第9話 ネゴシエーター

結論から言うと、その日はそれ以上の深入りはしなかった。時計が目に入ったところで、宇宙の果てで燃え尽きそうな理性が帰還したためである。思い起こすと我ながら「金一封」を差し上げたい程にナイスプレーだったと思う。後ろ髪を引かれまくったのは事実だが…。



「ママ、ストップ!ダメダメダメダメ!」

ママの口から指を引き抜く。彼女はとろんとした目でこちらを見ている。

「これ以上は、今日はダメ。」

「どうして…?」

「私ね、仕事で絡みがある人との火遊びは禁じられてるんですよ。」

小指と薬指に残る、ママの唾液を自分の舌で舐め取る。おしぼりに直通しなかったのは私なりの優しさである。

「そんな…。」

オモチャを取り上げられた子犬のように、落胆の表情を見せるママ。その様子に再び情欲が全身を駆け巡りそうになるも、すんでのところでグッと堪えた。


「申し訳ないです、私ね、おわかりかと思うんですけど、あんまり素行が良くなくて。で、会社の上司、私が多大な信頼を寄せている方なんですけども、その方にクギ刺されてるんですよ。そして誓ったんですよ。『仕事絡みの方とは火遊びしない』と。それが真っ当な恋愛であれば文句は言われないと思いますがね、酔いに任せたこういうのは…。ダメです。上司を裏切れません。」

「上司って、南さん?」

「いえ、南は南で信頼してますけど、違う人です。」

「男の人?」

「…いえ、女性です。」

質問の意図がわからず、困惑する。

「好きなの?その人のこと。」

「いやいやいやいや、ご結婚されてますし、好きとかそういうんじゃ…。」

話が終わらない内に、ギシ、と音を立ててママが私の膝の上に跨がる。

「ちょいちょいちょいちょい!何してんですか!!」

両頬を持ち上げられ、情欲の漂うママを見上げる格好に。

「こんなにしておいて。ここで終わり?」

どんなに?と聞きたい欲求に蓋をする。

「それについては…調子に乗りました。ごめんなさい。謝ります。こういうの、久しぶりで。本当にすみません。」

ママは不満そうな顔でこちらをジトッと見ている。これは誠意ある対応が必要だなと、両頬に添えられた彼女の手を取り、自分の胸の前に包み直した。(あぁ、こんな機会を逃すなんて、なんてこった。今なら引き返せるかもよ?)と脳内で囁く内なる自分に(引き返せない!返さない!)と返事をし、小さく深呼吸をする。


「では、こういうのはどうでしょう?」

「どういうの?」

ママの両手を左手に持ち替え、右手で頬にかかった彼女の髪を耳にかける。

「今日、すごく良かったですよね?私は良かったです。なので、ママさえ良ければまた一緒に飲みましょう。今日、お互いに全てを出し切るより、『もっと欲しい』くらいで止めておいた方が、次に会えた時、今日よりもっと…ね?」

ママは依然として不満なようだ。それでも彼女の耳たぶを撫でながら続ける。

「今日、キスしたわけでも、身体を触ったわけでもなく、その…指だけだったじゃないですか。それなのに、多分私、とんでもないことになってます。今日の余韻でしばらく生きていけそうなくらい、とてつもなくエッチだったし、きっと今日のこと思い出して、1人でしちゃうと思います。ママも同じだったら嬉しい。そしてやっぱり、またママに会いたいと思うし、次はもっと求めちゃうかもしれません。ただ、『火遊び』ではなく、少なくとも私は恋愛感情を持って、貴女と気持ち良く溶けたい。だから、次の機会まで『おあずけ』にしておきましょう。」


納得とまでは言わないまでも諦めた様子が窺えたので、人差し指をママの唇にあてた。

「会えない時間が、愛、育てますよ。」

「古っ。」

両頬をつねられた後、私の身体は開放された。

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