第21話 迷宮へ
まるで山の向こうにある海のそのまた向こうを指すような、遠い遠い響き。
知らぬ者はない。いろんな言われ方をする。
──太陽と大地、山と海、それから川、私たちに恵みをもたらしてくれる源。だけどこの世の果てにはもう一つ、豊かな富と財宝を湛えた源がある。
大陸の端、王都から遠く離れた辺境の地にあるフィールブロンは
時代さえ超えた話を聞くものだから、そこに行こうだなんて思いもしなかった。
たとえ子供でも、二人になれば状況は違った。
お嬢様より頭一つ分くらい小さい俺がいると、かえって彼女が大人に見られることがあるみたいだった。単純に目が増えて隙がなくなることと合わさって、どうやら訳ありらしいと交渉が成立するようになった。
途切れることなくガタガタガタガタと荷台が揺れ続けている。
まだ、胸が早鐘を打っている。
乗ってしまった。
激しい後悔の予感があった。
今まで俺が帰らないなんてことはなかったから、確実にお嬢様と一緒だと思われている。
コリンナ叔母さんから見れば裏切り行為だ。
どこまで怒られるかわからない。殺されるかもしれない。
もう引き返せない。今すぐ荷台を跳んで降りて帰っても屋敷に戻る頃には朝だ。
だけど、なんだろう。
遠ざかれば遠ざかるほど、安堵が湧き上がってくる。
快い。荷台に叩かれて浮かぶたび、弾むようだ。
譲ってもらえたのは一番揺れる荷台の端。毛布を下に敷き、二人で壁に手をかけて、景色を眺めていた。
彼女は疲労困憊のはずだ。入念な計画を立てて、生まれ育った土地を一人で抜け出して、子供ではありえない距離を歩いて。それも緊張の連続で、なんにもない、誰からも気にされない俺と違って、追われる立場で。
だけどその目は爛々と輝いていた。
不思議で仕方がなかった。
「お嬢様は、その」
ついてきたのは俺だけど、まるで連れてきてもらったみたいだった。
普段の俺じゃありえない場所に、一日で来てしまった。
「ハイデマリー」
彼女はぶっきらぼうに言った。
「え?」
「お嬢様なんぞ言われたかないんだよ。名前で呼べ」
「あっ、その……それは」
「あのお父様が寄越したものってのは腹立たしいけど、それでも私を示す固有名詞なんだ」
いろいろ、考えたことがあるみたいだ。問いを繰り返した跡があった。
「……じゃあ、ハイデマリー様」
「様はいらない」
「……ハイデマリー」
「よし」
乗り合い馬車がまた砂利を踏み始めた。
*
フィールブロンは相当遠い。馬車を乗り継いで乗り継いでも一週間で着くかわからないくらい。となれば旅費も節約しないといけないので、野宿なんてことも初日から当たり前になってくる。
一日目の夜は、町なんて視界のどこにも見えない山麓で泊まることになった。
観光というわけじゃないから、御者の人もこちらに気を配ってくれない。まるでもらった駄賃の分しか仕事はしないよ、と主張するみたいに、ぶっきらぼうに「ここに泊まるよ」と言って、停車した。
その流れで荷台の留め具も外されて、乗り合った客は全員降りて、それぞれ急ぐように平らな地面を探し始めた。
ど、どうなるんだろう、これ。
俺も流れに任せて寝る場所を探すものの、お嬢様──ハイデマリーとはまったく別々で寝るのかどうか、それとも一応近くで寝るのかどうか、従者として振る舞うのが正解か、友人の延長で振る舞うのが正解か。
チラチラ彼女の方を見ながら、何を言い出してもいいようになんとなーく二人分に見えなくもないくらいの雰囲気で、とりあえず場所を確保する。
「場所、借りるぜ」
するとすぐさま、彼女は俺からちょっと離れた隣に座って、薄い毛布を畳んで枕にして寝転がってしまった。
*
まず目指すべき交易都市まで、ひたすら馬車を乗り継いでいった。
「お嬢ちゃんたち、お疲れさん」
馬車が止まった。
この御者さんは気のいい中年の男性で、軽く会話をしながら俺たちを運んでくれた。乗り合い馬車と言っても、こんなところまで来るのは俺たちだけだった。
「こんななんにもないところで、何をするんだい?」
「……へへへ。その、ありがとうございました」
最後の停留所、最果ての駅。
だだっ広い岩場と畑が交互に並んでいる先に、地平線を遮る盛り上がり、なだらかな山が見える。
その裏にあるのが、交易都市。
交易都市北西側に大きく門を開いているから、リョーリフェルドから見た南東側と直接結ばれた路線がない。となれば、一番近い停留所から歩かねばならない。
その距離、子供の足では丸一日以上。馬鈴薯の運搬でもない限りここを迂回するのはむしろ悪手らしい。
三日間ずっと馬車に体力を削られて、慣れない衛生環境で体調もぐちゃぐちゃで、そんな中自分の足だけで最後のひと踏ん張りをしないといけないのだ。
それでも、最短距離。
「よーし、行くぜ、ヴィム」
ハイデマリーは指を山に向ける。
見えているから、近いようにも思える。だけど多少歩いたことがあるならわかる。
あそこは圧倒的に遠い。地平線をぶった切って鎮座しているというのはそういうこと。きっと麓はもっと広いのに見えていないだけだ。
近いと思って失望しないように、できるだけ予防線を張る。
俺はゆっくりと首を縦に振った。
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