2-05 綯交

 突然の明日佳の大胆な言動。異国に迷い込んだからこそ起こさせた所作なのか、それとも──。

 俺はとても複雑な気持ちになる。温かさ、かぐわしさ、心地良さ、後ろめたさ、自己嫌悪。いろいろな気持ちがないまぜになっているものの、俺は明日佳の身体を遠ざけることはできなかった。

 ボーン、ボーン。急にどこかで銅鑼どらのような音が鳴り響き、俺はビクンと身体を震わせた。

 屋敷にいる袍服や襦裙をまとった他の者たちが、そわそわと動き出す。時計に目をやると17時55分頃を指している。

「あら、晩ご飯じゃない?」と、明日佳が言った。



 食事は、食堂らしき部屋で配膳される。ここで食べても良いし、自室に戻って独りで食べても構わないという。

 豪奢ごうしゃな食事ではないが、ご飯、2品のおかず、スープ、飲み物。俺にとっては充分な量だろう。次の瞬間、俺はお腹がグーと鳴った。そう言えば今日は昼食を摂っていない。


 お皿は陶器。飲み物はお茶らしきものがガラスのコップに容れられている。そしてお箸。ここまでは日本と大きく変わらないように思えた。

 しかし、周りを見ると、一方の手で他方の手を包むようにしている。拱手礼と言うらしいが、その体勢で少し上を向きながら、何かぶつぶつと唱えている。思えば、初デートのときの掌も同じことをやっていた。

 すると、麗輝さんがやって来て、教えてくれた。

「この国での食事の祈りです。『我らを養う天のみかどよ、この天地の恵の為になんじに感謝す』と唱えて下さい」

 飢えることのない日本では、いただきますと言うくらいで、祈る気持ちなど持たなかった。いかにも宗教らしいが、入信した以上、郷に従わなければならない。見様見真似で俺と明日佳は祈りを捧げた。


 食事は申し分なく美味であった。誰が作ってくれているのか分からないが、日本のよりも米もおかずも美味しいような気がする。米がこんなに美味しいと感じたのは初めてではなかろうか。

 予想外に胃袋を掴まれ、満足して自室に戻った。

 あとは好きな時間に入浴し、就寝すれば良いとのこと。入浴は共用だが、リネン類は用意されている。日本とは少し形の異なる寝間着に戸惑うものの、着てしまえば肌触りも風通しが良く気持ち良いものだった。

 ここに来てこの国のルールを聞かされたときにはどうなることかと思ったが、意外にも快適な生活に安堵していた。俺はきっと恵まれているのだろう。

 茵の上に横たわると、今日の長い長い一日の疲れがどっと湧いた。抗うことはできず、まぶたも重くなっていた。

 思えば、昨日の夜は2回目のデートだと興奮してよく寝られなかったから余計にかもしれない。あのときは紛れもなく自分の家のベッドで寝ていた。しかし入信した以上、もうそこには戻れないと思うと、寂しさを禁じ得なかった。それからこのあとどうなるだろう。不安も抱えながら、俺は眠りに就いた。




 そして次の日。日本では終戦記念日のはずだが、華波多真教国ここではどうやら無関係のようだ。

 実は起きたら一連の出来事は夢で、いつもどおり千葉寺の自宅の布団の中──、ということはなかった。

 朝餉あさげを昨日と同じ場所で済ませる。世間一般の高校生は夏休みだが、ここではその概念はないらしく、真教国唯一の学校に行かなければならなかった。


 制服はないが、指示された青い袍服を着用する。言わばここでは基本的に普段着も制服である。教科書は学校で支給されるとのこと。


 俺と明日佳のいる、ここ春州は礼典や祭祀の所管であり、学校の所管は地州だと言う、小学校、中学校、高校まで地州に存在する。大学はなぜか天州にあるらしい。

 この学校に、真教国内のあらゆる生徒が通うことになる。属する州も身分も関係なかった。だから瞳志もここに来ることになる。


 屋敷から20分ほど歩いたところに高校はあった。地州住まいの人間は良いが、それ以外の人間にとっては多少の距離を歩かされる。身分が下になるほど居住地は外にある。庶人の中には徒歩1時間かけて来なければならない生徒もいるようだ。

 一方で、卿の身分になると馬車移動となるらしいが。


 ふと疑問が湧いた。と言うか、なぜいままでこの疑問が湧かなかったのかと思うほどの初歩的な疑問だ。

 下野掌は、なぜ真教国の外に出て、花美丘高校にわざわざ通っているのだろうか。今後諸侯である掌に相見あいまみえる機会があるか分からないが、もし聞けるのであれば聞いてみるか。


 学校には非常に多くの人間が集まっていた。40,000人もの信者がいるというが、その中のすべての小学生から高校生までが、1か所に集結しているのである。

 あと、真教国の特徴なのか、深刻な少子化の日本とは違い、学生が多いような気がするのは気のせいだろうか。


 学校は広く賑わっている。建築様式は木造だが、やはりどこか中国の時代劇に出て来るような造りだ。それでもさすがに少し慣れてきたのか、あまり違和感はなくなった。一方で、なぜか髪を染めている生徒を結構見かけたりする。染髪は昔の日本でも中国でも一般的でなかったはず。これは俺の中で違和感を増長させる。校則は緩いのだろうか。そう言えば、ここで出会った掌の髪の色も明るかったことを思い出す。


 麗輝さんには入るべき教室を事前に教えてもらっていた。『癸』と書かれた部屋に入るようにと言われている。

「おはよう」明日佳の声だ。「同じクラスだよね?」

 気付くと『癸』という部屋に辿り着いていた。

「まずクラスの読み方が分からんな」

みずのとでしょ。音読みだと

「よう知ってるな」

 席を確認すると、『鳥』と『明』と書かれたそれぞれの札の置かれた机を発見した。そしてそれ以外に席はない。

 まさか二人同時に同じクラスに、しかももはや外国に近い学校に転校なんてなかなかあることではないだろう。

 授業の内容はややハイレベル。日本語だったが、おそらく高校1年後半に習うような内容で難しい。華波多真教語を習う授業もあり、こちらはちんぷんかんぷんだった。

「たぶん、私たちみたいな中途入学の人用のクラスなんだよね?」

 明日佳は言った。なるほど。他の昔からいる人たちのクラスに放り込まれてもついていかないから、それまで、このクラスでみっちり叩き込まれるのだろう。

 ただし、体育と思われる時間は、他の生徒と合同だった。少林寺拳法の授業だったのだが、目をみはったのは先生でも他の生徒でもなく、明日佳だった。

 柔法も剛法もキレが卓越しているのである。明日佳はスポーツ推薦でも入れるくらい武道の達人で、花美丘でも空手部の期待の新星として異彩を放っているらしいことを思い出した。実際に彼女が技を繰り出すところは初めて見た。言葉を失うほど格好良かった。


「日本から来たんだよね? しかもいきなり大夫だなんて」

「僕と仲良くなって下さい」

 強いのに美しい。このギャップにたのか、男がたかっている。ぎこちないが日本語で明日佳を口説こうとしている。信者であっても、異性に興味を持つのは自然の摂理か。

「まーまー、焦るでない」

 明日佳はすっかり男を懐柔かいじゅうし、人気者になっている。ちょっと悔しい。


 ふと、ここにいる皆は道着らしいものを着ているが、どこか気品がある。初対面のはずの明日佳に友好的であることから悟った。ここにいるのは全員大夫だ。学校では生徒は身分別に分けられているのだ。

 瞳志もどこか違うところで授業を受けているのだろうか。日本語を使えないと言う話だから、辛い思いをしているのだろうと思うと、胸が苦しくなった。

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