川の主が死んだ
武田武蔵
第1話 川の主が死んだ
川の主が死んだ。
千年ほど前の、平安の世から長きに渡って務めて来た大蛙は、十五夜を見たいと言って川から上り、通りかかった車に跳ねられ、呆気なく絶命してしまった。
慌てたのは、その主に世話になっていた川の住民たちであった。兎も角、空いた主の代わりに邪神が滑り込む前に、誰が後継者になるか。大蛙を悼む前に、それを決める会議が開かれた。
満月から少しかけた月が、集まったモノたちを見守るように輝いていた。遠くで行われている、時間遅れの葬式に背を向けて、会議は始まった。
「儂は、川風の鬼神殿を推すぞ」
そう言ったのは、数代に渡り大蛙に見守られてきた山女魚であった。その言葉に、指名された狩衣を纏う川風の鬼神は、扇を広げ、
「私に務まる仕事ではない。それに、このように戦争で社を失った身を匿って頂いていただけなのだ。また私の社を作り、祈る者があらわれれば、私は元の場所に戻らねばならん」
「ならばどうするか。鴨の大将はどこに行った」
「俺ならば此処にいるぞ」
山女魚の言葉に、草を踏んで大鴨があらわれた。牡のようで、派手な羽をしている。
「この度は主の大蛙殿のご不幸、お悔やみ申す。まさか俺が居ない間にこのような事になろうとは」
「誠に遺憾な事だ。人間ども」
大鴨の言葉に、鬼神の隣にいた亀が頷いた。
「そうだ、亀殿。あなたは今やこの中で一番の長老。新しい主を引き受けてはくれまいか」
「儂にそのような事が務まるだろうか」
と、亀は首を捻った。満更でもない様子であり、本心では、川の主の座が己に来たらどうだろうかと、大蛙の存命時代に考えた事もあったのである。
川の主は、山や谷の主とは違い、より人間に寄り添って生きてきたモノである。最近は塵で汚れ、朽ちかけた川や、ヘドロが息をなすものもある。幸い大蛙が主をしていた川は、自転車が沈む程度の汚れの川であったが、やはり、清流には勝つ事は出来まい。会議に参加している山女魚自身も、次は他の仲間たちと共に、比較的綺麗な隣の川で繁殖をしようと考えている程であった。
「私は、亀殿を推そう」
と、川風の鬼神は広げた扇で口を隠した。
「やはり、大蛙殿の後を継げるのは、集まったモノたちの中で亀殿が一番だろう。亀殿が新たな川の主になるのならば、私も安心して次の社に移る事が出来よう」
「次の社など、いつ決まるか」
「なんだと、」
亀の言葉に、鬼神は気色ばんだ。しかし、やはり適役であるのは亀なのであろう。そこそこ野心もあり、繁殖に訪れた魚たちを護る役目は、此処数百年彼が努めていたのである。
「まぁまぁ、鬼神殿もそう短気にならずに。兎に角、邪神が川に棲み付く前に、新しい主を決めなければならん。恐らく、今夜中にであろう」
大鴨が間に入り、言った。
「では、大鴨殿がなられれば良い。繁殖に使われておるのだから」
山女魚が言葉を継いだ。すると大鴨は、
「俺は渡り鳥だ。留守にする事が多い」
「やはりそうなると……」
三つの視線が、亀に集まった。
「亀殿、どうかあなたに次の主を努めされて頂きたい」
山女魚の懇願に、亀は首を伸ばした。
「やはり、儂が適任か」
と、亀が折れたその時であった。
「あ……っ」
と、言う声がし、やがて波紋が水面に広がった。
「どこぞの餓鬼が川に落ちたのだろうか」
鬼神は彼方を見た。針のように細い手が、水からもがいているのが見えた。髪が長い、少女のようである。
「助けに行かなくてはならんな」
大鴨は羽を広げ、手の見える方角へ飛んでいった。
「我々も行こう」
と、亀が口を開く。すると鬼神が言った。
「山女魚や亀が行ってどうなるものか。ここは私が助けよう」
そう言って、川の上を滑るように走り、大鴨よりも先に、素早くその腕を掴んだ。水で濡れているが、やはり少女のようである。
「娘よ、何故川に落ちた」
少女を腕に抱え、橋の上まで届けると、鬼神は問うた。
「蛙さんの言っていた事は本当だったのね……」
少女は呟く。
「蛙さん?」
おうむ返しに鬼神は尋ねた。
「私、心の病だったの。それで、家に隔離されていて、時折女中さんにも見つからないように屋敷から抜け出して、この川に来ていたの。その時に、喋る大きな蛙さんにあったのよ」
「成る程」
鬼神が頷いた。黒髪の、着物姿の少女は、辺りを見回した。
「あれ、蛙さんは」
「主はあの世へ旅立たれた。車に引かれてな」
何故己は見知らぬ少女にこのような話をしているのだろう。鬼神は少し疑問に思いながらも、言葉を吐いた。
「じゃあ、あなたが新しい川の主、」
少女は無邪気に聞いてくる。
「いや、私は……」
鬼神は言い淀んだ。
「あのね、私、蛙さんから頼まれ事をしているの」
少女は言う。
「もし自分が死んで、次の川の主を決める時が来たら、私に主の名を譲るって、言われたの」
「何だって」
これには、集まっていたモノたちは酷く驚いた。突然川から聞こえてきた声に、少女は思わず辺りを見回していた。
「娘よ、しかしお前は屋敷から出られない存在なのだろう」
「いいえ、もう、そんな事はないわ。此処に縛り付けられても、私は大丈夫な存在になったわ」
ほら、と、少女は己の足を指し示した。本来足のある所は、ぼやけて存在しない。
驚いたのは今まで会議をしていたモノたちであった。少女は落ちたのではなく、川と同化しようとしていたのである。
やがて空に碧みが差してくる。
「早く、川の主にならなくちゃ。邪神が入り込むのでしょう」
少女は言って、再び川に飛び込んだ。
空は碧が差してくる。新しく川の主になった少女は、天女の如き姿で、昇る朝日を見ていた。
川の主が死んだ 武田武蔵 @musasitakeda
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