その2
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一向に動かない私たちを見て、賢者様は苦笑した、と思う。
『緊張すんなって。ほら、学院長』
「は、はい!」
『畏まらないで。先がつかえているんだろう?』
「それは」
『学生諸君も、呆けてないでさ』
賢者様は私たちに聞こえるように、気さくに呼び掛けてくれた。
『前の、そう、そこの巻き毛の子からおいで。淡々とやるよ』
そうして
賢者様は一人一人の学院生と二三言ずつ話して、慣れた手つきでどんどん詠唱を授けていく。あっという間に私の前にいた学院生たちが、地上の蛹室に向かっていった。
「じゃあね、ビリー!」
呼ばれたフリーダが元気よく賢者様の方へ駆けていった。
もう幾ばくもない。覚悟を決め直す暇もなく、心臓がいきなり早くなって、混乱すらしてきた。
「次、ビリー!」
先生が私の名前を呼んだ。
急かされているようだった。敷かれた絨毯の上を半分走るみたいに早歩きをして、下を向いたまま、勢いに任せて賢者様の前に躍り出た。
あ、まずい。頭が上がらない。あの怖い人の、前に出たことに気付きたくない。
また息が止まってしまった。
言うことはなんだっけ、学籍番号と、志望と、えっとその前に、この度は、って言わなきゃいけないような。
『……顔を、見せて』
賢者様は私を見下ろして、言った。
何かに気付いて、パッと顔を上げた。
『志望は?』
「ま、魔術師です!」
『わかった』
何に気付いたのか。
この響く声が、優しさを帯びていた気がしたのだ。
存在感は変わらず私を圧迫している。でも、それが嫌じゃない。動かせない手足と体は、導かれるために掴まれているに過ぎないような。
『
賢者様が唱えると、私の胸の少し前の空間に罅が入り、その罅から空気のようなものが漏れ出始めているのを感じた。
『……直方体。歪み正に三・三。エー・ベー・エム・ピー、十二、一、十三、三。最も適性が高いのが魔術師だね。次点が付与術師になり、大きく空けて神官、戦士と続く』
賢者様は深くかぶった
『おめでとう。君は、魔術師になれる』
「あ、あの、それで、お願いします」
『わかった。じゃあこれを蛹室で、諳んじて言ってごらんなさい』
他の学院生と同じようにつつがなく、賢者様はすらすらと紙に詠唱を書いていく。それからぽん、と私にその紙が手渡された。
「次!」
先生が後ろのクラスメイトに向かって言って、私は初めて、
拍子抜けですらあった。とんでもなく張りつめたのにすぐに終わってしまって、終わっていいのかと確認すらしたくなってしまう。後ろから人がやってきていたので、確認より先にどかなきゃ、ということを先行させてようやく、私は動くことができた、はずだった。
『……ねぇ、君』
唐突だった。賢者様はうしろの学院生ではなく私に、呼び掛けていた。
他でもない、私に。
『“声”──が、聞こえてきたことは、ある? 幻聴のようなものと、話したりは』
「い、いえ! ないです、けど」
クラスメイト達が少しざわついた。先生は丸い目をしていた。
「……独り言はよく、言います」
『それはよかった。ごめん、引き留めたね。行っていいよ』
言われた通りに回れ右をして、紙を持って地下の間の出口へ向かう。
周りの視線と、何よりも私自身が妙だった。あんなにも恐ろしかった賢者様と余計な付け足しをするくらいに話せてしまったのだ。
不思議な感触だった。
+
蛹室のベッドで、私はうなされていた。
辛いことは知っていたし、舐めてもいなかった。でも半分あった好奇心と両立はさせる塩梅で、どんなものかと待ち構えていた。
そしてやっぱり、辛かった。
近い感覚は高い熱が出るときみたいで、それよりさらにずっとずっと苦しい。視界はぼやけてよく見えないし音もあんまり聞こえない。頭の中で液体がぐるぐると回っていて、全身の骨の奥がごろごろして痛む。それから周期的に吐き気が来て、お腹の底から催して胃液を吐いてしまう。
呼吸がずっと浅くて深く吸えない。深く吸うと咳と一緒に吐いてしまう。でも酸素が欲しくて何度も何度も息を吸う。
何より辛いのが眠れないことだった。この辛さがずっとずっと断続的に襲ってくるのに楽になれない。もう終わってほしいのに、いつまで経っても苦しいのが終わらない。
あとどのくらいこの苦しい時間が続くのか、もう何時間耐えたのか、時計を見ようと思ってしまって、ぼんやりとした景色の中にそれっぽいものを探した。でも見つからないし、あってもわからない。きっと蛹室には時計はないのだ、と思い当たると、変に安心してしまう。そしてまた痛くて、泣いて、吐く。
心細いったらありゃしない。最初の方は少しくらい抵抗しようと思ったけれど、そのうちお母さんの手を握り返してしまって、それで心底安心してしまってからは、何度もお母さんお母さんと言ってしまった。
少ししたら、他の人が手を握った。代わる代わる声をかけてくれて、お父さんと兄さんなんだとわかった。知らない声も混じっていて、それはたぶん看護師さんだと思う。
そういえば、三年前の兄さんの儀式のときは、私は蛹室に入れてもらえなかったな、ということを思い出した。きっと兄さんはこんな苦しい姿を下の兄弟たちに見せたくなかったんだと、今になってわかった。
足音が聞こえて、何人かが蛹室を出て行った、気がする。お母さんだけは変わらず残って、ずっと手を握ってくれていた。
まだまだ苦しいままで、痛みと気持ち悪さは収まってくれなかった。
+
もうどのくらい経ったのか、ずっと昔から苦しんでいて、これからも苦しみ続けていくような、そんな気分にさえなった。目も耳ももう何もわからないくらいぼんやりして、痛いときだけ体を感じる。お母さんの声も聞こえなくなった。
暗くも明るくもない、なんにもない中で、たった一人、ずっと苦しんでいる。
思い出すようだった。
お母さんとお父さんのこと、兄弟たちのこと、きっと人生で一番長く過ごしている部屋の景色、学院に入ったときの胸のときめきと気怠さ、意地悪なんだかノリがいいんだかわからないクラスメイトたち、ちょっとイジメられた気がしたのに、翌日にはそうでもないような気になって、なんとなく解決したようなことも。
とりとめがない。離散的なのに変に繋がっているような感触がある。ふわふわしていて、ガンガンしている。
喉と頭が痛い。叫んでいるのかわからないけれど、休んで、痛くなって、子が寝るたびに起こすみたい。
蓋をした何かがあった。良いものでも悪いものでもなくて、言葉を覚えていなかったから、名前が付かずにただ澱となっているだけの何か。
ふと、お母さんの手が離れた。手を拭いたのかな、と考えたけれど、思ったより離れている時間が長かった。
掴み損ねた気がして、飛躍して、悟ってしまった。
きっと、今日、ここで、死ぬ。
受け入れる自分もいた。こんなに苦しいのなら全部失くなっていいような気さえした。
苦しみまでがぼんやりして、外と内の境がわからなくなって、侵食されていく。この世界には辛いことしかないんだと思う。
伸ばした腕を最期に、離そうとした。
もっと前にこうなるはずだった。こうなって欲しかった。誰かが繋いでくれて生きてきた。宙ぶらりんになってしまって、糸が切れたのなら、あとは落ちるだけ。
遊離していく。元の場所に戻っていくような安心感すらあった。
──ああ、これできっと、楽になれるんだ。
それを、ひんやりとした手が捕まえた。
ぎゅん、と体に引き戻されて、感触があった場所から輪郭が戻った。
強くなったり、弱くなったり、探り探りをするような手だった。人の手の握り方がわかっていないんじゃないかとも思った。
それは無遠慮で、でも優しいようで、強引な気もして、懐かしいような記憶もあって。
「頑張れ、ビリー」
すごく、不器用な手だった。
+
儀式が終わって、体調を整えて、普通の子だったらいろんな魔術を夢中になって試す頃だ。でも、私が最初にやったことは違った。
ある人の家を、訪ねようと思ったのだ。
その家の裏でずっと待った。夜になっても待った。灯りが点いたときにはもうすっかり外気に体温を奪われてしまっていた。
躊躇ったけれど、他に仕方もないと思って、勢いつけて扉を叩いた。
ガチャ、といとも簡単に内側から扉は開いた。
「おや、ビリーちゃんじゃあないか。どうしたんだい」
「あのっ、スーちゃん!」
出てきたのは、私がスーちゃんと呼んでいる人だった。
スーちゃんはお母さんの親友である。ときどき我が家にも来ていて、私の遊び相手をしてくれたことだってある。ちょっとだけ、私と仲が良いと思う。
背はちっちゃい。お母さんよりも、私よりも。私のクラスにいたら一番前の席に座らされると思う。でも顔はそんなに幼くはない。普通の大人の人か、お姉さんという感じ。化粧っ気は全然なくて、長く後ろに流した髪型さえ違えば、もしかすると男の人に見えてしまうかもしれないくらいの中性的な感じがする。
彼女について詳しいことは何も知らなかった。お母さんの謎の知り合い、気さくで変わり者のお姉さん、ただし昔もお姉さんだったのでもしかすると実年齢はおばさん、職業も不祥、友達はたぶんいないか少ない、そんなところである。
本名すら怪しかった。本人曰く素敵なスーちゃんだそうで、表札には本当に「スー」とだけ書いてある。じゃあ素敵なスーちゃんではなくてただのスーちゃんじゃないかと思うけれど、でも、そうじゃないことを、今の私は知っている。
「はいはい。あー、そうそう、聞いたよ。儀式が終わったんだってねお疲れ──」
「七十四代目賢者の、ハイデマリーさんとお呼びした方がいいですか!?」
スーちゃんは目を丸くして固まった。
「……まぁ、入りなよ」
+
この家には久しぶりに入ったけれど、前に入ったときよりずっと散らかっていた。案内された居間も、足の踏み場は獣道みたいにだけ残されていて、あとは書類とかよくわからないガラクタとか鉢植えが散乱している。
スーちゃんは私をソファーに座らせて、自分はテーブルの方に浅く腰かけて、脚を組んだ。
「そうだね、まあまずは、認めよう。そうとも、私の本名はハイデマリー。ハイデマリー=リョーリフェルドだ。第七十四代目賢者その人だね、ほら」
彼女はこほん、と喉を鳴らした。
『こんな感じ、だったかな?』
地下の間で聞いた、響く声だった。詠唱と会話の間、魔力を帯びた声だ。彼女に従って空気は揺れ、本が浮かび上がって整列し、『ご明察』という文字を作った。
こんな魔力操作、普通の人間にはできない。
「隠して、ましたか。聞いちゃった、けど」
「隠してた……といえば、隠してたかな。一応日常生活では『スー』で通してる。あんまりハイデマリー、って言われてしまって振り向かれたら嫌だからね。でもラウラとか、よく行く店の店員とか、昔からの知り合いは普通に知ってるよ。越してきてからはわざわざ言わないようにはしてもらってるけども」
「そう、だったんですか……」
「で、聞きたいことは、なんだい? めくるめく冒険譚でも語ってほしいのかい」
そう言う彼女からは、いつもの飄々とした雰囲気とは違う、地下の間で見たような威厳を、ちょっとだけ感じた。
自分から追及した今でも信じられない。この人が、このフィールブロンの支配者の一人である賢者様だなんて。
確かに背格好は地下の間で見たまんまだ。声だって、気付いてみれば響いていただけでまんまスーちゃんの声だった。
「あの、聞きたいことが、あって」
「おやおや、なんでも聞いてくれていいけど、答えられないこともあるぜ? なんてったって私は偉い偉い賢者様だ」
「えっと、あの、その……」
あんまりにも普通に話せているのがおかしかった。
あの圧倒的な威圧感は、意識して出していたものなのだろうか。それとも今、私がいるから抑えてくれているのだろうか。
昔からうだうだ理屈を並べたり人の話をまるで聞かなかったり子供の前でも平気で我儘を言うスーちゃんと、地下の間で見た賢者様と、どちらが本当の彼女なのだろうか。
儀式のときに私に話しかけてくれたのは、何か特別なことがあったのだろうか。
たとえば、親心、みたいな。
スーちゃんが賢者様だったことのそれ以上に、私にとって重要なことがある。今日ここに来た本題が、ちゃんと。
跳ねる胸を抑えて、ゆっくりと、呟いた。
「……お母さん?」
「……ぐふっ!?」
スーちゃんは落ち着いて挑戦的な表情から一転、ビクッと肩を震わせた。
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