4-03 渙然

 不思議な感覚だ。意識が遠のいたわけではない。記憶を失ったわけでもない。怒り、悲しみ、喜び、恐怖、興奮、悦楽……。様々な感情のうちから、怒りと興奮だけをごっそり抜き取られた感覚だ。

 いまでも、残穢蝸舎で聞かされた話は記憶している。そこで嘔吐えずくほど不快な気分になったことも覚えている。しかし、いまは不思議なことに怒りの感情はない。大方、気の毒だなくらいにしか感じない。まるで、あのとき怒り狂い春官に対する罵詈讒謗ばりざんぼうを浴びせたのは、同姓同名で見た目もそっくりな『霜鳥航さん』という別人の所業であったかのように思えるほどに。


 ひとまず俺は、これまでどおり第二軍、つまり他州との折衝部隊の任務に戻ることにした。地州の折衝に戻れ、と。

 しかし、果たしてうまくいくのだろうか。真教国の裏の顔を知って、煮え滾っていた怒りと興奮だけが抜き取られている。そんな状態で地官大司徒に話ができるのだろうか。

 状況は分かっている。地州は危ない状況にある。しかしながら、その危機感が共有できない状況なのだ。どこか他人事のような。


 ちなみに華波さんは今回はいない。何と俺一人だ。俺だで良いのか、と思わず突っ込んでしまったが、実は俺が囚えられた間にも幾度と春州は攻撃を受けていたらしい。明日佳率いる第一軍と夏州の援軍で何とか持ちこたえているらしいが、状況的には結構危険らしい。あれから第一軍の3分の1が削られてしまった。


 馬車はまた鵷鶵えんすう宮にたどり着く。これで何度目か。新鮮さはない。

「来たか。残穢蝸舎は見てこられたか」一応、春官大宗伯の名でしたたられた書簡を持っていたが、渡さずとも大司徒は俺を招き入れた。仮面は外されている。主人格、福士寧の顔だ。

「はい」その後をつなぐ言葉が出てこない。

「それでもそなたはこの真教国くにを護ろうとするのか」

 俺は一瞬考えた。それが賢明な選択肢なのか否か。

「分かりません。俺は残穢蝸舎を見ました。はっきり言って、虫酸むしずが走るほど不快で到底受け入れられるものではありませんでした。しかし──」

 そこから先は誰かが俺の声帯を借りて、別人が喋っているようだった。

「合理的な判断だと思います。繁栄には犠牲はつきもの。それこそが発展の原動力であり、真教国ここを支え、ゆくゆくは世界の人類に進化をもたらしましょう」

 嘘だ、やめろ、と俺は思った。こんなに冷酷ではない。むしろ無視できないほどの犠牲は、俺が最も忌み嫌っているものではないか。

 大司徒は黙ったまま、こちらを見ている。その顔に表情はない。

「障害を持っていても、確かに生きようとする真っ直ぐな意志を見ました。むしろそれを称讃すべきでしょう。日本でもグループホームという制度があります」

 やめろ、と心の中で叫んでも、身体が言うことを効かない。

「ここで私憤で以て残穢蝸舎に住まう人の人権を護ろうとして、万の人が死ぬことと、このままの世界を維持しようとして、数百の人が死ぬことと、どちらがいいのか。残念ながら俺は後者だと思います」

 もっともらしいことを言っているが、本音はまったく違う。

 華波多真教国はよくできているようで、問題が山積していると思う。多くの尊い命が、そして尊厳が犠牲になって、その上に成り立ったコミュニティだ。そんな社会は是認できない。

「それはそなたのまことの心か」

 掌の房中術によって支配された自分と、それに抗おうとする自分が、せめぎ合っている俺にとっては、この声が鋭い槍のように胸の奥に突き刺さった感覚だ。

 そして、大司徒、福士寧の瑠璃色の美しい瞳は、俺の迷いと悩みとその奥に潜む真意を見透かしているように思えた。

「いえ、違います。いまのは俺の中にある偽りの心です」

 その瞬間、俺を支配していた何かが溶けていき、ようやく身体が言うことが聞くようになる。と同時に、俺の中で溜まっていた本音が溢れるように口から押し出されてきた。

「残穢蝸舎の人たちの尊厳は護られなくてはならないです。そして、人体実験なんてあってはならない。綺麗事に聞こえるかもしれないけど、いくら遺伝子改変で優秀な人間ができても、同じくらいかそれ以上の不幸が生まれていては、本当の意味での発展、進化じゃありません。むしろ、格差を助長し、上に立った者は、下を生み出すことで、自分の地位を確認し、それを護っているような行為にすら感じます。デザイナーズの大司徒にこんなことを言うのは、失礼極まりないかもしれないし、それこそ不敬罪にあたるかもしれない。でも俺の本音はそうなんです」

 言ってしまった。デザイナーズの前でデザイナーズを否定する発言。掌にぶつけたときには、房中術を使って俺を洗脳するという仕打ちにあった。

 大司徒はどうだろう。福士寧はフッと口元を上げた。

「よくぞ言った。全面的にそなたを支援する」

「えっ?」何らかの処罰を覚悟していたが、正反対の対応に驚きを禁じ得ない。

「春州に手を貸そう。可能ならすぐに春官大宗伯殿と会って話をしたい。秋州は罪人の処遇に慣れているから武道の手練てだれが多いし、冬州は言わずもがな武器を供給している。加えて春州の庶人や士が秋州に流れているとしたら、夏州の援軍があっても春州の苦戦は必至である」

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