり、という感触と温かさがあった。頭を抱えるふりをして確認すると、彼女の右手が私の太腿の上に添えられている。オイルを挿されたロボットよろしく、出来る限りスムーズな動きで顔を上げると、店内の喧騒に掻き消されそうな小さな声で彼女が言った。
「可愛いかったわよ。また飲ませてあげるからね。」
疑惑が、確信へと変わった。
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