第29話 紙一重
この心地を何と説明すればいいだろう。
時間の感覚が狂うというか、景色がゆっくりになる。
そうだな、両手両足が利き手になった感じがあるし、きっと両手で書き物をしたりできるんじゃないかな。
今なら天下無双の曲芸師になれそう。
髪の毛から体毛に至るまで全部を動かせそうな感じもする。神経通ってないからそれは無理か。
攻撃が来る。
「死んだかな、これは」
こんなもの、無事でいられるわけがない。
受けるのなんて論外。
逃げの一択。躱すしかない。
でも躱しきれるはずもない。
──躱せたとしたら、それは十万回に一回の奇跡ってものだ。
俺は弱いから、同じ敵に挑むしても、根本的な発想がカミラさんみたいな強者とは異なる。
強者は基本的に負けないように出力を上げて手数を増やす。
十回中十回勝てるように鍛錬する。
しかし俺みたいなのは違う。
十万回に一回の偶然を、その瞬間に持ってくることに全力を注ぐ。
弱者の戦い方はそれだ。
そう定めたのが転機だったと思う。
俺の付与魔術の根幹。限られた魔力を使って、限られた強化を、最低限の時間、最小限の部位に、最高のタイミングで、できるだけ多く付与する。
成功するんじゃない、成功させるんだ。
十万回に一回の奇跡を拾い続けろ。さもなくば死ぬ。
「『
なんてゆっくりなんだろう。
いつもの二十倍の密度の
筋肉の一つ一つが手に取るように感じられる。
最適な動かし方、最良のタイミングがわかる。
千分の一秒単位、筋肉の一本一本の単位をすべて自覚する。
連続して強化を合わせることができればほとんど魔力は消費しないはずだ。
ああ、まるで自分の体と脳を切り離したみたいだ。
頭で考えたことを体で実行するというプロセスが明確になっている。理想がはっきりしている。
いっせーのでタイミングを合わせ続ける作業。
失敗したら手足はぽっきり折れる、という事実が他人事みたいだ。
脳が速く動けば、直結した視神経も速く動く。聴覚も過敏になって段違いの情報を拾えるようになる。
視界の情報全部を記憶して、動きを予想して、チカチカする。ピカピカ光る。
隙間なく均等に、全方位から触手が迫り来る。
まず一本の触手を
当然追撃はかかっているので、今度は跳んだ勢いを空中で、右脚の反動を使って殺す。
無茶な挙動だが、大丈夫。一番骨と筋肉に負担がかかる極々一瞬だけ『硬化』させれば怪我なんてしない。
俺が物理的に難しい空中での急停止を行なったことで、目測を誤った触手が脇を抜けていく。
横をのんびり抜けてくれる触手なんて、踏み台にしてくれって言っているようなものだ。
いや、位置が微妙か。でもいけないことはない。
右膝が肋骨に付くくらい股関節を広げて、そこから一気に蹴る。
普通は脱臼する角度だが、極々一瞬だけ靭帯の弾性を上げれば問題ない。
そして飛び込んだ、触手の隙間。
着地は水を避けて手頃な触手の上。
攻撃を担う先端部はすべて後方。
がくんと前にこけそうになるが、むしろ勢いにしてそのまま綱渡りしながら前進する。
「ハハ!」
やった!超、超低確率を抜けた!
すでに何百万分の一のタイミングを合わせた?
もうわからない。でも、まだだ、まだ死ぬ。
まだ〇.〇〇一でもズレたら、判断を一つでも間違えたら、その瞬間骨折して触手に袋叩き。
こうしている間にも触手の間を渡って蹴っていかないと水に足を取られて終わり。
躱し続ける。跳び移り続ける。速度はこちらが上。後手に回った瞬間死ぬ。
どうだ、来るか? 次の手はなんだ? 触手増量か?
構えようとしたが、
体表に何かが生成されるような魔力の色が見えた。
これは、水の刃だ。触手と併用するなんてなんだそれ。
明確に意図があるに違いない。
きっと触手攻撃では捉えられないと判断された。なら、相当速いんだろう。
狙いが決まった。と同時に水の刃が射出された。
やはり速い。しかも刃渡りが相当ある。
そんでもって水平ではなく中途半端に斜め向きに回転しながら射出されている。
回避なんてできない。でも奇跡が起これば避けられる。
だから、避けた。全部完璧にやった。
目で見て回転を捉えて、首付近に擦りそうになった部分は
わずかに方向を転換させて、後ろに迫っていると予想される触手への迎撃に利用する。
こんなのもう一回やれって言われてもできない。
後ろで音、というか振動がした。予想は合っていたらしい。
「見えてる! 見えてる! ハハッ!」
気付けば俺は
デカい。壁みたいだ。ちょっと傷つけたところで、少年が一人スコップを持って山を削るのと大差ない。
そこでもおかしな挙動を感じた。
同時にさっきのカミラさんの『巨人狩り』が回避された記憶がフラッシュバック。
こいつ、跳ぶぞ。
空中に浮いてくれるなんて、そんなの隙以外の何物でもない。
すかさず下に潜り込んだ。ここは足か? 蛞蝓なら、腹足とでも言えばいい?
斬り上げる。
掘るように何度も斬り上げて、邪魔な肉塊は切除する。
目指すは何やら渦巻いている内臓みたいな器官。
いける。まだ浮いている。まだ斬れる。
気付けばすっかり体内だ。
このままこいつが着地するまでに脱出しないと、着地と同時に衝撃でミンチにされる。
でも大丈夫。失敗さえしなければこの体内を斬り破れる。
拾い続けろ、何万分の一の低確率を。死と隣り合わせってのは、まだ死んでないってことだ。
◇
「なあ、あれは、なんだ?」
それを言ったのは誰か、ジーモンか、マルクか、いや、全員だ。
誰もがヴィム少年は気が狂ったと思った。
団長である私の決死の囮作戦に、言葉ではなく行動で異議を示した。
たった一人で、しかも付与術師が
並大抵の
そんなものに突撃するなど、自殺以外の何と言い表そう。
私は困惑した。
ある者は止めようとした。ある者は救出しようとした。怒りを表す者もいた。
しかし、あれはなんだ?
たった一人で
目で追うのが精一杯で、それでも見失う。
どうなっているんだあの挙動は。跳んだり跳ねたりしているはずなのに、自由落下している時間が一瞬もない。
空中での姿勢制御のあと、あれは何を蹴っている? 敵の攻撃を利用しているのか?
人間の動きではなかった。
まるで
圧倒的な質量による蹂躙を、一髪の隙間を縫うように潜り抜けていく。
あんな挙動、無事でいられるはずがない。魔力も肉体も保つわけがない。
それでもヴィム少年は止まらなかった。
成立しないはずの危うさを、奇跡のような神業で渡りきっていた。
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