3-10 蝸舎
「ありがとうございます」俺と華波さんが深々と頭を下げた。
「春州はどうなっているんだ?」
「秋官の死をきっかけに、秋州が兵を挙げて、おそらくは冬州と手を組んで、春州を攻め入っています。秋州に与するように激しく要求し、抗う者を皆殺しにしているようです。夏州に助けを求めてますが、禁軍は動かせない。それでもそれ以外の夏州の衛士の援軍が来てくれて何とか
「なるほど。それでそなたたちは、地州に助けを乞いに来られたのだな」
「左様でございます」俺も緊張のあまり、使い慣れない丁寧な口調が勝手に衝いて出てきてしまう。
「しかし、そなたの話だけでは、すぐに助けを出すかどうかは判断しかねる。まず、秋官が死んだのは
これについては掌が自ら手を下したと言っている。俺はそのことに違和感を覚えているが、その真相については不思議と話題にならない。具体的にどのように殺害したかも謎に包まれている。
俺は、このことを正直に話して良いものか。春官が手を下したことは、客観的に見たら
「た、大宗伯は、自分が大司寇殿を
しかし、次に大司徒の口から出てきた言葉は意外なものだった。
「大宗伯殿は、確かに大司寇殿と対立する場面があった。でも殺すほど大宗伯殿は愚鈍ではない。にわかに信じがたい」
「それはどういうことでしょう──」
しかし、その質問には答えようとせず、話題を切り替えてきた。
「ところで、そなたは真教国で生まれ育った人間ではないようだな?」
「はい、私と隣りにいる華波さ、いや
「ここに来たことをどう思うている? 入信を後悔していないのか? ここを出たいとは思わぬのか?」
そう言えば、いつの間にかそういうことを考えることを止めていた。何でだろう。脱出できないと諦めていたのか。それともこの生活がどこか心地いいと思ったのか。
「あたい、あ、いやわ、私は帰りたいです」華波さんが答えた。「ここに入信するつもりは実はなかったっす。訳も分からず日本語も使わせてもらえなくて、農民のようなことをさせられて……。本当はツレを探しに来ただけなのに、結局見つけられず、大夫には召し上げられたけど」
「そうか、胎娥か。懐胎の情調があるのは気のせいではなかったのだな」」
大司徒はすぐに華波さんが胎娥であることを見抜いたようだ。短い間に庶人から大夫に昇格することは、胎娥以外にないのだろうが、でもそれだけでないような気がする。何か外見だけで察していたような。
「そなたは倭国には戻りたくないのか?」大司徒は俺にも問うた。倭国とは日本のことだろう。
「正直、戻るという選択肢を忘れていました。いつの間にか何となく
いまでも不思議な感覚である。通常なら文明は大昔のままで、奇妙な身分制度があって、身分が低いと日本語は使えなくて、行動可能範囲も著しく狭い。しかも戦争すらある。物理的には目と鼻の先には、つい最近までいた日本があるのだ。帰りたくないわけがない。何でそこまで強い帰国願望が働かないのだろう。
「そなたは自分の強い意志でここに残ろうと思ったというわけではないのだな」確認するように問う。
「ええ」
その次の彼女の言葉は意外なものだった。
「それであれば一度考えを改められたほうがよろしかろう。ここで何が行われているかをその目で確かめられたい」
「どういうことでしょう」
「まだ真教国は良くも悪くも、いやどちらかと言うと悪い意味でそなたには知らない世界が多いと思われる。大宗伯殿のご寵愛を受けるのは結構だが、太平な倭国から来られた人には到底許容し難い世界があるのも事実。信者の獲得に躍起になる者がここには多いが、妾はそれは良くないと思うておる。妾も運良く恵まれた身体で生を
意外な言葉であった。俺はもうここを出ることはできないと思っていたし、事実そうなのだろう。その上で大司徒は考え直せと言う。
大司徒は続けた。
「それを確かめられた上で妾の協力を乞いたいのなら、もう一度来るがよろしい」
「あ、ありがとうございます」俺は一度礼を言ったが、最後に聞きたいことがあった。「なぜ、真教国を繁栄させる立場にある大司徒様がここまで仰ってくれるのでしょう。天公様のお告げでしょうか?」
「いいや」一呼吸おいた。「妾は、妾の、
地州の協力を得ることはできなかったが、まだ可能性はある。何と言っても、大司徒が仮面を外すのは、主人格が表出しているときらしい。仮面を被っているのは、天公様の言葉を借りているときとか、伏魔大帝が憑依したりとか、そういうときらしいのだ。福士寧本人にまだ可能性を残してもらえているのは光栄なことだ。
しかし、気になる。俺たちは、「見に行って来られよ」と言われた場所に赴くことになった。秋州とか天州とかだったらどうしようと思ったが、幸いそれは、夏州にあるという。でも大司徒の話からして嫌な予感がした。本当は見せたくはないものなのだろう。
俺は叡さんの態度が若干気になっていた。俺が大司徒と話し始めてから叡さんは
「叡さん、
「お、俺はよくは知らん。他の州だからな」
どこかお茶を濁すような感じに見えてしまうのは俺だけだろうか。
外の景色はだんだん暗澹としたものになっている。人気がなく寂れているのだ。夏州も州府や軍のあるところは活気があるが、大部分は庶人が暮らす寂寞とした土地である。しかしそれでも人はいるものだ。ここには人がおらず、誰も踏み込まない場所のように見える。
30分ほどすると馬車は止まった。
「着いたようだな」
馬車の外を覗いてみると、黒くて荒廃した、しかしながら大きな建物が見えた。大きいと言っても高さがあるわけではなく、水平方向広がりを見せている。あたかも、建物で外界と隔絶しているかのような。
「刑務所みたい」そう漏らしたのは華波さんだ。
いつしかテレビで刑務所の外観を見たことあるが、それよりもどこかおどろおどろしい雰囲気がする。かすかに苦しそうな呻き声と怒号が聞こえてくるのだ。
俺は息をごくりと呑んだ。隣にいる叡さんは大して熱くないはずなのに、汗をかいていたのが気になった。
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