第70話 賢者とその人

 この時計台に来てからは何度も見た顔だ。


 年中変わらない黒と金の装束に、生き物らしくない白髪がだらりと下がっている。

 全体的に生気が欠けている癖に人を上から小馬鹿にするような態度だけは屹立していて、終始訳知り顔を崩さない。


 総じて、腹立たしい。壊すものがなくなって、暴れ疲れたころにやってくるくらい間を見計らえるのもより一層癪に障る。


 ぶん殴ってやりたい顔をもう一つ増やす余裕はないので、背を向けて座り込んでやった。


 考えるのも疲れてしまった。


 最初からおかしかったのだ。

 私はそもそも自由になりたかった。自由に動く手足がほしかった。それだけだったはずなのに、知らず知らずのうちに何か変なものが介入をしていた。


 その介入がたまたま目的と重なっていたから、今までは考えなくてよかった。


 でも、その介入が何か私の道を邪魔するものであるならば、それは私を不自由にしていたものとなんら変わりない。



「……もういいよ。ハナから私はどうでもいいと思ってたんだ」



 こんな面倒くさいことなんてすべて切ってしまえばいいと思った。その方が楽で自由になれるに違いなかった。


 現にそうしてきたのに、どうして例外を作っていたのか。



「人との繋がり、なんてさ」



 そう零して、黙った。


 先代は私を見守っていた。視線に生温かいものが混じっている。


 やはりこの人は、何か言いに来たらしい。


 黙って主張をしてくることにまた腹が立つ。まるで他に心当たりはないのか、と聞いてきているみたいだ。


 この人たちが口出ししてくることは、だいたいが何かの確認になる。二言三言話して、問題がなさそうならさっさと帰っていく。そうではなくて、去らずに私の言葉をゆっくりと待つようであるのなら。


「……弁解していい?」


「どうぞ」


 たぶん、私は今、浅いことを言った。


「私はさっきの言葉に、迷宮潜ラビリンス・ダイブさえできればよかった、冒険にさえ出られればよかったって続けるんだ」


「はい」


「そしてあなたは冒険とは何か、と返す」


「そうですね」


「私は未知の場所へ向かうこと、と言う。そしてあなたは未知とは誰にとって未知か、と返す。それから私は、私にとって未知だと言おうとするけれど、それでは本も読まず地図も見ずに知らない場所に出かけることで満足しない説明がつかないことに気づいて、私の周りの共同体にとって未知だ、と返さざるを得なくなる」


「正解です」


「未知、つまり誰も見たことのないものを見る、という時点で〝誰か〟、つまり他者を意識してしまっているんだ。私たちはどこまで行っても、他者と相対化することでしか世界を捉えられない」


「よくわかっているじゃないですか。五年、下手をすれば何十年か縮めましたよ、今」


「うるさいやい」


 ようやくちらと先代の方を横目で見た。


 思った通り、ニヤニヤしていた。


「……私と似たような賢者は、いたの?」


「二代目ですね。冒険心アーベンティアを己の由来と定め、他者との接触を断ち、たった一人で迷宮潜ラビリンス・ダイブに臨み続けました」


「結果は?」


「第五十五階層で遺体が発見されました。拠点があった場所には詳細な手記が残されていました」


「その手記はちゃんと読み物じみていたわけだ。他人が読めるように」


 背の向こうにいる先代は、そういうことですよ、という顔をしているに違いなかった。


 この人の話し方はいつもこうだ。言外に重きを置く。言いたいことは相手に言わせる。


 悲しいことに私には、それが理解できてしまう。


 大きく息を吐いた。


「落ち着きましたか?」


「……うん」


「やはり踏みましたか、同じ轍を」


 これは、“轍”だ。


 私はようやく立ち上がって、先代の方に向き直った。


「私もそうでした。集団としての人間の心はどうにでもなる。それは現象であるから。傾向があるから。時流と利益さえ正しく見通せれば、再現性があるから。けれど個人の心だけは、どうにもならない」


 先代は憎たらしい口角を少し緩めて、こころなしか小馬鹿にした態度を抜いて、言った。


「特に、賢者が見初めるような強烈な個を持つ者ならね」


 それはまるで、私に自分を重ねて恥じらうような微笑みだった。


「先代たちも、そうなんだね」


「ええ。我々はみな人間性を持って生まれてくる。それでも孤高に生きるがゆえに、逃れられない人との繋がりを強烈に求める。そうして、出会いさえしたならば、その人に強く執着する」


「……そういう習性みたいなのは嫌なんだけど」


「誤解しないでください。不意に与えられた抗えない本能みたいなものではありません。賢者は“である”者ではない、徹底的に“でない”者が賢者なのです。そして、“でない”者の生き様を突き詰めたとき、導かれる必然性というものがある」


「必然性?」


「ええ。善い両親であっても好意的に思えないだとか、集団の教育に馴染み難いだとか、そういったことの延長線上の話です」


 あなたもそうだったように、という文が言外に含まれていた。


「……見てきたように、言うね」


「見なくてもわかります」


 私が言葉に窮するまでもないくらい、断言されてしまった。

 調査しようにもできる類の話ではないのに、なぜそこまでわかるのか。一致してしまうのか。悔しいけれども、そうなのだから理解せざるを得ない。


 まったく、賢者にとって賢者というものは他人然としていない。



「ハイデマリー。愛い我が同胞よ」



 先代は珍しくも畏まって、言った。


「これは試練ではありません。乗り越えるものでもない。消化したり、糧にするものでもない。処理をしたり、なかったことにできるものでもない」


 これは、あの日と同じ喋り方だとわかった。

 運命を分かったあの孵化の儀サフ・アで、依り代に宿って大層に登場したあの日。


「ただただ、あなたにとって大事なこと。あなたが選んだ、あなたを過去から未来に渡って構成すべきもの」


 代表しているんだ。単に七十三人目ということではなく、継承してきた、七十三代目として。



「だから、後悔のないようにね」



 この言葉にはきっと、いろんな意味が詰まっている。


 偉そうな先輩風には違いない。ほんの少しだけの抵抗は、腹の底に残しておこうと思った。


 先代も柄にもなく苦笑しているので、それで正しいんだろう。


「……ちなみに、あなたはどうしたの」


「私は食べました。彼の心は未だ、私の胎内にあります」


「うわ、気持ちわるっ」


「言いなさんな。個別の文脈があるんです」

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