2-07 陰陽

「わ、た、る……?」

 その光景を見た俺は、狭い自室の壁に押し付けられるようにして後退した。

「な、何してるんだ……!!?」

 そこには一糸纏わぬ姿の秋澤明日佳が立っていたのだ。

「おねがい。何も言わずにあたしの言うことを聞いて」

 そう言うと、彼女は俺の身体の上にまたがるようにして俺に口づけてきた。


 高校一年生で、まだ16歳になったばかりの俺。当然初めての経験である。異性の裸体を何も通さずに見るのは、記憶にある限りない。

 しかし、いままで見たどんな画像や映像より、眼前の幼馴染みの生まれたままの姿は息を呑むほど美しかった。

 明日佳に導かれるように俺も同じような姿にさせられる。

「こんなことするあたしのこと嫌い?」

「き、嫌いじゃないわけないだろ? 俺だって男だ」

「それじゃ、ただエッチが好きみたい」

「違う。確かに俺は下野掌しものつかさに恋をしたけど、ここに来てからは、明日佳のことが好きだ」

 これは俺の本心だ。

「それなら良かった。でもあたしだって緊張してる。優しくしてね」ランタンの炎で優しく照らされた明日佳は美しく微笑んだ。

「初めてなのか?」

「意外?」明日佳は小さく一度頷いたあと、聞き返した。

「いや、安心した。俺もそうだし」

「知ってる。でもね、いまからするのは房中術だから」

「ボウチュウジュツ?」

「うん。お互いにを交え合うの。陰陽五行説では森羅万象はすべて陰と陽の相互作用で成り立ってる。ここでは、あたしは陰、航は陽。陰陽が和合して調和を図る。そして万物は生成される」

「……」

 ここでの学校の授業では、やたらと陰陽五行いんようごぎょう説という古代中国で生まれた思想について学ばせられていた。陰陽説と五行説が融合した考え方であり、陰陽説は、万物は陰と陽で成り立ち、男女の関係もそうだという。

「あ、ごめん、変なこと言って。昔から陰陽五行説に興味あったの。房中術は男女交合を通じて不老長寿を目指した養生術なんだよ。陰陽和合いんようわごうとも言って、お互いのを交えることで体内の陰陽の気の調和を図る。初めての相手は航にしたいと思ってた。だからあたしのわがままを叶えて」


 


 翌朝。どこかふわふわした感覚だ。昨夜の出来事が忘れられない。彼女が言うようにちゃんとを交えられたかは分からないが、彼女は満足してくれた。事実俺も初めて味わう快感。気付くと結合した状態で互いにオルガスムを迎え、そのまま果てていた。


 危うく朝8時の大事な用事を忘れかけていたときに、横で寝ていた明日佳が教えてくれたのだ。

「今日は、下野ちゃんに会うんじゃなかったの?」

 まるで、クラスメイトの友達に会うかのような言い草だ。実際に数週間前までは間違いなくクラスメイトの感覚でいたのだが、もう高尚な存在に変わってしまっている。華波多真教国にいる限りは、近付くことすら難しい存在なのだ。席が隣だったとき、そしてショッピングモールでデートしたときとは、えらい変わりようだ。


 屋敷の前に華軒が停車している。大夫の居住区内でもお目にかかることはめったにないとか。他の大夫らは好奇な目を俺に向けてくる。まだ明日佳がいれば、視線を分散させられるが、今回は俺ひとりだ。


「行ってらっしゃいませ」

 世話役の麗輝さんは華軒に乗ろうとする俺を丁重に、そして仰々しく見送る。自分で歩くことが許されるなら、そちらの方がかえって気が楽なのに。

 春官案件だと、こんなに話が大きくなるのか。


 華軒には、あざな克叡こくえいと名乗る人物が引率している。卿で小宗伯という春官大宗伯を補佐する官職の人物だから、かなり上位の立場の人間であることが分かる。だが、見た目は茶髪の20歳代そこそこのちょっと太眉ふとまゆの若い男だ。ここは、日本における年功序列社会とは大きく違うというのか。

「坊主、緊張してるかい?」

「え、あ、まぁ、そうですね」

 緊張していないと言えば嘘になるが、ほんのちょっと前まで間違いなく恋人だったという不思議な関係だ。改めて妙な気分だ。

「大宗伯様は、猊下げいかが、あ、みかど様のことな、この真教国の、もっと言ったら地球上でいちばんの逸材と太鼓判を押すほどの方なんだ。知能、運動、芸術、五感、それから容姿に至るまで、すべてが究極に備わっている」

「そ、そうなんですね」確かに賢いし美しいが、いまいち現実味を帯びていないような感じがする。どう回答したら分からず、適当に相槌を打つ。

「大宗伯がその気になれば、真教国どころか、日本、いや世界を懐柔できるのではないかと俺は思ってる。味方にすればこれほど心強いことはないし、敵に回せば命を危険に晒すほどの脅威だ」

「へえ?」

 思わず頓狂とんきょうな反応を見せてしまった。そんな、仮にも彼女だった人間が最終兵器のような人間だったとは。大宗伯とは言えど、クラスメイトと話すように悠長に構えていて良かったのだろうか。とは言え、用件が分からないので、どう構えようもないのだが。

「まあ、君は大宗伯様が引き連れてきた貴賓だ。大夫だけど、他の大夫と同列に扱うわけにゃいかない。だから、大宗伯様の機嫌を損ねるようなことはしないことな」

「わ、わかりましたっ」

 俺は肝に銘じておいた。大夫だから、ここでの生活もそこまで嫌ではないが、瞳志や華波さんは苦境にあえいでいることだろう。掌の機嫌ひとつで、俺もそうなるかもしれない。そう考えると、俺は自然と背筋が伸びた。

「着いたぞ」

 克叡さんは華軒を停止させ、俺を降ろした。女御らしき人物が、何人も拱手礼をしているその先に、立派な宮殿があった。しかし、發明宮ではないようだ。

「春官大宗伯様の邸宅でございます」

 女御のうちいちばん先頭に立っている人物が言った。この宮殿は掌の住まいだと言うのか。俺が千葉で見たどんな豪邸よりも大きいような気がする。

 華軒は入口からほど近いところに停車したらしく、玄関と思しき扉からはそう遠くなかった。

「では、行ってらっしゃいませ」

 ここから先は女御も小宗伯も入れないのか、玄関の扉が開くと一人で行かせられた。中に係の人がいるのかどうか分からない。扉の中は中国の歴史的な王宮のような、華美な装飾の玄関が広がっていた。

 途方に暮れていると、こつこつと足音が聞こえてきた。

「ようこそ、霜鳥くん」

 下野掌は、いままで出会ったどんな女性よりも美しい笑顔で、俺の懐かしい名前を呼んだ。

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